16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ

その手で私を愛して 1508年 ミラノからフェラーラ(イタリア)

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<ソッラ、ダンボワーズ伯、ミケーレ・ダ・コレーリア、パン屋のマルガリータ、ニッコロ・マキアヴェッリ>


 1508年の春がはじまろうとしている。

 イタリア半島北部のほつれを縫うように、ミラノからフェラーラに移動している3人の一行がいる。女性が主人で従者の男性が2人ついているのだ。3人とも馬に乗っている。主人にあたる女性も乗馬用に誂(あつら)えているズボンを履いて馬に乗っている。その少し後方で両脇を固める位置に従者が付いている。一見したところ、上流貴族の女性とはいえなかった。それでも従者の忠誠は上流貴族の婦人に対するそれと何ら変わることはなく、たいへんうやうやしいものだった。従者は二人ともミラノの実質的な支配者、ダンボワーズ伯の使用人である。

 女性は馴れたように馬を操っているが、その表情は漆黒(しっこく)の闇のように暗かった。目を開けていても閉じていても変わらない、真っ暗な闇。
 すでに春を告げる鳥が空を舞い、野の花もところどころに咲き始めている。本来なら誰もが浮かれて踊り出したいような、そんな陽気なのである。
 一行が進む道は北イタリアでももっとも美しい辺りにさしかかっている。山々を抱いた美しい湖をいくつも望むことができるのだ。湖の明るい青は静かに透き通り、空の青と対をなしているようにも見える。

 しかし、彼女の心は2月の雪の中に深く閉じ込められて、凍り付いてしまっていた。

 ソッラ、フィレンツェ育ちの20歳の娘。両親はまだフィレンツェにいて、ずっと鍛冶屋をやっている。ソッラは愛称で、本名は違う。あまり明らかにしたくないようだ。ミラノでもソッラとしか名乗っていなかった。この頃は名字がなくて、出身地で呼ばれることも珍しくなかったので特に問題はない。愛する男が彼女をそう呼んでいたので、ソッラは一生それを通すのだと固く決めていた。

 なぜフィレンツェの鍛冶屋の娘が、ミラノからフェラーラに従者付きで移動しているかについては、説明する必要があるかもしれない。





 ほんの少しだけ、1年半ほど話がさかのぼる。


 ソッラはフィレンツェでひとりの男と知り合った。

 彼は彼女の父親がやっている鍛冶屋に自らの剣の打ち直しを頼みに来たのだ。彼の剣は長い間使われておらず、刃こぼれや錆が出ていた。看板娘のソッラは鍛冶師の父親とその男のやりとりを興味深そうに聞いていた。いつもの父親ならばこう言うはずだ。
「お客さん、これじゃあもう使い物にはならないね。くず同然だよ。こっちは下取りするから新しいものを誂(あつら)えたほうがいい」

 パパは頑固な職人の風をしているけれど、そういったところはちゃっかりしているから。だって、買い換えてもらったほうがよほど儲かるもの。最近はアルケブス(銃)のほうが重宝されているし、剣は昔の道具よね。だから修理にあまり時間をかけたくないの、それが処世術――とソッラは現実的な観測をし、また父親の決まり文句を待っていた。しかし、父親はそうは言わなかった。

「これはまた……何と立派な剣だ。これは眼福ですぜ。少しお時間をいただくと思いますが、精魂込めて打ちます。よろしいですか」

「ああ、ただあまり時間はない。できるだけ急いでほしい。代金は相応に払えると思う」
 言葉少なに語る客はひょろひょろと背が高く、真ん中分けにした黒髪が無造作に肩まで伸ばされていた。黒いマントで現れたその姿にはある種の凄み――戦場の修羅場を何度も潜り抜けてきたかのような――を感じさせる。でもソッラはそれが判別できるほど大人ではなかったし、戦いに駆られる男でもなかった。

「お客さん、うちはフィレンツェでも多少は名の通った鍛冶屋よ。それに、パパが一目で剣に惚れるなんて滅多にないことなの。たいていはクズ鉄扱いだもの。だからじっくり打たせてやってね」とソッラは言って、満面の笑顔を見せる。

 その笑顔を見た男は面食らったような顔をして、その場に突っ立ったままでいる。そして、しばらく沈黙したのちにようやく、「わかった。1週間したら様子を見に来る。とりあえず前金だ」とだけ言って、ソッラにフィオリーノ金貨を手渡した。

 金貨! いきなり前金でって、値段も聞かずにフィオリーノ金貨! このお客さん、いったいどこのお大尽さまなんだろう! 見た感じは貴族っぽくないのに。

 ソッラは自分の手に収まったフィオリーノ金貨をじっと見つめていた。
「じゃ、よろしく」と言って男は背を向けて去っていった。ソッラは父親の方を振り返った。父親はもう剣の状態を細かく確認して、熟練した徒弟と相談をはじめている。
「ねぇ、パパ、パパったら」とソッラが声をかける。
 戸口からは想像ができないほどの奥行きがある鍛冶屋の建物の中は、カン、カンという金属音とゴォーっと勢いよく火が燃える音で充満していて、他の音はかき消されてしまう。それほど離れた場所にいない父親だが、ソッラの声はまったく耳に入っていないようだ。ソッラはまた大声で呼びかける。
「何だ?」と父親がようやくソッラの方を向く。
「フィオリーノ金貨だよ。あのひと、どこの貴族なのかな」
 それを聞いた父親は、ああ、といった風で愛娘に説明を始める。
「この前、フィレンツェ共和国軍ができたとか言って、パレードをしていただろう。あれで鍛冶屋もてんてこまいだったが」と父親が顎を撫でる。
「うん、ちょっと見世物行列みたいだったけどね」とソッラが笑う。
「それをもっと本式の軍隊にしようってことで、外から名のある将軍を呼んできたらしい。あのお客がその人じゃないか。だって、この剣は……」と父親が少しためらう。
「その剣は、何なの?」とソッラが問う。
「ボルジア家の紋章が入っている。おいそれとは扱えねえ品だぞ」と父親が小声になる。
「ボルジア家? 何それ」とソッラが素っ頓狂な声で聞き返す。
「ばか! 大声で言うんじゃない。前の教皇さまだよ、ボルジアってえのは」と父親が軽く叱る。
 徒弟には怒声を浴びせる父親だが、ソッラに厳しく叱ったことはない。目に入れても痛くないほどに可愛がっているのだ。ソッラは思わず、首をすくめてちぢこまった。

 でも、ちょっと素敵な人だったな。やっぱり男はおしゃべりじゃない方がいいもの。

 ソッラは首をすくめながら、そんなことを考えていた。

 一週間後の、ぴったり同じ時間に、その客は再び現れた。最初に来たのも、教会の鐘が鳴り終わった後だった。ソッラは客の几帳面さに少々驚いた。
「お客さん、いらっしゃい。剣は仕上がっているようですから、今お持ちしますね」とソッラはにこやかに答えた。その顔を客はまじまじと見て、はっとしたようにうなずいた。

 剣はもう仕上がっていた。ローマから来た名うて(らしい)の軍人と、その立派な剣に最大限の敬意が払われたことは想像に難くない。鍛冶屋もこれが力の見せ所とばかりにがんばって仕上げたのだろう。客はその剣をすっと抜き、仕上がりを確認する。剣を持ってきたソッラはその様子をじっと見ていた。剣を扱い馴れているそのしぐさは騎士の見本のように無駄がなかった。ソッラは彼の大きな手に目をやった。

 大きくて、少し節ばっているけれどしなやかな手。

「お客さんの手、大きくてとてもきれい……」とソッラはつぶやいた。

 剣を握っていた客はその言葉にぎょっとした様子で、慌てて剣を鞘に収め、左手でそれを持つと、自分の右手をまじまじと見つめた。そして目の前の娘に言った。
「きれい? この手が?」
「はい、とても」とソッラは微笑んで返した。
 男はまた自分の右手を見て、一瞬だけ、とてもつらそうな顔をした。ソッラはそれを見過ごさなかった。
「ごめんなさい、私余計なことを言ってしまった?」とソッラは聞く。

「いや、この手をきれいだと言われたのは生まれて初めてだ。自分でそんな風に思ったこともない。人生というのは、どんなに慣れたつもりでも、初めてということがあるものなのだな……ありがとう」
 そう言って、男はかすかに微笑んだ。

 フィレンツェのその鍛冶屋に男はたびたび訪れるようになった。そのうちにソッラの耳にも彼の素性についていくつかの情報が入ってくるようになった。

 ミケーレ・ダ・コレーリア、スペイン出身。通称はドン・ミケロット。30歳を少し超えている。前教皇アレクサンデル6世の息子、チェーザレ・ボルジアの右腕と言われた司令官。チェーザレは父の衣鉢を継いで枢機卿の地位まで上ったが、聖職を投げ打って教皇軍司令官となりフランス王の後ろ盾を得て、イタリア半島中部の征服に取り掛かった。ここフィレンツェにもその攻略の手は伸ばされるところだったが、その前に失脚し、今はスペインに幽閉されている。ミケーレは常にチェーザレの側に付き、イタリア中部の攻略でも方面司令官として大きな役割を果たしていた。チェーザレが失脚した後も最後まで忠節を尽くして、教皇庁の聖天使城(カスタル・サンタンジェロ)に捕われたのち、フィレンツェに至る。

 ソッラはその経歴を聞いてもあまりピンとこなかった。
 なにやらすごい武人なのだ、ほどの印象しか持たない。それよりも、彼の手を褒めたときのつらそうな反応ばかりが気になった。彼は戦争で多くの人を傷つけたことを悔やんでいるのだろうか。武人というのは、他の人間を傷つけることが仕事だ。鉄は打たれて美しく輝くが、人は打たれれば死んでしまう。それで彼は自分の手を誇らしく思えないのだろう。鍛冶屋は自分のごつごつした手を誇らしく思うのに。

 いつのまにかソッラは彼、ミケーレのことばかり考えるようになっていた。


 ある日、みんなの食事を買いに出たソッラは行きつけのパン屋で固まりのパンを大量に買い込み、それを持参した大きな麻袋に詰め込んでいた。店の奥からパン屋の娘が出てきて、ソッラに話しかける。黒髪でぱっちりとした目、優しい表情が印象的だ。

「ねぇ、最近、よくフィレンツェ軍の司令官さまがあなたに会いに鍛冶屋に行くって、評判になってるわ。本当にそうなの?」と彼女は興味深そうに言う。パン屋の娘はマルガリータという。ソッラとは気心の知れた友人だ。
「え? そうなの? あのひとは武具を誂えに来るだけよ。そんなに話もしていないし」とソッラは驚く。
 マルガリータはうっとりとした表情で続ける。
「人の噂が真実を語っていることも時にはあると思う。あの司令官さまはちょっと憂いを帯びていて、とても素敵だわ。そんな風にあなたが思われているとしたら、司令官さまは騎士で、あなたがお姫さまなのよ! まるでおとぎ話みたいじゃない」

 それは……吟遊詩人の恋愛話を聞きすぎたのじゃないかしら、とソッラは思う。

 それよりも、ソッラはマルガリータに確かめておかなければならないことがあった。
「ねぇ、シエナにはいつ行くの? ここを店じまいしてしまうと聞いて、うちの人たちみんなすごくがっかりしているの。最後に荷車で運ぶほど買いだめしておかなきゃね」
 マルガリータはそうだった、という顔をして話を変える。
「あぁ、今月中で店は閉めるわ。最後の日にどれだけパンを焼いたらいいのかしら。パパもすごく悩んでた。たぶんかまどは何日も働き続けなきゃいけないわね」とマルガリータは苦笑する。彼女の父がやっているパン屋はたいそう評判がよく、シエナの貴族からぜひ来てほしいと懇願されて店を移転することにしたのだ。

「さびしくなるわ……」とソッラがつぶやく。
「でも、私たちにはまた、新しいことがどんどん起こると思う。実際、あなたにも新しいことが起こりそうじゃない」とマルガリータが笑う。

 マルガリータと話した後、ソッラは大きな麻袋を抱えてシニョリーア広場を横切っていた。フィレンツエ共和国政府の庁舎でもあるヴェッキオ宮殿が高々とそびえたっているが、パンの袋を両手で抱えるようにして歩いているソッラにはその威容も見えない。いつもならば高塔が自分に傾いてくるのではないかと心配して、それを避けるために、広場を歩く座標を決めているほどなのに。ソッラはときどき心配性になるのだ。
 ふっと、ソッラは石畳に足を取られた。つまずいてパンの袋ごと前に転びそうになる。
「きゃっ!」
 パッと駆け寄ってきた誰かがパンの布袋と、彼女の身体を丸ごと受け止めた。ソッラは誰が受け止めてくれたのかわからず、パンの布袋をいったん地面に置いてお礼を言おうとした。相手の姿を見て、ソッラは心臓が止まるかと思った。

 ミケーレ! ミケーレ・ダ・コレーリア!

 ミケーレも助けた相手がソッラだと気付いていなかったらしく、同じように驚いている。そして、ミケーレは自分の手をまたじっと見つめてから、ソッラに言った。

「私の手はどうやら、パンがぎっしり詰まった麻袋の女神にめぐり合えたようだ」

 ソッラは笑って、袋からパンをひとつ取り出して、ミケーレに渡した。
「ありがとう。パンの女神がお礼にパンをさしあげましょう。手を出して」とソッラが笑う。ミケーレは素直に手を出した。ソッラはその手にパンをひとつ載せるついでに、彼の手を自分の手でやわらかく包み込んだ。
「私を受け止めてくれた、あなたの素敵な手に祝福を」

 それを聞いたミケーレは、嬉しそうに笑った。そして、少しためらった後で言った。
「今度、散歩に誘っても……」
 ソッラはすぐに嬉しそうにうなずいた。

 二人は恋人同士になった。

 とは言っても、ミケーレ・ダ・コレーリアはフィレンツェ軍の司令官である。他国との大きな戦争には見舞われないものの、フィレンツェ共和国内での騒乱は何回か起こった。そのたびにミケーレは軍を率いてフィレンツェを出発する。恋人同士が甘い時間を過ごしている余裕はなかったのだ。

 それでも、二人は暇を見つけては会って、会っているときはいつもぴったりと身を寄せ合っていた。彼女の父親も自分の愛娘が司令官と恋に落ちたことを多少苦々しくは思っていたものの(それが父親の常である)、黙認していた。
 一方、ミケーレを招聘(しょうへい)したフィレンツェ政府の役人、ニッコロ・マキアヴェッリもこの件については微笑ましく眺めるだけで、そっとしておくことにしていた。ミケーレ、いや、ドン・ミケロットは幼い頃からチェーザレ・ボルジアの側について、ずっと彼の意向に従って生きてきたのだ。ドン・ミケロットはそれを不自由だとは感じていなかったのかもしれないが、一般的に言えば自由ではない。今彼がフィレンツェに来て、自分の意思で恋をしているのだとしたら、それは何と素晴らしい自由だろう。チェーザレ・ボルジアが生きていたら、今のミケロットを見て何と言うだろうか。

 いや、チェーザレ・ボルジアが本当に死んだのか、まだ分からないのだ。
 彼が生きている、と信じている人間はまだたくさんいるのだ。
 ドン・ミケロットも当然そのひとりである。


 ミケーレはある日、意を決したようにソッラに告げる。

「部屋に……一緒に来て」

 ソッラはそう言われるのを心の底から望んでいたような、そう言われるのを1日延ばしにしておきたいような、不思議な気持ちになった。男にからだを任せる、ということに対して迷い、逡巡(しゅんじゅん)する気持ちである。
 それでも、目の前の男をまるごと信じて愛している場合にのみ、迷いは簡単に飛び越えることができる。

 ソッラはその日、処女ではなくなった。

 ミケーレはソッラの処女のしるしを見て、彼女の柔らかいからだに手を伸ばした。そして涙目の彼女を抱きしめてずっと撫でている。ソッラはこれまで感じたことのないような幸せを感じていた。

 この温かくて大きい手にずっと守られていたい。
 この手で、からだと心のすべてで、ずっと私を愛してほしい。
 私はこの人と一生をともにするのだろう。

 ソッラはそんな予感がしていた。

 しかし、幸福な恋人同士に、運命は甘い時間を約束してはくれなかった。
 ミケーレ・ダ・コレーリアに反発する貴族がフィレンツェ共和国議会の中で幅を利かせるようになってきたのである。彼の司令官としての才能についてではなく、彼がフィレンツェの出身ではないこと。かの悪名高きチェーザレ・ボルジアの残忍な腹心だったこと。今はもう残忍な腹心ではないのだが、反対する人間は彼のこれまでの経歴が許せないのだ。どんな人間もその部分だけは改善することができない。過去を修正できる人間がいるはずはない。悪く喧伝(けんでん)される例ならばいくらでもあるが。

「フィレンツェ軍はフィレンツェ人が統率するべきだ」が反ミケーレの合言葉だった。

 ミケーレはマキアヴェッリが礼を尽くして地下牢に迎えに来てくれた恩を感じていたので、軍にとどまるかどうかはマキアヴェッリの判断でよいと思っていた。もともとフィレンツェで一生暮らせるとは思っていない。チェーザレ・ボルジアが召集をかければ、すぐに駆けつけるつもりだったのである。


 かつて、チェーザレ・ボルジアが「3日ごとの熱」(マラリア)にかかったとき、彼は遠征先から瞬時に駆けつけて、教皇庁をすべて封鎖した。チェーザレのために働く、そのような機会はまたあるのだろうか。

 チェーザレ・ボルジアは1507年の3月11日にナヴァーラ王国ヴィアナの戦闘で、敵に取り囲まれて倒れた。それは本当なのか。ミケーレは信じていなかった。それから半年経っても信じていなかった。チェーザレはどこかに逃げ込み、きっと再起を果たすはずだ。
 しかし、いまチェーザレが生きているという噂があっても信憑性の低いものばかりだ。ミケーレは聞くたびにがっかりするばかりだった。彼の希望は今やソッラしかなかった。


 1507年10月、ミケーレ・ダ・コレーリアはフィレンツェ共和国軍の司令官を解任されることとなる。フィレンツェ政府から受けていたものを返上して、出て行くことになる。

「離れたくない……離れたくないの」とソッラは泣きじゃくる。

 ミケーレも同じ気持ちだが、これからの身の振り方も決まっていないのに彼女に付いてきてほしいなどとは口が裂けても言えるものではなかった。どこに向かうのかすら決めていないのだ。現在の教皇はチェーザレ・ボルジアを陥れた張本人だから、その息がかかった土地で働くことは困難だ。場合によってはイタリア半島を出て行かなければならないかもしれない。彼女の親がそんなことを許さないだろう。

 自分のためではなく、彼女のためを思って、彼は日を明かさず早々にフィレンツェを発つことにした。

 フィレンツェを去る日の朝、シニョリーア広場の石畳を踏みながらミケーレはソッラのことを思い出していた。
 パンをいっぱい詰め込んだ麻袋を抱きかかえて、まるでパンの袋が歩いているみたいだった。ミケーレはそんなことを思い出して笑った。
 いや、はじめは花がいっせいに咲いたような、はじけるような笑顔に魅せられたのだった。
 そして、はじめて彼女を抱いたときのこと、その柔らかい肌、小鳥のような愛らしい声……考え出すと足が止まってしまう。ミケーレは顔をしかめて、振り切るように広場を去ろうとした。そのとき……。

 ソッラが大きな荷物を今度は背中にかけて、ミケーレのほうに走ってくる。走らないとミケーレが逃げてしまうと思うのだろうか、必死に走ってくる。ミケーレも思わず駆け寄る。そして、ソッラは勢い余って、また石畳につまづく。

 それをミケーレがしっかりと抱きとめる。そして、ぎゅっと抱きしめる。
 ふたりのからだも唇も、もう二度と離れようとはしなかった。

 シニョリーア広場に鐘が響き渡る。
 フィレンツェの朝が今日もやってくる。
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