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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

巡礼船に乗るために 1537年 ローマからヴェネツィア

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<フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、ディエゴ・ライネス、シモン・ロドリゲス、アルフォンソ・サルメロン、ニコラ・ボバディリャ、クラウディオ・ハイオ、パスカシオ・ブロエット、ファン・コドゥリ、イグナティウス・ロヨラ(イニゴ)、教皇パウロ3世>


 私たちはローマに着いてからしばらく托鉢をして歩き、そこで知り合ったオルティス博士の紹介で教皇パウロ3世に謁見(えっけん)する機会を得ることになった。

 オルティス博士は教皇庁でも高名な学者だった。
 でなければ私たちのような、彼らから見れば、得体(えたい)の知れない托鉢僧の集団がそんなに簡単に教皇に謁見できるはずがない。そう思っていたのだが、博士の尽力が大きかったのだろう。私たちは間を置かず、カスタル・サンタンジェロに呼ばれたのだ。



 その日、ティベレ川沿いにそびえる巨大なカスタル・サンタンジェロを前にして、私たちはやや気後れしていた。この城は地上から見ると平べったい円柱形のように見えるが、真上から見ると五芒星の形になっているらしい。何と巨大な円柱だろう。文字通りここが教皇庁の柱なのだ。

「パウロ3世は私たちのことを認めて下さるだろうか」とシモンが不安げな顔をして言う。
「最近、フランシスコ会から派生した一派が新しい修道会として認められた例はあるが、それ以外に新しい会が認められたことはないようだ。本当に大丈夫だろうか」とニコラもつぶやく。

 他の仲間も皆、心の中では一様に同じ不安を持っている。しかし私はイベリア半島の同胞が不安げになっているのを払拭しようと、明るく大きな声で言った。

「こちらがおどおどしていては、相手を説得することはできない。確かにイニゴがいれば、きっと教皇猊下(げいか、尊称)に十分訴えるだけの話ができるだろう。しかし、今はこの9人しかいない。私たちは今ここで精一杯訴えるしかないのだ。ヴェネツィアのイニゴによい知らせを持ち帰るために」

「そうだな、ここまで来てしまったのだから、あとは赤い布を持って猛る牛に立ち向かうしかない」とディエゴがうなずく。
「闘牛かい? 血の気の多いことだね。でも確かに、今の私たちには血の気と冷静な頭の両方が必要なようだ」とアルフォンソがうなずく。

 サラマンカからやってきたふたりの言葉が嬉しかった。
 私は彼らに初めて出会ったときのことを思い出していた。彼らはイニゴの志に共感して、はるばるパリまで出てきてくれたのだ。
 それから2年、私たちはそれだけの研鑽(けんさん)を重ねてきたし、ひたすら祈り黙想を続けてきた。そう、モンマルトルの誓願に基づいて忠実に行動してきたのだ。私たちは何を臆することがあろうか、そんな強い気持ちがふつふつと沸いてきたのだよ。

 オルティス博士は教皇パウロ3世が現れるまでの間、数人の枢機卿(すうききょう、すうきけい)とともに緊張しがちな私たちに気さくに話しかけてくれた。実際、王侯の城と比較しても遜色のない、いやそれ以上に豪華な室内や調度品を見てしまったら、気後れしない人間はいないだろう。とはいえ、王城に入ったこともないのだから、どうも客観的な感想とはいえない。それは皆同じだった。

 オルティス博士は言う。
「教皇さまは3年前のクレメンス7世ご逝去後コンクラーベで選出されました。その意味ではまだ新しい教皇さまですが、枢機卿になって確か44年になります。バティカンには誰よりも詳しく、長老と言ってもいいでしょう。何しろ、イタリア戦争が始まる前からローマをよくご存じですからね。そう、ちょうど、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿が教皇アレクサンデル6世になられたときに枢機卿になられたのですよ」

 私はオルティス博士の話をどこか遠くで聞きながら、謁見のときの挨拶(あいさつ)を失敗しないようにしなければと、そればかり考えていた。しかし、それは杞憂(きゆう)に過ぎなかった。

 謁見の間で教皇パウロ3世は実に気さくに私たちに語りかけてくださったのだ。私たちの会の誓願、会員の構成、司祭が二人いることなどはすでにオルティス博士から伝えてもらっていたので、それらを冒頭から復唱する必要はなかった。
 私たちが修道会を結成したいこと、そのために叙階とイェルサレム巡礼の許可を受けたいことを丁寧に言上するだけでよかった。教皇はそれに伴う質問をいくつか発せられたが、それは主に誓願に基づいてどのような活動をするかということについてだった。
 一通り話が済んで、教皇は私たちにこう告げた。

「新教との対話をすすめながら、ローマ・カトリック教会の体制を磐石にすることが、より一層神の意思に添う道であると思う。できるだけ早く公会議を開き両者の対立を解消したいと考えているが、あなたがたのような気鋭の徒が出てくることは何とも心強い。あなたたちの会を修道会として認可できるよう、早急に準備をすすめよう」

 初めての謁見で、パウロ3世からこれだけ好意的な言葉をもらえるとは夢にも思っていなかった。
 私たちは教皇と謁見するまでに、さらに幾重もの壁があると思っていたのだから。

 ただ、パウロ3世は誓願の内容についてひとつだけ指摘をした。

「聖地イェルサレムの巡礼については、残念ながら、現在はたいへん困難なことだと思う。何かそれに代わるものか、それと同等の事項にしたほうがよい」

 私たちはヴェネツィアに戻ったら、その点は私たちの代表であるイグナティウス・ロヨラにもはかり再度検討すると答えた。教皇みずから具体的なことを言明されたのは、会を認可するのが前提だということだろう。それは私心からではなく、当時の状況を正確に踏まえてのものだった。

 その話はまた後でしよう。

 謁見の時間が終わり、私たちが跪(ひざまず)いていたとき、私の前にパウロ3世が寄ってきてそっと話しかけた。

「フランシスコ・ザビエル、あなたの父君はかつてナヴァーラ王国の宰相(さいしょう)だったという。父君はパンプローナの王宮に詰めておられたのだね」
「はい、父は普段はパンプローナにおり、休みになるとシャビエルの居城に戻ってきておりました」と私が答える。
「1506年もそうだったのだろうか」とパウロ3世がさらに小さな声で聞く。
「教皇さま、それは私が生まれた年ですので覚えてはいませんが、確かにその頃父はパンプローナにおりました」

 教皇は黙って二回うなずき、そのまま去っていった。

 私はなぜ教皇がナヴァーラのこと、父ホアン・デ・ハスのことを聞いてくるのか分からなかった。
 そして、なぜ1506年なのだろう。
 なぜ私の生まれた年のことを聞くのだろう。教皇はイタリア半島の出身だったのだから、ナヴァーラには縁もゆかりもないはずなのだ。
 そのときはその理由が皆目分からなかった。

 カスタル・サンタンジェロを出るまで、オルティス博士が私たちとともにいてくれた。私たち9人はこの恩人に丁重に感謝の気持ちを伝えた。

 オルティス博士はそれを微笑んで受け止める。
「いや、私がしなくとも他の枢機卿がしたと思いますよ。あなたたちはそれぐらい目立っていましたからね。それにしても、初めての謁見で教皇さまがあれだけ前向きな発言をするとは驚きだ。たいていは話だけ聞いて帰されるのに。それにフランシスコ、教皇さまはあなたに直接話しかけておられた。あれも滅多に見ない光景でした。励ましをいただいたのですね」

 私は何と言ってよいか分からず、あいまいに微笑むしかなかった。

 通常、認可状が出されるまでにはかなりの時間がかかるということだった。場合によっては先送りになったり、却下されたりもするようだ。パウロ3世が好意的だと言っても、途中で却下されることも考えられる。私たちは文字通り、運を天に任せてそれまでの間、托鉢の生活を送ることにした。

 しかし、私たちを取り巻く空気は一晩にして変わっていた。
 私たちが教皇に謁見したことは、すでにローマの街で噂になっていたようだ。喜捨も目に見えて増えたし、宿にもまったく苦労しなかった。と言うより、泊めてもらう家を決めることに苦労したほどだ。食事だけは相変わらず固辞して、皆でパンを分け合って食べていた。
 教皇から前向きな言葉を受けたことが、私たちを最も満たすパンだったので、心には希望が溢れていたのだ。

 1537年4月30日、私たちは教皇庁から叙階と巡礼の許可状を受け、ギヌティ枢機卿がそこに署名をしてくれた。謁見したその月のうちに、許可状が発行されたのだ。これは通常から見てかなり早いと言うことだった。
 そのラテン語の、立派な許可状を何度も眺めながら、何度も涙が出そうになった。9人が代わる代わるそれを眺めて、私と同じような顔をしている。オルティス博士もその場に立ち会ってくれたが、さぞかしおかしい光景だと思ったのではないか。博士には本当にお礼の言いようがない。

 私たちは許可状を持ってヴェネツィアに戻ることとなった。イニゴが待っているのだ。一刻も早く代表者にこれを見せなければ、気が急くばかりだったよ。

 もう5月になった。

 宿を貸してくれた民家の主人にあいさつをしていると、オルティス博士が立っているのが見えた。わざわざ見送りに来てくれたのだ。私たちはまたの再会を約束して去ろうとした。
 しかし、私には引っかかっていることがあった。
 オルティス博士なら分かるのではないだろうか。私は仲間から離れて博士に近寄っていった。

「つかぬことを伺います。パウロ3世はナヴァーラ王国と何か関係があるのでしょうか」と私は単刀直入に質問した。
 オルティス博士は突然の質問にきょとんとした顔をした。
「いや、教皇さまのファルネーゼ家はカニーノ(イタリア)の名家でナヴァーラ王国とは関係がないはずだが……」
「そうですか……」
 私がうなずいて去ろうとすると、博士ははたと思い出したように言った。
「教皇さまはナヴァーラには関わりがないが、その恩人はアラゴンの出身だったから、それかもしれない。ただ、アラゴンとナヴァーラではまた違うだろう」
 私はさらに質問した。
「それでは、1506年、私の生まれた年ですが、その年に何か大きな事件がありましたか」
 オルティス博士はさらに考え込んでしまった。私もさすがに意味不明の質問ばかりで失礼になると思ったので、もうやめようと思った。そして、最後にひとつだけ聞いてみた。

「パウロ3世の恩人とはどなたですか?」

 オルティス博士は、それなら答えられるという風に安心した表情をした。
「ああ、前世紀末の教皇アレクサンデル6世だよ。パウロ3世は教皇アレクサンデル6世が任に就いたとき、枢機卿に選ばれたのだ。大抜擢(だいばってき)だったそうだよ。恩人というのはそのようなことだ。そのアレクサンデル6世の出身がアラゴン王国のヴァレンシアだったのだ」

 それで質問は止めることにした。
 私はオルティス博士に丁重に礼を言って暇乞い(いとまごい)をすると、仲間とともにヴェネツィアに戻る道を進んだ。

 オルティス博士が教えてくれた情報と、パウロ3世が私に話しかけた内容を繋ぐ糸はあるのだろうか。アラゴンとナヴァーラは確かに近隣ではあるが、あまり関係がないように思えた。パウロ3世ははっきりと、「パンプローナの王宮」と言ったのだ。それに1506年について、何の情報もなかった。歴史に残るような大事件があったわけでもないらしい。いくら考えても結びつける糸口が見つからなかった。

「どうしたんだ、フランシスコ? 腹の調子が悪いのか」
 だいぶ先に進んでしまったピエールたちの声が聞こえる。私は慌てて走り出した。



 ヴェネツィアで待っていたイニゴと2カ月ぶりに再会だ!
 彼の体調はすっかり回復したようで、顔色もすこぶるよかった。

 またもや抱擁、抱擁、抱擁だよ。
 このときは私も興奮して、思い切りイニゴの肩を叩いてしまった。イニゴはあまり若くないのだから、手加減するべきだった。しかめっ面をしたイニゴはすぐに笑顔になった。しかし私たちの話をゆっくり聞く余裕はなかったらしい。

「それで? それから? 結局どうなった?」

 この単語が夢に出るほど繰り返されたのだよ、アントニオ。今でも思い出すと笑い出しそうになる。
 イニゴと再会して10人でワイワイと過ごしたあの夜は本当におもしろく、楽しかった。私たちは希望という風をいっぱいに受けて進む帆船のようだった。

 私たちはあくる朝、さっそくサン・マルコ聖堂に全員で赴いた。教皇庁から許可を受けた叙階と巡礼の件について相談するためである。

 初めてヴェネツィアを訪れたのはたった4ヶ月前だ。そのときは、サン・マルコ聖堂の大きさに圧倒されて、入るのに怖気づいたほどだったのに、今は臆することなく入っていく。私はそのことを思い返したよ。

 そうなのだ、初めての光景は新鮮でたくさんの感銘を与えてくれるが、私たちはそれにすぐ慣れてしまいすぐに見向きもしなくなる。いつでも初めて見た、出会ったときの心を持っていなければならない。でなければ私たちも慢心してしまうだろう。

 サン・マルコ聖堂ではベラリー枢機卿がすぐに私たちと面会してくださった。枢機卿はヴェネツィアの病院における私たちの奉仕活動についてもすでに耳にしていたので、「すぐに司祭叙階の準備をすすめるようにする」と約束してくださった。もちろんそれに必要な手順というものがあるので、私たちにも努力が必要だった。
 その準備の間、1ヶ月ほどのことだったのだが、私たちは再び病院での奉仕活動にいそしんだ。そのときには他の修道士のように働くことができたかもしれない。他人の評価と自身のそれとは異なるものだからね。しかしやはり、経験というのは強い武器になると感じたのだよ。

 どのような病に対しても、どのような懇願と苦痛の表情にも、どのような死に対しても、同じ祈りを心の中で捧げられるようになったのだ。間違えてほしくないのだが、軽く考えているのではない。相手のありようを自身のものとして受け止めながら、相手の望みに静かに寄り添うということだ。私はその後もたくさんの病者に出会うことになるのだが、それをまったく苦だと思わなかったのはこのときの経験が大きかった。

 そして、司祭に叙階されるにあたって、自分の心をもっと鍛えなければならないと思っていた。より大きな困難にも折れずに立ち向かえるように。

 司祭への叙階だが、あっけないほど素早く進んだのだよ。
 ヴェネツィアからイェルサレムへの巡礼船が出るまでにと、ベラリー枢機卿も最大限に取り計らってくれていた。繰り返すが、通常ではありえない速さで、私たちの叙階が現実になったのだ。それまでに一般教養と神学を学んできたということもあったが、教皇庁に認可されるというのはそれだけ大きなことなのだろう。西欧の隅々までその力は、影響力は有効になる。大学で学んできたこと以外にも、学ぶべきものはまだまだたくさんあると思ったものだ。

 1537年6月15日にはイニゴをはじめとする会員が副助祭に、17日には助祭、24日の洗礼者聖ヨハネの祝日には司祭に叙階された。

 はじめに私たちが臆していたサン・マルコ聖堂で。

 そして、私たちは巡礼船を待った。
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