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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル
港を見下ろす坂道のファド 1540年 リスボン、インド航路
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<フランシスコ・ザビエル、ポルトガル大使マスカレンニャス、ヴァスコ・ダ・ガマ、ポルトガル王マヌエル1世、マルティン・アスピルクエタ(ナワロ博士)>
さて、私とマスカレンニャス大使はリスボンへの旅路を行くことになるのだが、その前にインド航路が開かれた話もしておかなければならない。それは私の生まれる8年前、1498年のことだった。
1495年、ポルトガル王はジョアン2世からマヌエル1世に代を継いだ。マヌエル1世はエンリケ航海王子の情熱とジョアン2世の現世欲をよく引き継いで、さらには少々せっかちだったのかもしれない。喜望峰への到達では生ぬるいと思った王はヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団にインドへの到達を命じた。これまでの航路をはるかに超える大冒険だ。
ヴァスコ・ダ・ガマはその期待にはよく応えた。1497年の7月にリスボンを出たガマの船団は11月に喜望峰を越えた。そして、アフリカの東岸に沿うように北上し、右手に大陸のごとくそびえるマダガスカル島をインドと間違えることなく抜けていった。
大陸に沿っていけば航海は容易と思われるだろう。しかし、それは大間違いだ。海にも大きな流れというものがある。帆船での航海は風と潮流が大きく速度を左右する。沿岸の比較的穏やかな海域を進むにしても、それはときに致命的な事態を引き起こす。
例えば、ガマの船団はリスボンを出た後、ヴェルデ岬辺りから北向きの潮流にぶつかってそれを迂回するように船をすすめた。その船は、クリストバル・コロンが発見した大陸の一端であるサン・ロケ岬(現在のブラジル、リオ・グランデ・ド・ノルテ州)が見えるほどの地点まで迂回したのだ。これほどの大回りはなかなかないだろう。ガマもさぞかし慌てたことと思う。そこからは風に大きく助けられて喜望峰(現在の南アフリカ)に11月22日到達した。
しかし、喜望峰に至る手前では北向きの潮流に変わり、船は遅々として進まない。喜望峰を越えると今度は南向きの潮流に変わる。船乗りにとっては天を仰ぎたくなるような事態である。もちろん、帆の扱いをはじめ操船技術に優れた船乗りたちのことだから、潮流に泣かされても風を読んで進むことが可能だったのだろう。だからこそ迂回しても4ヶ月で喜望峰まで到達できたともいえる。
喜望峰を折り返してアフリカ東岸を進むのにはたいそう時間がかかった。リスボンから大きく新大陸まで迂回して喜望峰に進むまでの期間と、喜望峰からメリンデ(マリンディ、現在のケニア)に至るまでの期間が同じだったのだから。途中でのんびり休もうとしたわけではない。インドに到達することが第一の目的だったからである。
加えて、ミナの商館を越えると、どこにも補給基地がないということが難点だった。船団は時には上陸し、食糧や必要な物資を調達しようとしたたものの、言葉がまず通じない。そのような場合には手段を選んでいる余裕はない。簡単に言えば奪うしかないということだ。
この大航海の先駆者たち、そしてそれに続く者たちには海賊と紙一重の行動がしばしば見られた。ポルトガルやスペインの国益にはなったのだろうが、それまでの秩序は壊されることになった。海にも秩序はあったのだよ。
いずれにしても、1498年に4月にはメリンデに至り、そこからはインド洋に詳しいイスラム教徒の船乗りを雇うことにした。商人や船乗り、あるいは海賊にとって、宗教の違いというのはたいした問題にはならない。そうでなければ、自身の目的を遂行できないだろう。
船団は案内に従って、モガディシュ(現在のソマリア)辺りでアフリカ大陸を離れ、ソコトラ島を遠目に眺めてインド洋に出る。そして、同年の5月、無事にカリカット(インド)に到着したのだ。メリンデからカリカットまでは1ヶ月しかかからなかった。インド洋をよく知っている人間が乗船していたことが大きかったのだろう。
なぜポルトガルの王たちは「インド」を目的地にしたのだろうか。
そこが「胡椒(こしょう)」の大きな産地であり、市場だったからである。アントニオ、あなたはよく分かっているから説明するまでもないだろうが……胡椒は調味料として、防腐剤として、薬品としてヨーロッパでたいへん珍重されていたのだが、それを入手するルートは限られていたのだ。胡椒をイスラム商人が大量に買い付けて、紅海から地中海へと運搬し、ヴェネツィア商人がそれを仕入れて販売する。そのルートだけだったのだ。胡椒を直接取引できたら、それを独占できたら、と王侯は考えていたのだ。
ガマの航海では胡椒をそれほど得られなかったものの、帰途は1498年8月にインドを発ち、行きと同じルートでアフリカの東沿岸を進んで喜望峰に出た。行きのように新大陸まで迂回することはなかったが、ヴェルデ岬の辺りからアフリカ大陸を離れ、アゾレス諸島への大回りを余儀なくされた。東向きの風に流されたのだ。
1499年9月、ガマの船団はリスボンに帰港した。
栄養状態もよくない環境で、2年もの長い期間航海していたので、途中病気に罹り亡くなる人間が続出した。リスボンに帰ることができたのは3分の1の人間だけだった。どれほど厳しい状況だったか、想像するのは難しくない。経験した者にしかわからないことだ。
マヌエル1世は飛び上がって喜んだ。さっそく、次の船団を編成することにした。ガマの船団よりさらに船を加え、胡椒を大量に手に入れられる手段を取ることにしたのである。
翌年の1500年3月にはペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いる第二次船団がリスボンを出航した。大型の帆船13隻に武器も食糧も大量に詰め込んだのである。
彼らも新大陸に迂回し、同年9月カリカットに到達した。気象条件もよかったのだろうが、ヴァスコ・ダ・ガマの経験を最大限に生かしたことが半年という短期間の航海で済んだ理由だろう。ガマはこの航海でカリカットに商館を築くことに成功した。武力が大いに貢献したことは言うまでもない。
ここから、ポルトガルは海を開くこと(航路を開拓する)から、その拠点(要塞)作りに取りかかっていく。最初にカリカットに拠点を築いた後、インド総督に任命したフランシスコ・デ・アルメイダと次の総督となったアフォンソ・デ・アルブケルケが王の目的を次々と実現していくことになる。
ポルトガルは、イスラム勢力に対抗できるだけの軍事力を携えアフリカ、インド洋に次々と拠点を築き、貿易を独占する方向に舵を切っていた。
東アフリカのソファラ(現在のモザンビーク)、キルワ(現在のタンザニア)を征服、インドではカナノンとコーチン、後にはゴアを征服する。さらにそこから先、マラッカ、モルッカ諸島にまで支配地域を伸ばしていく。モルッカ諸島は「香料諸島」と呼ばれ、クローブやナツメグなどの貴重な香料の産地である。これらは従来、胡椒よりもさらに手に入りにくいものだった。
アントニオ、あなたはマラッカから三州嶋に来る船の中で、鄭和(ていわ、明の航海者)の話をしていた。鄭和が沿岸を征服して回ったら、あるいはアルブケルケのような軍人になっていたのかもしれない。エンリケ航海王子のように「プレスター・ジョンの国を探す」、そんな夢を持った人として、名前が残るのとどちらがよいのだろう。
さて、私の旅の話に戻ろう。
ローマの私たちの家を出る朝、私は不在の間に必要となるだろう会憲への賛意表明、総会長をイグナティウス・ロヨラとする投票用紙、そして自身のイエズス会員誓願の宣誓書を急いでしたためて、サルメロンに預けた。そのやりとりをバタバタとしているところにイニゴが現れた。
「フランシスコ……もう行くのか」
「はい、引継ぎはだいたい済んだと思います」と私は静かに微笑んだ。
イニゴも同じように、淋しそうな目で微笑んだ。
「ニコラの熱は少し引いたようだが、またぶり返すかもしれない。早い回復を祈っていたところだ」
「私も祈っています。どうか看病のほうもよろしくお願いします」
「神のご加護を」とだけ言って、イニゴは部屋を出て行った。
彼の背中はとても小さく見えた。
教皇パウロ3世に謁見した後、私たちはマスカレンニャス大使とその家族、従者などを含め10人ほどでローマを出発した。大使は私の生い立ちを聞き、父ホアン・デ・ハスがボローニャ大学の修了生であったことを聞いてたいそう感心していた。
「それでは来週の復活祭はボローニャで過ごしましょう」
その一言で、復活祭の前後数日、ボローニャに滞在することとなった。ボローニャはしばらく前に宣教活動をした地なので、私には馴染みが深い。また前に会った学生たちと話ができると思うと嬉しかった。これから長い旅をともにする私に対する、大使の心遣いだったのだろう。ボローニャでは、在地のイブレア枢機卿(すうききょう、すうきけい)が一行との面会に応じてくださった。
イブレア枢機卿は老年で、穏やかな雰囲気を持っていた。これから正式に認可されることになる私たちイエズス会の活動に期待していると、微笑んで語られた。実際、イエズス会を修道会として認可することに懸念を抱く枢機卿もいる中で、イブレア枢機卿は変わらずに私たちを支持してくれていたのだ。
私はここで初めてイニゴに手紙を書いた。出発の朝の様子からしても、イニゴは私がいなくなることを不安に思っていることは明らかだった。少し心配になったのだ。
ローマにはイニゴの感化を受けてずっと行動をともにしてきたアルフォンソ(サルメロン)、今は熱と闘っているニコラ(ボバディリャ)がいる。ディエゴ(ライネス)もいったんローマに戻るだろう。初期誓願会士がそれだけいれば、十分にイニゴを支えることができる。それに、クラウディオ(ハイオ)ら後に続いた会士たちもそれぞれが責任を持って活動を進めることができる。その点、私は何も心配していなかった。ただ、イニゴを元気づけたい。それで私はボローニャ発の手紙、いや通信になるのだね、それを快活に書き綴った。
実際、ボローニャではたいへん忙しく過ごした。私の噂を聞いて集まってきた多くの人の告解(告白)を受け、休む暇もないほどだった。多少の疲れはあったものの、リスボンはまだまだ遠い。
マスカレンニャス大使は私に対して非常に好意的だった。私の郷里ナヴァーラ(もうスペインの一地域に過ぎないが)のシャビエル城や、パンプローナを通っていこうと言って下さった。行程としてはたいへん大回りになるので大使の家族にも負担だろうと断ったのだが、行くという。私は、あまりそのような期待をすることは望ましくないと考えたので、「日程に余裕がありましたら、ご厚意に甘えさせていただきます」とだけ伝えた。
一行は馬で進んでいたので、私のこれまでの旅とはまったく異なり、すいすいと進んでいく。あと、托鉢する必要がないことが時間の節約になるのか、と私は思ったりした。
そうだ、マルティンのことを言っていなかったかもしれない。
これまでに何度も名前を出していた、母のまたいとこのマルティン・アスピルクエタのことだよ。彼は私が少年の頃からずっと、カスティーリャのサラマンカ大学で教授をしていたのだが、1538年からポルトガルのコインブラ大学に移っていた。教会法の博士として教壇に発つマルティンは皆から「ナワロ博士」と尊敬を込めて呼ばれていた。ナワロは、ナヴァーラのことだ。少なくともコインブラでは「ナヴァーラ」という言葉がまだマルティンによって生かされていたのだ。
しかし、私がバルバラ学院からソルボンヌ学院に移り、しまいにはイェルサレム巡礼に行くといってパリを出てしまってからは、連絡を取っていなかった。兄たちには私の居所は知らせていたが、やはり手紙は来なかった。それも仕方ないことだと思う。パンプローナ司祭への道がすぐ目の前にあったのに、それを蹴って新しい修道会を作るなどと言って活動しはじめたのだから。それまでにかけた学費はどうする、などとも当然考えるだろうし、何より怪しい人間に騙されているのではないかと疑ってもいただろう。
ローマにいる間は血縁者に手紙を書く余裕はなかった。わかるだろう、アントニオ、イエズス会の手紙を扱うのにも難渋していたのだ。
教皇パウロ3世に謁見した後だけは、兄たちにも、マルティンにも手紙を書いた。しかし、まだ彼らはいぶかしんでいたのだろう。返事は来なかった。これはいわゆる勘当なのだろうか、と私は考えていた。なので、ポルトガルに向かう道すがら、郷里に立ち寄ろうと大使が言ってくれたことはたいへんありがたかった。ポルトガル大使とともにシャビエル城を訪れれば、きっと兄も認めてくれるだろう。そんな風に考えもしていた。
ボローニャでも私は兄とマルティンに手紙を書いていた。ローマで書いている暇はなかったのだからね。それが届けばあるいは、兄やマルティンも両手を広げて迎えてくれるかもしれない。そう思っていたのだ。
そのような期待と不安を抱えて旅をすすめていたが、本当に快適なものだったのだよ。一度だけ恐ろしいできごとに見舞われたほかは。
あれはパルマ(イタリア)に差しかかろうかというときのことだった。ターロという川がひどく増水していて、渡れるような状況ではなかった。そこでマスカレンニャス大使の屈強な馬丁頭が「よし、渡ってみましょう」と言って、馬で川を渡ろうとしたが、あっという間に流されてしまった。
流れは速く、誰も助けることができない。同じことになってしまうからだ。一同はひたすら祈り続けるしかなかった。
神に祈りが通じたのか、増水して半ば埋もれていた木の枝に彼の服が引っかかり彼の身体は流れから拾われた。一命を取りとめたのだ。そのようすは彼を岸から追っていた馬丁や従僕らが見ていた。さらに幸いなことに、流された者は意識を失っていなかったし、水もさほど飲んではいなかった。岸に上げられた彼は、ハアハアと肩で息をしながら、しばらく話もできなかった。
そして、私の姿を認めると、ひざまずいて十字を切ったのである。
「司祭さま、私の罪をお聞きください。私は修道士になろうと思い、修道院に入ろう、いつかは入ろうと思っていました。でも魔が差してしまい、ずっとそれを延ばしてきたのです。それどころか、神様のことを考えることもしだいにおろそかになっていきました。あなた様のようにすべてを捨てて神様のために生きる方を見て、自分はこれでいいのかと思い始めました。そうしたらこのありさまです。私は流されているとき、これで本当に人生が終わってしまうのか、終わってしまうのに、私の心は何もその仕度をしていない。自分は何とおろかなことをしてきたのだろう。どうかお赦しください……と、そればかり考えていました。でも、水を飲むことも、溺れることもなく、目の前に救いの手のように木が見えました。これは神が私を救ってくださったのだと思います。もう一度、私に祈るときを与えてくださったのです」
彼の告白を聞いて、確かに神は彼を救われたのだと感じた。木の枝に服が引っかかったのは運のよい偶然だったかもしれないが、彼は確かにそれによって救われ、告白の機会を得たのである。私は主の御旨の深遠さをはじめて目の当たりにした気がした。「奇跡」というものだ。
これで旅の一行の気持ちもまた固く一つにまとまったようだった。
私たちはそこからミラノ~トリノと進んでフランスに入り、リヨン~クレルモン=フェラン~ボルドーへと進んだ。全行程が馬だったので、信じられないほど旅は早く進んでいた。これはイタリア半島からフランスに抜ける大動脈だったのだが、以前のようにこそこそと迂回する必要はなかった。とても不思議だったよ。あのときは粗末な身なりの托鉢僧に過ぎなかったのに、今では一国の大使とともに、国王の招きでリスボンに向かうのだからね。
私たちはすでにバスク地方に至っていた。バイヨンヌを越えると右手に現れ、視界いっぱいに藍色の海が広がる。ビスケー湾だった。
一行はドノスティアからロヨラ城に回った。イニゴが住んでいた城だ。これも大使の厚意だったのだろう。私はその城をはじめて見た。イニゴはここで産声を上げたのか。心が温かくなったよ。あのイニゴも赤子だったのだと。
ただ、私はイニゴから何の手紙も預かってきてはいなかった。大使に負担をかけることも心配だったので、訪問はしなかった。ポルトガル大使を随伴しているとなると、ほうぼうあいさつに連れて回ることなどとんでもないことなのだよ。私が言うのもおかしいかもしれないが、大使は貴族で、その立場は尊重しなければならない。
この時に私は、シャビエル城に訪問することも控えようと考えていた。パンプローナに至った際に、そのことをマスカレンニャス大使に伝えたところ、彼はたいそう驚いていた。
「フランシスコ司祭、今度はいつ郷里に来られるか分からないのですぞ。ぜひ、生家を訪ねてください。私たちはパンプローナで待機していますから」
私はしばらく考えてから大使に伝えた。
「それでは、遠くからシャビエル城を眺めることにいたします。肉親に会うと郷愁が募りますから。眺めるだけで結構です」
そして私は懐かしいピレネーの山々を背景にした、新しいシャビエル城を見た。
城は前のものより小ぶりで、塔もごく低いものだった。もう要害としての役割も終わったので、それでいいのだろう。
それは私が慣れ親しんだ我が家とは異なるものだった。
父もいない、母もいない、「おじいさま」もいない、兄が家庭を築き守っている城なのだ。そう、兄の城なのだ。それはよく分かっていることだし、私はもうここから離れて大分経ってしまっている。それに、手紙の返事を受け取っていない。兄は私には会いたくないのかもしれない。あるいは、もう、いなくなったものだと思っているのかもしれない。
私の帰る場所ではないのかもしれない。
涙は出なかった。しかし、やるせない気分だけはしばらく消えなかった。
「いいのですか、これで?」と大使が尋ねた。
「はい」とだけ私は答えた。
アントニオ、イベリア半島を横断することは、私にとって郷愁をかきたてる結果になったのであまり多く話したくはない。私がシャビエル城からどれほど遠く離れてしまったことか。それは距離だけではない、家族とのつながりも、それがあったのかさえ不確かなほどにおぼろげに、遠くなってしまった。せっかくの大使の厚意だったので通ってみたものの、それなしで済ませたほうがよかったのかもしれない。
私を含めたマスカレンニャス大使一行は1540年6月末にリスボンに到着した。
一行には大使とその家族、従者、私に加えてイタリア半島で出会ったミセル・パウロとパリで再会したフランシスコ・マンシラスが加わっていたことを言っておかなければならない。大所帯になっていたのだ。2人とも熱心な学生で、私が修道会の一員として、求められてポルトガルに赴く話をすると、「ぜひ一緒に行かせてください」と志願したのである。彼らはその後の私にとって、心強い同行者になる。そのような出会いがあったことも付け加えておこう。
坂の上から広大な海が広がっているのが見える。ヨーロッパの西の端、リスボンに着いたのだ。
私がイベリア半島の間じゅう持っていた悲哀と同じ匂いがした。
それは海の匂いだったのかもしれない。
涙の匂いだったのかもしれない。
さて、私とマスカレンニャス大使はリスボンへの旅路を行くことになるのだが、その前にインド航路が開かれた話もしておかなければならない。それは私の生まれる8年前、1498年のことだった。
1495年、ポルトガル王はジョアン2世からマヌエル1世に代を継いだ。マヌエル1世はエンリケ航海王子の情熱とジョアン2世の現世欲をよく引き継いで、さらには少々せっかちだったのかもしれない。喜望峰への到達では生ぬるいと思った王はヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団にインドへの到達を命じた。これまでの航路をはるかに超える大冒険だ。
ヴァスコ・ダ・ガマはその期待にはよく応えた。1497年の7月にリスボンを出たガマの船団は11月に喜望峰を越えた。そして、アフリカの東岸に沿うように北上し、右手に大陸のごとくそびえるマダガスカル島をインドと間違えることなく抜けていった。
大陸に沿っていけば航海は容易と思われるだろう。しかし、それは大間違いだ。海にも大きな流れというものがある。帆船での航海は風と潮流が大きく速度を左右する。沿岸の比較的穏やかな海域を進むにしても、それはときに致命的な事態を引き起こす。
例えば、ガマの船団はリスボンを出た後、ヴェルデ岬辺りから北向きの潮流にぶつかってそれを迂回するように船をすすめた。その船は、クリストバル・コロンが発見した大陸の一端であるサン・ロケ岬(現在のブラジル、リオ・グランデ・ド・ノルテ州)が見えるほどの地点まで迂回したのだ。これほどの大回りはなかなかないだろう。ガマもさぞかし慌てたことと思う。そこからは風に大きく助けられて喜望峰(現在の南アフリカ)に11月22日到達した。
しかし、喜望峰に至る手前では北向きの潮流に変わり、船は遅々として進まない。喜望峰を越えると今度は南向きの潮流に変わる。船乗りにとっては天を仰ぎたくなるような事態である。もちろん、帆の扱いをはじめ操船技術に優れた船乗りたちのことだから、潮流に泣かされても風を読んで進むことが可能だったのだろう。だからこそ迂回しても4ヶ月で喜望峰まで到達できたともいえる。
喜望峰を折り返してアフリカ東岸を進むのにはたいそう時間がかかった。リスボンから大きく新大陸まで迂回して喜望峰に進むまでの期間と、喜望峰からメリンデ(マリンディ、現在のケニア)に至るまでの期間が同じだったのだから。途中でのんびり休もうとしたわけではない。インドに到達することが第一の目的だったからである。
加えて、ミナの商館を越えると、どこにも補給基地がないということが難点だった。船団は時には上陸し、食糧や必要な物資を調達しようとしたたものの、言葉がまず通じない。そのような場合には手段を選んでいる余裕はない。簡単に言えば奪うしかないということだ。
この大航海の先駆者たち、そしてそれに続く者たちには海賊と紙一重の行動がしばしば見られた。ポルトガルやスペインの国益にはなったのだろうが、それまでの秩序は壊されることになった。海にも秩序はあったのだよ。
いずれにしても、1498年に4月にはメリンデに至り、そこからはインド洋に詳しいイスラム教徒の船乗りを雇うことにした。商人や船乗り、あるいは海賊にとって、宗教の違いというのはたいした問題にはならない。そうでなければ、自身の目的を遂行できないだろう。
船団は案内に従って、モガディシュ(現在のソマリア)辺りでアフリカ大陸を離れ、ソコトラ島を遠目に眺めてインド洋に出る。そして、同年の5月、無事にカリカット(インド)に到着したのだ。メリンデからカリカットまでは1ヶ月しかかからなかった。インド洋をよく知っている人間が乗船していたことが大きかったのだろう。
なぜポルトガルの王たちは「インド」を目的地にしたのだろうか。
そこが「胡椒(こしょう)」の大きな産地であり、市場だったからである。アントニオ、あなたはよく分かっているから説明するまでもないだろうが……胡椒は調味料として、防腐剤として、薬品としてヨーロッパでたいへん珍重されていたのだが、それを入手するルートは限られていたのだ。胡椒をイスラム商人が大量に買い付けて、紅海から地中海へと運搬し、ヴェネツィア商人がそれを仕入れて販売する。そのルートだけだったのだ。胡椒を直接取引できたら、それを独占できたら、と王侯は考えていたのだ。
ガマの航海では胡椒をそれほど得られなかったものの、帰途は1498年8月にインドを発ち、行きと同じルートでアフリカの東沿岸を進んで喜望峰に出た。行きのように新大陸まで迂回することはなかったが、ヴェルデ岬の辺りからアフリカ大陸を離れ、アゾレス諸島への大回りを余儀なくされた。東向きの風に流されたのだ。
1499年9月、ガマの船団はリスボンに帰港した。
栄養状態もよくない環境で、2年もの長い期間航海していたので、途中病気に罹り亡くなる人間が続出した。リスボンに帰ることができたのは3分の1の人間だけだった。どれほど厳しい状況だったか、想像するのは難しくない。経験した者にしかわからないことだ。
マヌエル1世は飛び上がって喜んだ。さっそく、次の船団を編成することにした。ガマの船団よりさらに船を加え、胡椒を大量に手に入れられる手段を取ることにしたのである。
翌年の1500年3月にはペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いる第二次船団がリスボンを出航した。大型の帆船13隻に武器も食糧も大量に詰め込んだのである。
彼らも新大陸に迂回し、同年9月カリカットに到達した。気象条件もよかったのだろうが、ヴァスコ・ダ・ガマの経験を最大限に生かしたことが半年という短期間の航海で済んだ理由だろう。ガマはこの航海でカリカットに商館を築くことに成功した。武力が大いに貢献したことは言うまでもない。
ここから、ポルトガルは海を開くこと(航路を開拓する)から、その拠点(要塞)作りに取りかかっていく。最初にカリカットに拠点を築いた後、インド総督に任命したフランシスコ・デ・アルメイダと次の総督となったアフォンソ・デ・アルブケルケが王の目的を次々と実現していくことになる。
ポルトガルは、イスラム勢力に対抗できるだけの軍事力を携えアフリカ、インド洋に次々と拠点を築き、貿易を独占する方向に舵を切っていた。
東アフリカのソファラ(現在のモザンビーク)、キルワ(現在のタンザニア)を征服、インドではカナノンとコーチン、後にはゴアを征服する。さらにそこから先、マラッカ、モルッカ諸島にまで支配地域を伸ばしていく。モルッカ諸島は「香料諸島」と呼ばれ、クローブやナツメグなどの貴重な香料の産地である。これらは従来、胡椒よりもさらに手に入りにくいものだった。
アントニオ、あなたはマラッカから三州嶋に来る船の中で、鄭和(ていわ、明の航海者)の話をしていた。鄭和が沿岸を征服して回ったら、あるいはアルブケルケのような軍人になっていたのかもしれない。エンリケ航海王子のように「プレスター・ジョンの国を探す」、そんな夢を持った人として、名前が残るのとどちらがよいのだろう。
さて、私の旅の話に戻ろう。
ローマの私たちの家を出る朝、私は不在の間に必要となるだろう会憲への賛意表明、総会長をイグナティウス・ロヨラとする投票用紙、そして自身のイエズス会員誓願の宣誓書を急いでしたためて、サルメロンに預けた。そのやりとりをバタバタとしているところにイニゴが現れた。
「フランシスコ……もう行くのか」
「はい、引継ぎはだいたい済んだと思います」と私は静かに微笑んだ。
イニゴも同じように、淋しそうな目で微笑んだ。
「ニコラの熱は少し引いたようだが、またぶり返すかもしれない。早い回復を祈っていたところだ」
「私も祈っています。どうか看病のほうもよろしくお願いします」
「神のご加護を」とだけ言って、イニゴは部屋を出て行った。
彼の背中はとても小さく見えた。
教皇パウロ3世に謁見した後、私たちはマスカレンニャス大使とその家族、従者などを含め10人ほどでローマを出発した。大使は私の生い立ちを聞き、父ホアン・デ・ハスがボローニャ大学の修了生であったことを聞いてたいそう感心していた。
「それでは来週の復活祭はボローニャで過ごしましょう」
その一言で、復活祭の前後数日、ボローニャに滞在することとなった。ボローニャはしばらく前に宣教活動をした地なので、私には馴染みが深い。また前に会った学生たちと話ができると思うと嬉しかった。これから長い旅をともにする私に対する、大使の心遣いだったのだろう。ボローニャでは、在地のイブレア枢機卿(すうききょう、すうきけい)が一行との面会に応じてくださった。
イブレア枢機卿は老年で、穏やかな雰囲気を持っていた。これから正式に認可されることになる私たちイエズス会の活動に期待していると、微笑んで語られた。実際、イエズス会を修道会として認可することに懸念を抱く枢機卿もいる中で、イブレア枢機卿は変わらずに私たちを支持してくれていたのだ。
私はここで初めてイニゴに手紙を書いた。出発の朝の様子からしても、イニゴは私がいなくなることを不安に思っていることは明らかだった。少し心配になったのだ。
ローマにはイニゴの感化を受けてずっと行動をともにしてきたアルフォンソ(サルメロン)、今は熱と闘っているニコラ(ボバディリャ)がいる。ディエゴ(ライネス)もいったんローマに戻るだろう。初期誓願会士がそれだけいれば、十分にイニゴを支えることができる。それに、クラウディオ(ハイオ)ら後に続いた会士たちもそれぞれが責任を持って活動を進めることができる。その点、私は何も心配していなかった。ただ、イニゴを元気づけたい。それで私はボローニャ発の手紙、いや通信になるのだね、それを快活に書き綴った。
実際、ボローニャではたいへん忙しく過ごした。私の噂を聞いて集まってきた多くの人の告解(告白)を受け、休む暇もないほどだった。多少の疲れはあったものの、リスボンはまだまだ遠い。
マスカレンニャス大使は私に対して非常に好意的だった。私の郷里ナヴァーラ(もうスペインの一地域に過ぎないが)のシャビエル城や、パンプローナを通っていこうと言って下さった。行程としてはたいへん大回りになるので大使の家族にも負担だろうと断ったのだが、行くという。私は、あまりそのような期待をすることは望ましくないと考えたので、「日程に余裕がありましたら、ご厚意に甘えさせていただきます」とだけ伝えた。
一行は馬で進んでいたので、私のこれまでの旅とはまったく異なり、すいすいと進んでいく。あと、托鉢する必要がないことが時間の節約になるのか、と私は思ったりした。
そうだ、マルティンのことを言っていなかったかもしれない。
これまでに何度も名前を出していた、母のまたいとこのマルティン・アスピルクエタのことだよ。彼は私が少年の頃からずっと、カスティーリャのサラマンカ大学で教授をしていたのだが、1538年からポルトガルのコインブラ大学に移っていた。教会法の博士として教壇に発つマルティンは皆から「ナワロ博士」と尊敬を込めて呼ばれていた。ナワロは、ナヴァーラのことだ。少なくともコインブラでは「ナヴァーラ」という言葉がまだマルティンによって生かされていたのだ。
しかし、私がバルバラ学院からソルボンヌ学院に移り、しまいにはイェルサレム巡礼に行くといってパリを出てしまってからは、連絡を取っていなかった。兄たちには私の居所は知らせていたが、やはり手紙は来なかった。それも仕方ないことだと思う。パンプローナ司祭への道がすぐ目の前にあったのに、それを蹴って新しい修道会を作るなどと言って活動しはじめたのだから。それまでにかけた学費はどうする、などとも当然考えるだろうし、何より怪しい人間に騙されているのではないかと疑ってもいただろう。
ローマにいる間は血縁者に手紙を書く余裕はなかった。わかるだろう、アントニオ、イエズス会の手紙を扱うのにも難渋していたのだ。
教皇パウロ3世に謁見した後だけは、兄たちにも、マルティンにも手紙を書いた。しかし、まだ彼らはいぶかしんでいたのだろう。返事は来なかった。これはいわゆる勘当なのだろうか、と私は考えていた。なので、ポルトガルに向かう道すがら、郷里に立ち寄ろうと大使が言ってくれたことはたいへんありがたかった。ポルトガル大使とともにシャビエル城を訪れれば、きっと兄も認めてくれるだろう。そんな風に考えもしていた。
ボローニャでも私は兄とマルティンに手紙を書いていた。ローマで書いている暇はなかったのだからね。それが届けばあるいは、兄やマルティンも両手を広げて迎えてくれるかもしれない。そう思っていたのだ。
そのような期待と不安を抱えて旅をすすめていたが、本当に快適なものだったのだよ。一度だけ恐ろしいできごとに見舞われたほかは。
あれはパルマ(イタリア)に差しかかろうかというときのことだった。ターロという川がひどく増水していて、渡れるような状況ではなかった。そこでマスカレンニャス大使の屈強な馬丁頭が「よし、渡ってみましょう」と言って、馬で川を渡ろうとしたが、あっという間に流されてしまった。
流れは速く、誰も助けることができない。同じことになってしまうからだ。一同はひたすら祈り続けるしかなかった。
神に祈りが通じたのか、増水して半ば埋もれていた木の枝に彼の服が引っかかり彼の身体は流れから拾われた。一命を取りとめたのだ。そのようすは彼を岸から追っていた馬丁や従僕らが見ていた。さらに幸いなことに、流された者は意識を失っていなかったし、水もさほど飲んではいなかった。岸に上げられた彼は、ハアハアと肩で息をしながら、しばらく話もできなかった。
そして、私の姿を認めると、ひざまずいて十字を切ったのである。
「司祭さま、私の罪をお聞きください。私は修道士になろうと思い、修道院に入ろう、いつかは入ろうと思っていました。でも魔が差してしまい、ずっとそれを延ばしてきたのです。それどころか、神様のことを考えることもしだいにおろそかになっていきました。あなた様のようにすべてを捨てて神様のために生きる方を見て、自分はこれでいいのかと思い始めました。そうしたらこのありさまです。私は流されているとき、これで本当に人生が終わってしまうのか、終わってしまうのに、私の心は何もその仕度をしていない。自分は何とおろかなことをしてきたのだろう。どうかお赦しください……と、そればかり考えていました。でも、水を飲むことも、溺れることもなく、目の前に救いの手のように木が見えました。これは神が私を救ってくださったのだと思います。もう一度、私に祈るときを与えてくださったのです」
彼の告白を聞いて、確かに神は彼を救われたのだと感じた。木の枝に服が引っかかったのは運のよい偶然だったかもしれないが、彼は確かにそれによって救われ、告白の機会を得たのである。私は主の御旨の深遠さをはじめて目の当たりにした気がした。「奇跡」というものだ。
これで旅の一行の気持ちもまた固く一つにまとまったようだった。
私たちはそこからミラノ~トリノと進んでフランスに入り、リヨン~クレルモン=フェラン~ボルドーへと進んだ。全行程が馬だったので、信じられないほど旅は早く進んでいた。これはイタリア半島からフランスに抜ける大動脈だったのだが、以前のようにこそこそと迂回する必要はなかった。とても不思議だったよ。あのときは粗末な身なりの托鉢僧に過ぎなかったのに、今では一国の大使とともに、国王の招きでリスボンに向かうのだからね。
私たちはすでにバスク地方に至っていた。バイヨンヌを越えると右手に現れ、視界いっぱいに藍色の海が広がる。ビスケー湾だった。
一行はドノスティアからロヨラ城に回った。イニゴが住んでいた城だ。これも大使の厚意だったのだろう。私はその城をはじめて見た。イニゴはここで産声を上げたのか。心が温かくなったよ。あのイニゴも赤子だったのだと。
ただ、私はイニゴから何の手紙も預かってきてはいなかった。大使に負担をかけることも心配だったので、訪問はしなかった。ポルトガル大使を随伴しているとなると、ほうぼうあいさつに連れて回ることなどとんでもないことなのだよ。私が言うのもおかしいかもしれないが、大使は貴族で、その立場は尊重しなければならない。
この時に私は、シャビエル城に訪問することも控えようと考えていた。パンプローナに至った際に、そのことをマスカレンニャス大使に伝えたところ、彼はたいそう驚いていた。
「フランシスコ司祭、今度はいつ郷里に来られるか分からないのですぞ。ぜひ、生家を訪ねてください。私たちはパンプローナで待機していますから」
私はしばらく考えてから大使に伝えた。
「それでは、遠くからシャビエル城を眺めることにいたします。肉親に会うと郷愁が募りますから。眺めるだけで結構です」
そして私は懐かしいピレネーの山々を背景にした、新しいシャビエル城を見た。
城は前のものより小ぶりで、塔もごく低いものだった。もう要害としての役割も終わったので、それでいいのだろう。
それは私が慣れ親しんだ我が家とは異なるものだった。
父もいない、母もいない、「おじいさま」もいない、兄が家庭を築き守っている城なのだ。そう、兄の城なのだ。それはよく分かっていることだし、私はもうここから離れて大分経ってしまっている。それに、手紙の返事を受け取っていない。兄は私には会いたくないのかもしれない。あるいは、もう、いなくなったものだと思っているのかもしれない。
私の帰る場所ではないのかもしれない。
涙は出なかった。しかし、やるせない気分だけはしばらく消えなかった。
「いいのですか、これで?」と大使が尋ねた。
「はい」とだけ私は答えた。
アントニオ、イベリア半島を横断することは、私にとって郷愁をかきたてる結果になったのであまり多く話したくはない。私がシャビエル城からどれほど遠く離れてしまったことか。それは距離だけではない、家族とのつながりも、それがあったのかさえ不確かなほどにおぼろげに、遠くなってしまった。せっかくの大使の厚意だったので通ってみたものの、それなしで済ませたほうがよかったのかもしれない。
私を含めたマスカレンニャス大使一行は1540年6月末にリスボンに到着した。
一行には大使とその家族、従者、私に加えてイタリア半島で出会ったミセル・パウロとパリで再会したフランシスコ・マンシラスが加わっていたことを言っておかなければならない。大所帯になっていたのだ。2人とも熱心な学生で、私が修道会の一員として、求められてポルトガルに赴く話をすると、「ぜひ一緒に行かせてください」と志願したのである。彼らはその後の私にとって、心強い同行者になる。そのような出会いがあったことも付け加えておこう。
坂の上から広大な海が広がっているのが見える。ヨーロッパの西の端、リスボンに着いたのだ。
私がイベリア半島の間じゅう持っていた悲哀と同じ匂いがした。
それは海の匂いだったのかもしれない。
涙の匂いだったのかもしれない。
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