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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル
焰(ほのお) 1540年 リスボン
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※今回のお話には残酷なシーンがあります。あらかじめご了承ください。
<フランシスコ・ザビエル、シモン・ロドリゲス、ポルトガル国王ジョアン3世、マルティン・アスピルクエタ(ナワロ博士)、訴える男性>
1540年初秋、私を含めたマスカレンニャス大使一行はリスボンに到着した。
リスボン、坂だらけの大きな港町。大西洋ばかりが広がる地。イベリア半島の果ての地である。アントニオ、行くことはないかもしれないが、あなたの知っているポルトガル商人にせよ、総督にせよ、大半がここリスボンから船で大海原に出て行ったのだ。
この街にはローマやパリにはないものがある。
「果ての地」ということからくる、どこかしら哀愁を帯びた色合いだ。
私たちがリスボンに到着し、宿所に当てられたのは貴族の居館だった。この旅を通じて、大使にふさわしい豪華な宿ばかりだったのだが、この居館は調度も立派で部屋も広い。私は正直面食らったよ。そして……。
シモン・ロドリゲスが待っていてくれたのだ!
シモン・ロドリゲスは郷里に立ち寄った後、船でリスボンに向かった。そして陸路の私たちより早く到着したのだ。異国で会う仲間の顔の、何と懐かしいことか! 彼もこの宿所に滞在していたのだ。
しかし、彼はずいぶんと痩せていた。リスボンに着いた早々、発熱して倒れたのだ。
「3日ごとの熱」(マラリア)だろうと医者に診断されて、何日か寝込んでいたが、それが収まって以降は新たに熱は出ていない。「3日ごとの熱」でないと医者が診断を下せば、国王ジョアン3世への謁見が叶うという。私はシモンの熱が再び現れないよう、神に祈るばかりだった。
シモンの熱は幸いにもそれ以降はあらわれなかった。
そして私たちは、イタリアから合流していたミセル・パウロとフランシスコ・マンシラスも同伴して、国王ジョアン3世に謁見することとなった。国王に謁見するのは初めてのことなので、たいそう緊張したよ。
初めてのことは嫌いではないのだが、常に堂々としていられるかというのはまた別の話だ。
ジョアン3世は恰幅(かっぷく)がよく豪快な方のように見えたが、話してみると頭の回転が速く、私たちは矢継ぎ早の質問攻めにあったよ。ローマやパリから遠く離れた地の王だということもあるのだろうか。王は常に新しい情報を求めていた。それを知らないことで窮地に陥る愚は避けたかったのだろう。
特に隣国スペインを統べる王は神聖ローマ帝国の王カルロス5世でもある。その圧力は想像以上のものだっただろう。
幸い、カール5世は他の戦いに忙殺されていたし、ポルトガルは海外拠点を増やすことでその国力を強めていたから当面の心配はなかった。ジョアン3世の妻、カタリナ王妃はカール5世の妹君であることも安心できる理由だった。
さて、ジョアン3世とカタリナ王妃はサン・ジョルジュ宮殿の大広間で私たちを迎えてくださった。国王はにこやかに私たちの旅の苦労をねぎらった後、イエズス会の結成と教皇庁からの認可(教皇教書が出るのはまだだった)に至るいきさつを聞きたいとおっしゃられた。
私が、イグナティウス・ロヨラの回心と修養、パリ大学でピエール・ファーブルと私に出会ったこと、ロヨラの教化でシモン・ロドリゲス、アルフォンソ・サルメロン、ニコラ・ボバディリャらが加わったこと、モンマルトルの丘での誓願、ローマで教皇パウロ3世に謁見して励ましを受けたこと、イェルサレムへの巡礼が難しく断念したこと、ヴェネツィアやローマ、イタリア半島各地での奉仕、宣教活動――などを説明した。
思えば、私たちの歩みを王侯の前で、いやそれ以外でも一通り語ったことはなかったように思う。このいきさつを述べるだけで少し時間がかかった。
ジョアン3世はさらに、ローマで私たちが異端だという非難を受けた件についても話を求められた。この件についてはすでに疑いが晴れていたので、その事実関係だけを簡潔に述べた。特に不安には感じていなかった。異端になったものを教皇が認可するはずはない。それは国王睨下も納得されて、私たちに祝福の言葉をくださった。
会話が終わったあと、国王はドンニャ・マリア王女とドン・ジョアン王子を呼ばれて私たちに紹介してくださった。
王は、「9人の子に恵まれたのだが、悲しいことに次々と幼くして亡くなり、涙を乾かす暇もなかったのだ」と言い、王女と王子を愛おしげに撫でられていた。王妃も隣で静かにうなずかれている。
「さて、フランシスコ、せっかくわが王宮に来てもらったのだから、城の近習たちの告解(告白)を聞いてやってはもらえないだろうか。疲れているのにたいへん申し訳ないのだが、みなあなたたちに聞いてもらいたいと私にせがむ始末だ。できる限りで構わない。どうかお願いしたい」
もちろん断る道理はない。私とシモンはその役割を果たせそうだったが、ミセルとマンシラスはまだ司祭ではなかったので、私たちから離れたところでその様子を見ているように伝えた。
聞けば、王宮では若い近習・侍女らが8日ごとに告解をするように定められていた。王宮の中から善き習慣を広めようとの考えに基づくものだった。
私もシモンもこの頃から気づきはじめたことがある。
ポルトガルという国が、国王が、「敬虔なキリスト教徒」であることに執拗なほどこだわるということを。
それは「プレスター・ジョンの国」、すなわち敬虔なキリスト教徒の王が治める国に憧れていたエンリケ航海王子の系譜なのだと考えることもできる。
しかし、事情は複雑だった。
その事情の片鱗(へんりん)はポルトガル大使気付で届いたマルティン・アスピルクエタ(ナワロ博士)からの手紙でも感じることができた。
彼は遠縁ながら20歳になるまで交流していた大切な血縁者である。そして私あて、大使気付の手紙を40レグア離れたコインブラ大学(リスボンより200km北方)から送っていた。
私はどこかで迂回していたその手紙を王宮から戻った後で読んだ。
手紙を握りしめているだけで、なぜか涙がこぼれたよ。開く手ももどかしく、私はその手紙を読んだ。バスク語で書かれている!
――親愛なるフランシスコ、
おまえがリスボンに向かっているという手紙を受け取り、私は思わず神に感謝の祈りを捧げたよ。その顔を最後に見たのはいつだったのか、まだもうろくしていないはずだが、よく思い出せない。おそらく、マリア(アスピルクエタ、フランシスコの母)が亡くなる前のことだから、もう20年近く前のことだろう。フランシスコ、おまえは私のことを「目の上のたんこぶ」だと思っていたに違いない。パリ大学に進学を決めたときも、おまえが新しい修道会をつくると書いてきたときも、いちばん口うるさく手紙を書いたのは私だからだ。
でも、これだけはわかってほしい。父親を幼くして亡くしたおまえのことを、マリアは誰よりも心配していたのだ。私はそれを知っていたから、おまえの父親になることはなくとも、よい相談相手になってやりたかったのだ。それにおまえの利発さは群を抜いていたから、学に携わるものとしておまえの才能を最大限に伸ばしてやりたかったのだ。そこで、もっとおまえの気持ちを聞いてやればよかったのだが、「ああしろ、こうしろ」、具体的には、「サラマンカに来い」ということばかり、責めるように求めてしまった。
今さら言っても仕方のないことだから、少しばかり理解してもらえばそれでよい。本当にすまなかった。
おまえたちの会士がポルトガル国王に招かれて東洋宣教の旅に出るという噂を耳にした。ポルトガル随一の大学で教授をしている人間を甘く見てはいけない。それぐらいの話はすぐに入ってくるのだ。
その意味をよく考えて、おまえの本意に適う、なすべきことだと決めているのなら、私が言うことは何もない。また口うるさい頑固者だと思われたくはないからな。
ずっと聞いてきたよ、おまえの道のりは。サラマンカでも、ここコインブラでも。おまえがジョアン3世の御前でどんな風にこれまでのいきさつを説明するかも容易に想像できる。私の名前は面倒だから出さないだろうが。
私がおまえを黒い羊(厄介者)だと闇に葬ってしまうと思っていたか? 違う、わたしがどれほどおまえのことを、シャビエル城を出てからずっと気にかけて、心配してきたか! それは今でもまったく変わっていない。その前提でよくよく読んでほしい。
おまえたち修道会の志や理念はよくわかっているつもりだ。そして、実際に奉仕活動を積み重ねて司祭として一人立ちしたことも祝福しよう。
ただ、東洋、インドでの宣教活動についても、ここポルトガルでの宣教活動についても私はおまえにしてほしいとは思わない。おまえの頑固な親戚としてではなく、大学の法学博士としての客観的な意見として言う。それはどんなに冷静に表現しても、おまえの志、理念とはまた異なる性質を持っている。
おまえはそれを乗り越えて、自身の理念を通すことができるか。もし、それができるのならば、やる価値はあるかもしれない。
大昔、シャビエル城の書斎にはプルタルコスの本があったな。おまえはろくにラテン語も読めないくせに、いっしょうけんめいアレクサンドロス大王の話を読んでいた。おまえにとっては彼がいちばんの英雄なのだろう。そして、それがラテン語の教師になったのかもしれないが。もしおまえに言ってやれることがひとつだけあるとしたら、そのときの気持ちを思い出せ。
おまえの心がもともと持っているものを大切にしなさい。
リスボンにいる間に一度会えるとうれしい。私はこのような仕事なのでなかなかコインブラを離れるわけにはいかないが、おまえに余裕ができそうな時を教えてくれると幸いだ。船が出るにしても来春の話だろうから。
長くなったので、この辺りで筆を置く。
いつもあなたを心から愛している
マルティン・アスピルクエタ――
私は手紙を胸にかき抱いて、泣いた。涙が手紙に落ちないよう、袖で何度もぬぐった。
マルティンは私がイエズス会で活動していることをほうぼうで聞いてくれていたのだ。もうそのことに対して何のわだかまりもないのだ。コインブラ大学教授としての知性と理性をもって、大切な血縁者の身を案じてくれているのだ。私はもっと、もっとマルティンにいろいろなことを相談するべきだった。ポルトガルに来ることが急に決まったにせよ、それ以前にもっと相談することができたはずなのだ。
マルティンに会いたい。
彼の言うとおり、インドに発つ船が出るのは3月だ。それまでの間に一度時間を作って、マルティンに会う機会を作ろう。そして、長年かけてくれた愛情に応えなかったことを謝りたい。そうでなければ、私は心置きなく活動することができない。そんなふうに思ったのだよ。
そして、
マルティンの言う通りだった。ポルトガルで私は自身の目的をもう一度考えさせられる出来事に遭うことになるのだ。
私とシモン・ロドリゲスを中心に、ミセル・パウロやフランシスコ・マンシラスを加えたポルトガルのイエズス会士は、船が出るまでの間、それぞれ宣教活動に取りかかることとなった。国王ジョアン3世の命のまま、王子や王女に話をしたり、教会で説教もするようになった。また、リスボンに来ているコインブラ大学の学生に対して宣教活動も行った。
ジョアン3世は、「イエズス会は私たちの会だ!」と公で仰られるほど、私たちのことを気に入ってくださっているようだった。
私たちは宮廷に何度も召し出され、そのたびに新たな賞賛の言葉を聞くのだった。リスボンにイエズス会士のための学院(コレッジョ)も築くべきだ、そのために費用や土地を提供するのもやぶさかではないとまで口にされた。そのため私はイニゴに手紙でたくさんの依頼をした。
霊操(イニゴの発案した修養法)の指導者が多く必要なので追って人を派遣してもらう必要があること、
教皇パウロ3世による教書(イエズス会を新しい修道会として認可する)の写しを送ってほしいこと、
ポルトガル国王に対しローマからも丁重に礼を述べてほしい--などである。
しかし、それほどまで国王に歓待されていることへの疑問が生まれてきたのだよ、アントニオ。
ただただ善良なだけの人というのはいないし、ただただ悪だという人もいない。
怖いのはそれがなかなか見えてこないことだ。漠然とした不安があって、疑問が生じているなら、静かに自分の心に問いかけてみるべきなのだ。心で判断しなければいけない。私はリスボンについたころの狂騒から自分を一歩離して見ることにしようと思っていた。人の話だけ聞いていたら、それに左右されてしまう。
活動する中で、まだ拙いものの、ポルトガル語も話せるようになってきた。習うより慣れろというが、それは本当のことだ。
この頃には、現地の司祭にも知己を得るようになった。親しくなった司祭たちには一様に言う。
「インドには行くべきではありません。かの地は商人と軍人と船乗りしか行かないのです。現地の人を改宗させることなどできるのでしょうか。どうかリスボンに留まってください」
また、国王が私たちを歓待することに不満を持つ司祭も少なくなかった。
どちらかと言えばそのほうが多かったのかもしれない。
確かに、「教皇の命でどこにでも行く」などと言う司祭はいないから、私たちの活動も眉唾(まゆつば)ものだと思ったのだろう。
光があれば、必ず影はできる。そのようなことはすでに身に付けていたつもりだったのだが。
それは9月半ばのことだった。
ジョアン3世は私たちをお呼びになり、「異端審問所の留置場にいる者らに説教をしてやってほしい」と仰せになった。私とシモンはそれに応じた。
アントニオ、異端審問所というのは「キリスト教に改宗していない」とみなされたユダヤ教徒、あるいはユダヤ系の人々を捕え、審問する場なのだ。
リスボンの異端審問所が作られたのは1536年、最近のことだ。最近、というのはスペイン(カスティーリャ・アラゴン連合)に比べてということになる。スペインは15世紀末のレコンキスタ終了を機に、ユダヤ人追放令を出した。それ以降、ユダヤ系の人々はポルトガル、東ヨーロッパ、あるいはオスマン・トルコの領地に離散していった。ディアスボラといわれる。
ポルトガルでもその風潮はあった。スペインでコンベルソ、マラーノと呼ばれていた彼らは、ポルトガルではヌオーヴォ(新参者の意)あるいはマラーノとなる。ジョアン3世の代になると、それは海外に富を求める政策とコインの裏表をなすようになる。
ありていに言うなら、十字軍の発想だよ。異教徒の地に勇敢に乗り込む敬虔なキリスト教徒ということだ。海外にどんどん出て行くのは理想のキリスト教国家建設のためであり、富のためではない。異端審問は国内においてその敬虔さを示す有効な方法だったのだ。それは他国の敵意をかわすための大義名分でもあった。
それによって、ユダヤ人商人が保有している莫大な富を没収することもできる。
ジョアン3世が考えていたのはそのようなことだろう。
私とシモン・ロドリゲスは8月から異端審問所に説教に行くようになった。彼らに真の改宗を促す役目ということだったが……。
私は驚愕した。
年齢も性別も男女も関係ない。いっしょくたに閉じ込められた数百人の人たち、彼らは絶望にうちひしがれているか、何とか身の潔白を知らせようとしているか、あるいはその様子をつぶさに見聞きし刑吏(けいり)に密告するか、いずれかだった。パッと見ただけでそんなことは分からない。後でそう推し量ることしかできない。
例外は子供だ。彼らはいったい、身の潔白をどのように立てればよいのか。
私の姿を見た男が一人、大きな声で訴えかけた。
「司祭さま、ここにいる大半の人間はキリスト教徒です。みんな、密告されて捕まった。商人も医者も弁護士もいる。この審問所の官吏はその財産が欲しいだけなんだ。みんなが祈るのはあなたの神に対してなのです。それをどうか国王様に伝えてくれませんか。ここではろくに審問もしない。私たちが訴えられるのはあなたのような方だけなのです」
私は言葉を発することができなかった。
私に何が言えるのだろうか。
これはポルトガル国王の命で建てられた審問所なのだ。そしてまた、その命で私はここに来ているのだ。
それを見とがめた刑吏が彼を引きずり出してどこかへ連れていった。私は背筋が凍りついた。
残った人々の諦めに満ちた目は、私を責めているように思えたよ、アントニオ。
それから何度か彼らに説教をするために出かけたが、刑吏の数は増やされ、捕らえられた人々に目を鋭く光らせるようになっていた。
このありさまを、イニゴにどう報告すべきなのか、私には分からなかった。どう書けば、伝わるのだ。そこにミセルやマンシラスがいなかったことを、神に感謝するぐらいしかできなかった。
「スペインでも居留区からユダヤ人を追いたてることはあったが、ポルトガルにおいては全く容赦がない……」とシモンもつぶやいた。
しばらく後に、私はジョアン3世の招きを受けて王宮に赴いた。国王はたいそう上機嫌な様子で私とシモンに告げた。
「9月26日に、民衆を集めて祭りをするのだが、あなたがたにも是非見て欲しい」
「はい、ぜひ伺います。どのようなお祭りですか」と私は聞いた。
「ユダヤ人を火炙りにするのだ」
私は重い気持ちでその日の朝を迎えた。
テージョ川の岸に広がるリベイラ広場には、リスボン市内だけでなく近在の町からも続々と人が押し寄せていた。一端進んでしまったら、引き返せないほど混雑している。すでに国王、高位聖職者、貴族らは悠々とした空間に座している。
これは見世物なのだ。
リスボンの異端審問所を開いて以降、初めて行う公開火刑なのである。
すし詰めの観衆をかき分けるように、市の警吏と裁判所の役人に連れられて捕われ人たちが現れる。男性9人、女性14人である。その中にはもちろん、私が説教に赴いたときに見た顔もある。彼らは全員、ともされたろうそくを持っている。
私たちはその行列とともに進んでいた。
異端審問所の大審問官が私とシモンに告解(告白)を聞く立場で付き添ってもらいたい、と依頼したのである。私とシモンは戸惑いを隠しつつ、うつむき気味に彼らとともに進んでいた。
途中で、群集の中から一人の男がすっと寄ってきて、私の衣服の袖を軽く引いた。私はその男の顔を見た。
異端審問所で私に訴えかけ、そして引きずられていった男だった。見れば私とさほど年齢も変わらない。
彼は消え入りそうな、すがるような声で言った。
「司祭さま、お願いです。私の母親をお助けください。母は全て自白するからと、鞭打たれていた私を救おうと、嘘の自白をして、<私はユダヤ教徒でした、今までずっと隠していました>と……嘘です。嘘なんです。私を守ろうとして嘘をついたのです。審問所はその自白をよいことに、母を火刑にしようとしている。母は常に十字架を外さず、日曜は教会に行き、朝も夕もイエスに祈りを捧げていたのです。それなのに、私を守ろうと、私は警吏に見つかったらまた連れ戻される。母が私を自由にしてくれたのに、私は母を身代わりに……ううっ」
私の胸はぎゅっと何かに絞られるように痛んだ。それを見ているシモンも同じ気持ちだっただろう。
私は何か彼にかける言葉がないかと、少し立ち止まった。それを背後で見とがめた警吏が走り寄ってくる。私は慌てて行列に戻った。彼が警吏に見つかってはまずいと思ったのだ。
去っていく私の背後から低い、呻くような声が聞こえた。
「どの神がこのような所業を為すことを、人に許されたのか?
それがあなたがたの神なのか?」
彼らは十字架を目の前にした火刑台に上げられる。
彼らを燃やすための薪が足元に積まれる。
彼らは逃げ出せないようにいくつもの木柱にくくりつけられる。
王がみずから号令を出す。
たいまつの火が一斉に放り込まれる。
少しの時間でよく乾かされた薪は見る見るうちに火の褥(しとね)となる。
人の身体にそれが燃え移る。
私は目をふさいだ。
興味半分で集まった群衆の歓声も止んだ。
代わりに私の耳に飛びこんで来たのは、
焔がゴオッと勢いを増す音、
バチバチと何かが弾ける音、
そして、煙で絶命できなかった人の断末魔の叫びだった。
人の声はじきに消え、あとは焔が人を焼き尽くす音だけが辺りを埋めていく。
私は目を開けた。
すでに焔は全ての人々を包み込み、赤い火柱と化している。
青空に昇る黒煙。
私は気持ち悪さを覚えて、吐いた。
焼かれた人に対してではない。
自分の置かれた状況を、自分が拒否したのだ。
アントニオ、私はこのときのことをあまり思い出さないようにしてきた。しばらく夢でもうなされていたのだよ。それまで築いてきた、「自分」というものがバラバラに壊れてしまうのではないかというほどの衝撃だった。
しかし、私はあの場に立ち会ったということを、隠そうとは思わない。
私は確かに、あの場にいたのだよ、アントニオ。
神よ……。
【お話を読まれる方へ】
本話では特定の民族に対する非人間的な行いについて書いています。史実に基づいた内容になりますが、個人として差別を決して許容しません。また特定の立場を擁護するものでもありません。もとにあるのは国連の「世界人権宣言」です。今後も今回のようなできごとを扱いますが、その前提について、ご理解をいただければと存じます。
<フランシスコ・ザビエル、シモン・ロドリゲス、ポルトガル国王ジョアン3世、マルティン・アスピルクエタ(ナワロ博士)、訴える男性>
1540年初秋、私を含めたマスカレンニャス大使一行はリスボンに到着した。
リスボン、坂だらけの大きな港町。大西洋ばかりが広がる地。イベリア半島の果ての地である。アントニオ、行くことはないかもしれないが、あなたの知っているポルトガル商人にせよ、総督にせよ、大半がここリスボンから船で大海原に出て行ったのだ。
この街にはローマやパリにはないものがある。
「果ての地」ということからくる、どこかしら哀愁を帯びた色合いだ。
私たちがリスボンに到着し、宿所に当てられたのは貴族の居館だった。この旅を通じて、大使にふさわしい豪華な宿ばかりだったのだが、この居館は調度も立派で部屋も広い。私は正直面食らったよ。そして……。
シモン・ロドリゲスが待っていてくれたのだ!
シモン・ロドリゲスは郷里に立ち寄った後、船でリスボンに向かった。そして陸路の私たちより早く到着したのだ。異国で会う仲間の顔の、何と懐かしいことか! 彼もこの宿所に滞在していたのだ。
しかし、彼はずいぶんと痩せていた。リスボンに着いた早々、発熱して倒れたのだ。
「3日ごとの熱」(マラリア)だろうと医者に診断されて、何日か寝込んでいたが、それが収まって以降は新たに熱は出ていない。「3日ごとの熱」でないと医者が診断を下せば、国王ジョアン3世への謁見が叶うという。私はシモンの熱が再び現れないよう、神に祈るばかりだった。
シモンの熱は幸いにもそれ以降はあらわれなかった。
そして私たちは、イタリアから合流していたミセル・パウロとフランシスコ・マンシラスも同伴して、国王ジョアン3世に謁見することとなった。国王に謁見するのは初めてのことなので、たいそう緊張したよ。
初めてのことは嫌いではないのだが、常に堂々としていられるかというのはまた別の話だ。
ジョアン3世は恰幅(かっぷく)がよく豪快な方のように見えたが、話してみると頭の回転が速く、私たちは矢継ぎ早の質問攻めにあったよ。ローマやパリから遠く離れた地の王だということもあるのだろうか。王は常に新しい情報を求めていた。それを知らないことで窮地に陥る愚は避けたかったのだろう。
特に隣国スペインを統べる王は神聖ローマ帝国の王カルロス5世でもある。その圧力は想像以上のものだっただろう。
幸い、カール5世は他の戦いに忙殺されていたし、ポルトガルは海外拠点を増やすことでその国力を強めていたから当面の心配はなかった。ジョアン3世の妻、カタリナ王妃はカール5世の妹君であることも安心できる理由だった。
さて、ジョアン3世とカタリナ王妃はサン・ジョルジュ宮殿の大広間で私たちを迎えてくださった。国王はにこやかに私たちの旅の苦労をねぎらった後、イエズス会の結成と教皇庁からの認可(教皇教書が出るのはまだだった)に至るいきさつを聞きたいとおっしゃられた。
私が、イグナティウス・ロヨラの回心と修養、パリ大学でピエール・ファーブルと私に出会ったこと、ロヨラの教化でシモン・ロドリゲス、アルフォンソ・サルメロン、ニコラ・ボバディリャらが加わったこと、モンマルトルの丘での誓願、ローマで教皇パウロ3世に謁見して励ましを受けたこと、イェルサレムへの巡礼が難しく断念したこと、ヴェネツィアやローマ、イタリア半島各地での奉仕、宣教活動――などを説明した。
思えば、私たちの歩みを王侯の前で、いやそれ以外でも一通り語ったことはなかったように思う。このいきさつを述べるだけで少し時間がかかった。
ジョアン3世はさらに、ローマで私たちが異端だという非難を受けた件についても話を求められた。この件についてはすでに疑いが晴れていたので、その事実関係だけを簡潔に述べた。特に不安には感じていなかった。異端になったものを教皇が認可するはずはない。それは国王睨下も納得されて、私たちに祝福の言葉をくださった。
会話が終わったあと、国王はドンニャ・マリア王女とドン・ジョアン王子を呼ばれて私たちに紹介してくださった。
王は、「9人の子に恵まれたのだが、悲しいことに次々と幼くして亡くなり、涙を乾かす暇もなかったのだ」と言い、王女と王子を愛おしげに撫でられていた。王妃も隣で静かにうなずかれている。
「さて、フランシスコ、せっかくわが王宮に来てもらったのだから、城の近習たちの告解(告白)を聞いてやってはもらえないだろうか。疲れているのにたいへん申し訳ないのだが、みなあなたたちに聞いてもらいたいと私にせがむ始末だ。できる限りで構わない。どうかお願いしたい」
もちろん断る道理はない。私とシモンはその役割を果たせそうだったが、ミセルとマンシラスはまだ司祭ではなかったので、私たちから離れたところでその様子を見ているように伝えた。
聞けば、王宮では若い近習・侍女らが8日ごとに告解をするように定められていた。王宮の中から善き習慣を広めようとの考えに基づくものだった。
私もシモンもこの頃から気づきはじめたことがある。
ポルトガルという国が、国王が、「敬虔なキリスト教徒」であることに執拗なほどこだわるということを。
それは「プレスター・ジョンの国」、すなわち敬虔なキリスト教徒の王が治める国に憧れていたエンリケ航海王子の系譜なのだと考えることもできる。
しかし、事情は複雑だった。
その事情の片鱗(へんりん)はポルトガル大使気付で届いたマルティン・アスピルクエタ(ナワロ博士)からの手紙でも感じることができた。
彼は遠縁ながら20歳になるまで交流していた大切な血縁者である。そして私あて、大使気付の手紙を40レグア離れたコインブラ大学(リスボンより200km北方)から送っていた。
私はどこかで迂回していたその手紙を王宮から戻った後で読んだ。
手紙を握りしめているだけで、なぜか涙がこぼれたよ。開く手ももどかしく、私はその手紙を読んだ。バスク語で書かれている!
――親愛なるフランシスコ、
おまえがリスボンに向かっているという手紙を受け取り、私は思わず神に感謝の祈りを捧げたよ。その顔を最後に見たのはいつだったのか、まだもうろくしていないはずだが、よく思い出せない。おそらく、マリア(アスピルクエタ、フランシスコの母)が亡くなる前のことだから、もう20年近く前のことだろう。フランシスコ、おまえは私のことを「目の上のたんこぶ」だと思っていたに違いない。パリ大学に進学を決めたときも、おまえが新しい修道会をつくると書いてきたときも、いちばん口うるさく手紙を書いたのは私だからだ。
でも、これだけはわかってほしい。父親を幼くして亡くしたおまえのことを、マリアは誰よりも心配していたのだ。私はそれを知っていたから、おまえの父親になることはなくとも、よい相談相手になってやりたかったのだ。それにおまえの利発さは群を抜いていたから、学に携わるものとしておまえの才能を最大限に伸ばしてやりたかったのだ。そこで、もっとおまえの気持ちを聞いてやればよかったのだが、「ああしろ、こうしろ」、具体的には、「サラマンカに来い」ということばかり、責めるように求めてしまった。
今さら言っても仕方のないことだから、少しばかり理解してもらえばそれでよい。本当にすまなかった。
おまえたちの会士がポルトガル国王に招かれて東洋宣教の旅に出るという噂を耳にした。ポルトガル随一の大学で教授をしている人間を甘く見てはいけない。それぐらいの話はすぐに入ってくるのだ。
その意味をよく考えて、おまえの本意に適う、なすべきことだと決めているのなら、私が言うことは何もない。また口うるさい頑固者だと思われたくはないからな。
ずっと聞いてきたよ、おまえの道のりは。サラマンカでも、ここコインブラでも。おまえがジョアン3世の御前でどんな風にこれまでのいきさつを説明するかも容易に想像できる。私の名前は面倒だから出さないだろうが。
私がおまえを黒い羊(厄介者)だと闇に葬ってしまうと思っていたか? 違う、わたしがどれほどおまえのことを、シャビエル城を出てからずっと気にかけて、心配してきたか! それは今でもまったく変わっていない。その前提でよくよく読んでほしい。
おまえたち修道会の志や理念はよくわかっているつもりだ。そして、実際に奉仕活動を積み重ねて司祭として一人立ちしたことも祝福しよう。
ただ、東洋、インドでの宣教活動についても、ここポルトガルでの宣教活動についても私はおまえにしてほしいとは思わない。おまえの頑固な親戚としてではなく、大学の法学博士としての客観的な意見として言う。それはどんなに冷静に表現しても、おまえの志、理念とはまた異なる性質を持っている。
おまえはそれを乗り越えて、自身の理念を通すことができるか。もし、それができるのならば、やる価値はあるかもしれない。
大昔、シャビエル城の書斎にはプルタルコスの本があったな。おまえはろくにラテン語も読めないくせに、いっしょうけんめいアレクサンドロス大王の話を読んでいた。おまえにとっては彼がいちばんの英雄なのだろう。そして、それがラテン語の教師になったのかもしれないが。もしおまえに言ってやれることがひとつだけあるとしたら、そのときの気持ちを思い出せ。
おまえの心がもともと持っているものを大切にしなさい。
リスボンにいる間に一度会えるとうれしい。私はこのような仕事なのでなかなかコインブラを離れるわけにはいかないが、おまえに余裕ができそうな時を教えてくれると幸いだ。船が出るにしても来春の話だろうから。
長くなったので、この辺りで筆を置く。
いつもあなたを心から愛している
マルティン・アスピルクエタ――
私は手紙を胸にかき抱いて、泣いた。涙が手紙に落ちないよう、袖で何度もぬぐった。
マルティンは私がイエズス会で活動していることをほうぼうで聞いてくれていたのだ。もうそのことに対して何のわだかまりもないのだ。コインブラ大学教授としての知性と理性をもって、大切な血縁者の身を案じてくれているのだ。私はもっと、もっとマルティンにいろいろなことを相談するべきだった。ポルトガルに来ることが急に決まったにせよ、それ以前にもっと相談することができたはずなのだ。
マルティンに会いたい。
彼の言うとおり、インドに発つ船が出るのは3月だ。それまでの間に一度時間を作って、マルティンに会う機会を作ろう。そして、長年かけてくれた愛情に応えなかったことを謝りたい。そうでなければ、私は心置きなく活動することができない。そんなふうに思ったのだよ。
そして、
マルティンの言う通りだった。ポルトガルで私は自身の目的をもう一度考えさせられる出来事に遭うことになるのだ。
私とシモン・ロドリゲスを中心に、ミセル・パウロやフランシスコ・マンシラスを加えたポルトガルのイエズス会士は、船が出るまでの間、それぞれ宣教活動に取りかかることとなった。国王ジョアン3世の命のまま、王子や王女に話をしたり、教会で説教もするようになった。また、リスボンに来ているコインブラ大学の学生に対して宣教活動も行った。
ジョアン3世は、「イエズス会は私たちの会だ!」と公で仰られるほど、私たちのことを気に入ってくださっているようだった。
私たちは宮廷に何度も召し出され、そのたびに新たな賞賛の言葉を聞くのだった。リスボンにイエズス会士のための学院(コレッジョ)も築くべきだ、そのために費用や土地を提供するのもやぶさかではないとまで口にされた。そのため私はイニゴに手紙でたくさんの依頼をした。
霊操(イニゴの発案した修養法)の指導者が多く必要なので追って人を派遣してもらう必要があること、
教皇パウロ3世による教書(イエズス会を新しい修道会として認可する)の写しを送ってほしいこと、
ポルトガル国王に対しローマからも丁重に礼を述べてほしい--などである。
しかし、それほどまで国王に歓待されていることへの疑問が生まれてきたのだよ、アントニオ。
ただただ善良なだけの人というのはいないし、ただただ悪だという人もいない。
怖いのはそれがなかなか見えてこないことだ。漠然とした不安があって、疑問が生じているなら、静かに自分の心に問いかけてみるべきなのだ。心で判断しなければいけない。私はリスボンについたころの狂騒から自分を一歩離して見ることにしようと思っていた。人の話だけ聞いていたら、それに左右されてしまう。
活動する中で、まだ拙いものの、ポルトガル語も話せるようになってきた。習うより慣れろというが、それは本当のことだ。
この頃には、現地の司祭にも知己を得るようになった。親しくなった司祭たちには一様に言う。
「インドには行くべきではありません。かの地は商人と軍人と船乗りしか行かないのです。現地の人を改宗させることなどできるのでしょうか。どうかリスボンに留まってください」
また、国王が私たちを歓待することに不満を持つ司祭も少なくなかった。
どちらかと言えばそのほうが多かったのかもしれない。
確かに、「教皇の命でどこにでも行く」などと言う司祭はいないから、私たちの活動も眉唾(まゆつば)ものだと思ったのだろう。
光があれば、必ず影はできる。そのようなことはすでに身に付けていたつもりだったのだが。
それは9月半ばのことだった。
ジョアン3世は私たちをお呼びになり、「異端審問所の留置場にいる者らに説教をしてやってほしい」と仰せになった。私とシモンはそれに応じた。
アントニオ、異端審問所というのは「キリスト教に改宗していない」とみなされたユダヤ教徒、あるいはユダヤ系の人々を捕え、審問する場なのだ。
リスボンの異端審問所が作られたのは1536年、最近のことだ。最近、というのはスペイン(カスティーリャ・アラゴン連合)に比べてということになる。スペインは15世紀末のレコンキスタ終了を機に、ユダヤ人追放令を出した。それ以降、ユダヤ系の人々はポルトガル、東ヨーロッパ、あるいはオスマン・トルコの領地に離散していった。ディアスボラといわれる。
ポルトガルでもその風潮はあった。スペインでコンベルソ、マラーノと呼ばれていた彼らは、ポルトガルではヌオーヴォ(新参者の意)あるいはマラーノとなる。ジョアン3世の代になると、それは海外に富を求める政策とコインの裏表をなすようになる。
ありていに言うなら、十字軍の発想だよ。異教徒の地に勇敢に乗り込む敬虔なキリスト教徒ということだ。海外にどんどん出て行くのは理想のキリスト教国家建設のためであり、富のためではない。異端審問は国内においてその敬虔さを示す有効な方法だったのだ。それは他国の敵意をかわすための大義名分でもあった。
それによって、ユダヤ人商人が保有している莫大な富を没収することもできる。
ジョアン3世が考えていたのはそのようなことだろう。
私とシモン・ロドリゲスは8月から異端審問所に説教に行くようになった。彼らに真の改宗を促す役目ということだったが……。
私は驚愕した。
年齢も性別も男女も関係ない。いっしょくたに閉じ込められた数百人の人たち、彼らは絶望にうちひしがれているか、何とか身の潔白を知らせようとしているか、あるいはその様子をつぶさに見聞きし刑吏(けいり)に密告するか、いずれかだった。パッと見ただけでそんなことは分からない。後でそう推し量ることしかできない。
例外は子供だ。彼らはいったい、身の潔白をどのように立てればよいのか。
私の姿を見た男が一人、大きな声で訴えかけた。
「司祭さま、ここにいる大半の人間はキリスト教徒です。みんな、密告されて捕まった。商人も医者も弁護士もいる。この審問所の官吏はその財産が欲しいだけなんだ。みんなが祈るのはあなたの神に対してなのです。それをどうか国王様に伝えてくれませんか。ここではろくに審問もしない。私たちが訴えられるのはあなたのような方だけなのです」
私は言葉を発することができなかった。
私に何が言えるのだろうか。
これはポルトガル国王の命で建てられた審問所なのだ。そしてまた、その命で私はここに来ているのだ。
それを見とがめた刑吏が彼を引きずり出してどこかへ連れていった。私は背筋が凍りついた。
残った人々の諦めに満ちた目は、私を責めているように思えたよ、アントニオ。
それから何度か彼らに説教をするために出かけたが、刑吏の数は増やされ、捕らえられた人々に目を鋭く光らせるようになっていた。
このありさまを、イニゴにどう報告すべきなのか、私には分からなかった。どう書けば、伝わるのだ。そこにミセルやマンシラスがいなかったことを、神に感謝するぐらいしかできなかった。
「スペインでも居留区からユダヤ人を追いたてることはあったが、ポルトガルにおいては全く容赦がない……」とシモンもつぶやいた。
しばらく後に、私はジョアン3世の招きを受けて王宮に赴いた。国王はたいそう上機嫌な様子で私とシモンに告げた。
「9月26日に、民衆を集めて祭りをするのだが、あなたがたにも是非見て欲しい」
「はい、ぜひ伺います。どのようなお祭りですか」と私は聞いた。
「ユダヤ人を火炙りにするのだ」
私は重い気持ちでその日の朝を迎えた。
テージョ川の岸に広がるリベイラ広場には、リスボン市内だけでなく近在の町からも続々と人が押し寄せていた。一端進んでしまったら、引き返せないほど混雑している。すでに国王、高位聖職者、貴族らは悠々とした空間に座している。
これは見世物なのだ。
リスボンの異端審問所を開いて以降、初めて行う公開火刑なのである。
すし詰めの観衆をかき分けるように、市の警吏と裁判所の役人に連れられて捕われ人たちが現れる。男性9人、女性14人である。その中にはもちろん、私が説教に赴いたときに見た顔もある。彼らは全員、ともされたろうそくを持っている。
私たちはその行列とともに進んでいた。
異端審問所の大審問官が私とシモンに告解(告白)を聞く立場で付き添ってもらいたい、と依頼したのである。私とシモンは戸惑いを隠しつつ、うつむき気味に彼らとともに進んでいた。
途中で、群集の中から一人の男がすっと寄ってきて、私の衣服の袖を軽く引いた。私はその男の顔を見た。
異端審問所で私に訴えかけ、そして引きずられていった男だった。見れば私とさほど年齢も変わらない。
彼は消え入りそうな、すがるような声で言った。
「司祭さま、お願いです。私の母親をお助けください。母は全て自白するからと、鞭打たれていた私を救おうと、嘘の自白をして、<私はユダヤ教徒でした、今までずっと隠していました>と……嘘です。嘘なんです。私を守ろうとして嘘をついたのです。審問所はその自白をよいことに、母を火刑にしようとしている。母は常に十字架を外さず、日曜は教会に行き、朝も夕もイエスに祈りを捧げていたのです。それなのに、私を守ろうと、私は警吏に見つかったらまた連れ戻される。母が私を自由にしてくれたのに、私は母を身代わりに……ううっ」
私の胸はぎゅっと何かに絞られるように痛んだ。それを見ているシモンも同じ気持ちだっただろう。
私は何か彼にかける言葉がないかと、少し立ち止まった。それを背後で見とがめた警吏が走り寄ってくる。私は慌てて行列に戻った。彼が警吏に見つかってはまずいと思ったのだ。
去っていく私の背後から低い、呻くような声が聞こえた。
「どの神がこのような所業を為すことを、人に許されたのか?
それがあなたがたの神なのか?」
彼らは十字架を目の前にした火刑台に上げられる。
彼らを燃やすための薪が足元に積まれる。
彼らは逃げ出せないようにいくつもの木柱にくくりつけられる。
王がみずから号令を出す。
たいまつの火が一斉に放り込まれる。
少しの時間でよく乾かされた薪は見る見るうちに火の褥(しとね)となる。
人の身体にそれが燃え移る。
私は目をふさいだ。
興味半分で集まった群衆の歓声も止んだ。
代わりに私の耳に飛びこんで来たのは、
焔がゴオッと勢いを増す音、
バチバチと何かが弾ける音、
そして、煙で絶命できなかった人の断末魔の叫びだった。
人の声はじきに消え、あとは焔が人を焼き尽くす音だけが辺りを埋めていく。
私は目を開けた。
すでに焔は全ての人々を包み込み、赤い火柱と化している。
青空に昇る黒煙。
私は気持ち悪さを覚えて、吐いた。
焼かれた人に対してではない。
自分の置かれた状況を、自分が拒否したのだ。
アントニオ、私はこのときのことをあまり思い出さないようにしてきた。しばらく夢でもうなされていたのだよ。それまで築いてきた、「自分」というものがバラバラに壊れてしまうのではないかというほどの衝撃だった。
しかし、私はあの場に立ち会ったということを、隠そうとは思わない。
私は確かに、あの場にいたのだよ、アントニオ。
神よ……。
【お話を読まれる方へ】
本話では特定の民族に対する非人間的な行いについて書いています。史実に基づいた内容になりますが、個人として差別を決して許容しません。また特定の立場を擁護するものでもありません。もとにあるのは国連の「世界人権宣言」です。今後も今回のようなできごとを扱いますが、その前提について、ご理解をいただければと存じます。
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