16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

聖地と帝国 1535~36年 パリからヴェネツィアへ

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<フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルなど5人、イグナティウス・ロヨラ(イニゴ)、クラウディオ・ハイオ、パスカシオ・ブロエット、ファン・コドゥリ、スレイマン1世、カール5世、イエス・キリスト>

 イニゴが帰郷を兼ねたイベリア半島の旅に出たのは1535年の初夏だったが、その後神学を学ぶためにソルボンヌ学院に転学した私たち6人のもとに、新たな仲間がやってきた。クラウディオ・ハイオである。サヴォイアの出身で、ピエールの話に感動して私たちの仲間に加わりたいと言ってくれたのだ。

 1535年8月15日の誓願更新はクラウディオを加えた7人で行った。

 誓願は毎年きちんと更新するものなのだよ、アントニオ。クラウディオもすでに司祭に叙階されていたので、私たちにとってはたいへん心強かった。そして、「われわれも早く神学を修めよう」という励みにもなった。

 これまではスペイン、ポルトガル、ナヴァーラなどイベリア半島の出身者ばかりだった。もちろん、どこの国の人間が多くても問題にはならないが、ローマで活動することを考えると他の地域の人間がいたほうがいいと思っていた。例えばイタリア半島の人間がいたら、ローマへの働きかけが容易になるかもしれないという現実的な意味がある。複数の国の人間がいたほうが、活動範囲を広げるのにも役立つだろう。

 サヴォイアのクラウディオが入ったことで、フランス人の中からも私たちの会について興味を持つ人間が増えた。翌年にはパスカシオ・ブロエット、ファン・コドゥリ、二人のフランス人が私たちの仲間に加わってくれた。

 新しい仲間を得て、私たちの準備期間は静かに過ぎていく。

 ソルボンヌ学院で神学を学んだ時間はそれまでとは打って変わって、静かで落ち着いたものだった。もうすでに進む道を決めている私たちはただひたすら司祭として必要な知識を学び、ピエールについて祈りと黙想を繰り返していた。

 バルバラ学院の頃に一人で考える時間があったのも貴重だったが、それよりはるかに精神的に満たされた素晴らしい時だったのだよ、アントニオ。

 旅に出ているイニゴ以外の9人が、皆同じように祈りを捧げる。沈黙のうちにイエス・キリストを思う。そして空き時間にはヴェネツィアに行く準備について話し合う。誰がどのような役割をするか決めていく。それぞれの得意分野について述べ、推薦しあう。本当に有意義な時間だった。

 ピエールがすべての橋渡し役だった。彼がいたから、私たちの間で「スペイン対フランス」というさきの戦争のような事象が起こらなかったのかもしれない。彼はいつでも公平に判断した。彼の意見は誰もがきちんと耳を傾けた。
 あるとき彼は私が実務にたいへん長けていると公言した。

「フランシスコが語学に堪能(たんのう)なことはみんなが知っている。そして彼はバルバラ学院でアリストテレスの教授だった。筋道を立てて考える方法を得ているだけでなく、幅広い分野の学問に明るいということだ。ローマに行っても、もちろんヴェネツィアでも堂々と交渉ができるはずだと私は思う。あと、みんなの考えをまとめて文書に起こすこともお手のものだろう? フランシスコには私たちの外交官を担ってもらい、同時に文書の最終的な確認をする役目もしてもらうといいのではないだろうか」

 これに異論は出なかった。ピエールの賛辞は少し気恥ずかしかったが、私にもそれは魅力的な任務に思えた。
 そんな風におのおのの役割が自然と決まっていく。はじめからリーダーはイニゴであることは言うまでもない。彼のような「精神的指導者」は修道会を率いるのに不可欠な存在なのだから。

 1535年の秋から1537年の夏までがソルボンヌ学院における私たちの履修期間だったが、その途中、1536年の秋にイニゴから手紙が届いた。すでにヴェネツィアに着いているという知らせだった。予定では翌年の春にヴェネツィアに到着すると言っていたはずだが、まったくイニゴらしい。私たちに早くヴェネツィアに来てほしいという。

 私たちは、聖書、カトリック教理、典礼、教会史など規定の課目をほぼ修了していたので、その証明が前倒しでもらえるか、学院と交渉しなければならなかった。私たちの会はすでにソルボンヌ学院でも有名になっていたので教授の中には好意的な人も多かった。そのためか神学課程の修了繰り上げは思ったよりも容易に認められた。

 交渉のときに、「聖地巡礼のため」と熱心に説明したが、それが効を奏したのかもしれない。

 学院の方はまだよかった。迅速に進まなかったのは私の家族の理解なのだよ、アントニオ。

 結局イニゴの訪問でも兄たちはあまり私の進路に対して前向きにはなってもらえなかったらしい。
 でもそれは仕方ないことだ。他の会員、ディエゴやアルフォンソとは事情が違う。兄たちは、イニゴがパンプローナの王宮で敵として戦った相手だということを、ロヨラの苗字だけで知ってしまう。ただでさえ好感を持っていないところに来て、かつての敵だったと知れば、もう交流しようと思わないだろう。私だってそうだったのだ。

 兄たちにイニゴをよろしく頼むと手紙を書いてはみたものの、ことが順調に運ぶとは思っていなかった。兄たちに私以上の忍耐を求めるわけにはいかない。

 それに乗じて、サラマンカ大学教授のマルティン・アスピルクエタから抗議の手紙が来なくなったのが不思議だった。不気味な沈黙のように思えたよ。何もなかった。目をかけてきたいとこ(実際は祖父同士がきょうだいなので又いとこになるのだが)の母マリアが亡くなってしばらく経っていたし、あまり私たちきょうだいのことに首を突っ込まないようにしているのだろう。

 私はそのときそんな風に考えていた。

 1536年の夏、兄たちは私が貴族の嫡子であるとの証明書を取って、パンプローナの司教座聖堂に登録していた。そしてパンプローナの司教座聖堂から私を参事会員に任命するという通知書が私の手元に届いたのだ。パンプローナで司祭に叙階する第一歩ということになる。
 その証明書の手続きは以前、バルバラ学院の頃、兄たちに依頼していたものだった。そう、まだイニゴやピエールと疎遠にしていた頃のことだ。そんなことはすっかり忘れていた。
 私が本気で新しい使徒の会に身を投じるつもりであると知って、焦って手続きをしたのだろう。

 パンプローナで聖職者として身を立てること、確かにそれは当初私の目的だった。しかし、今はもうその道を選ぶ余地はない。

 私は兄たちの期待を裏切ることを悲しく思いながら、もう引き返せないのだと心の中でつぶやいた。母とじっくり話をしないまま別れてしまったことに比べれば、兄たちはまだ若く、生きているのだから会って話す機会がまだある、そう思っていた。

 アントニオ、そうではない。そのように、しなければいけないことを明日でもいいからと延ばしているうちに、その機会を永遠に失うこともあるのだ。日々精進し、しなければならないと思ったことにはすぐにとりかからなければならない。

 母マリアと同様に、兄たちともパンプローナで別れて以降、会うことはなかったのだ。
 もう会えないだろう。

 さて、アントニオ、私たちがなぜ、はじめにローマではなくヴェネツィアを目指したか分かるだろうか。

 ヴェネツィアからは聖地イェルサレムに行く「巡礼船」が定期的に出ているからだ。

 私たち会のメンバーの誓願に「聖地巡礼」があったことは覚えているだろう。私たちはその誓願を初めに果たそうと思っていたのだ。

 イェルサレムは絶対的な「聖地」だ。もちろん、聖書をひもとく中であなたにも繰り返し話しただろう。
 ヤハウェを神とするユダヤ教を母胎としつつ、民族を超えた「神の愛と救済」を主イエス・キリストが唱えられた。イエスの言葉、奇跡、受難と死、そして復活については、よく知っているはずだ。その数々のできごとは、イェルサレムであったことなのだよ。

 実際にイエス・キリストが生き、十字架にかけられた。それがこの地なのだ。
 イェルサレムの街には、それらの場所が残されている。

 イエスが総督ピラトゥスから死刑の宣告を受けた場所。
 イエスが十字架を負わされた場所。
 イエスが最初に倒れた場所。
 イエスが母マリアに出会った場所。
 シモンが最初に十字架を負わされた場所。
 ヴェロニカがイエスの顔を拭いた場所。
 イエスが二度目に倒れた場所。
 イェルサレムの娘たちにイエスが語りかけた場所。
 イエスが最後に倒れた場所。
 イエスが衣を脱がされた場所。
 イエスが十字架につけられた場所。
 イエスが息を引き取った場所。
 十字架からイエスの遺体を下ろした場所。
 イエスが葬られた場所。

 それらが全て残っている。他の遺構も数多く残されている。
 絶対的な「聖地」というのはそのようなことなのだ。特別なのだよ。
 それにイエスの使徒(弟子)であるぺテロが殉教したローマ、ヤコブの墓があるサンティアゴ・デ・コンポステーラを加えてカトリックの三大聖地としている。

 最大の聖都イェルサレム、その地はしかし、イスラム勢力に長く預けられたままだ。

 ここがユダヤ教とキリスト教の重要な土地なのに加えて、イスラム教徒にとっても重要なのは知っているだろう。預言者ムハンマドがイスラム教を創始したのもこの地なのだ。そう広いわけではないこの街が3つの宗教の重要な地となったことは、後世に争いをもたらすこととなった。教皇の命による十字軍がたびたび聖都奪還のために遠征した歴史もある。

 私たちのヴェネツィア行きとも関係があるので話を続けよう。



 このときイェルサレムはオスマン帝国の治世下にあった。私たちがパリに来たころにはすでに、スレイマン1世が王として君臨し外征を繰り返していた。彼はその当時、世界最強の「陸と海の軍隊」の長だったのだ。アントニオ、鄭和(ていわ)の船団がこの時期に大航海を行わなかったのは幸いだったかもしれない。

 前に、ハンガリーをオスマン帝国が侵略した話を少しだけしたが、その前の段階から話そう。

 スレイマン1世は1520年に王になった。
 そしてすぐさまハンガリー侵攻に向けての一手を打ったのだ。すでにオスマン帝国軍はその近隣まで領土を拡大していたが、ハンガリーの支配者であるヤギェヴォ家が貢納金を支払うことと引き換えに不可侵を約束していたのだ。しかし、ハンガリーは貢納金の支払いを止めた。神聖ローマ帝国の保護が得られると踏んだのだろう。貢納金未払いの状態はスレイマン1世の即位前から続いていたので、その地への侵攻は待ったなしの課題になっていた。

 スレイマン1世はまずハンガリーの南、セルビア公国の首都ベオグラードへの侵攻を進める。セルビアはハンガリーの属国であったからだ。オスマン帝国軍はエディルネ(現在はトルコ)、ソフィア(現在はブルガリア)を進軍していく。このとき援軍を得ていたセルビア軍は砦を築きよく持ちこたえた。しかし、寝返る者が現れ、守備の心臓部である高塔が崩された。それを機に形勢は逆転し、難航不落といわれたベオグラードは陥落した。その場にいたギリシア正教徒たちはイスタンブール(コンスタンティノープル)に捕囚されたという。

 ベオグラード陥落は1521年のことだった。
 そう、私たちの兄がパンプローナで戦っていたときと同じ頃になる。そして1522年、スレイマン1世は息つく間もなく、次の攻撃目標を地中海に定めた。難航不落の城砦を持ち、聖ヨハネ騎士団の支配下にあるロードス島だ。

 騎士団が海賊行為などの無法を働くので討伐する、というのがオスマン帝国側の言い分だったが、ここを押さえてしまえば、地中海の島々にいくらでも遠征することができて、北アフリカ、イタリア半島への兵站(へいたん)基地にすることもできる。前世紀の王メフメト2世が遠征して制覇できなかった過去のいきさつもあり、スレイマン1世としてはこれも達成すべき野望であった。

 陸も海も関係なく、縦横無尽に自らの大軍を動かせるのがオスマン帝国の最大の強みである。その力は、このスレイマン1世の治世に最大限に発揮される。そして、ヨーロッパはまだそれだけの軍事力を持ち、足並みを揃えて対抗するほどの力を持っていなかったのだ。
 スレイマン1世はそれをよく知っている。なので、その軍事力を抑止力としても利用した。
「降伏すれば攻撃しない」ということである。ロードス島の攻撃に対してもそうだった。

 ロードス島の実質的な支配者である聖ヨハネ騎士団の団長ヴィリエ・ド・リラダンはスレイマン1世からの降伏勧告を握りしめつつ、自国の王フランソワ1世や教皇ハドリアヌス6世に援助を要請したが、十分な援軍は出されなかった。万事休すであった。

 騎士団という言葉が分かりづらいかもしれないので、説明しておこう。

 キリスト教の「騎士団」というのは、もともと、フランス、イタリア半島、スペインなど各国の貴族の子弟を中心に編成された軍隊である。
 イエス・キリストの墓所を含む聖地イェルサレムを守ること、聖地に住むキリスト教徒と巡礼者を保護すること、聖地防衛における病者・負傷者の治療・看護にあたること、その戦いで捕虜になるなどしたキリスト教徒の探索・救助にあたることを主な目的として結成されたものだ。
 もともと騎士団は十字軍遠征において活躍していたが、イスラム教国家によるイェルサレムの支配が固定するとその目的はあいまいになり、キプロス島に一次集結したのちに雲散霧消(うんさんむしょう)していった。その後は、「騎士団員」という、名前だけで実体のない称号として使われるばかりになった。または、それぞれの国々で王直属の形で存続するものもあった。例えばスペインのサンティアゴ騎士団などはそうである。カスティーリャの英雄とでもいうべきゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ将軍が在籍した騎士団だ。

 聖ヨハネ騎士団と並び三大騎士団と呼ばれたテンプル騎士団、チュートン騎士団は悲惨な末路をたどった。

 テンプル騎士団はフランス王によって異端の罪に問われ、団員は拷問や火あぶりとなり壊滅した。チュートン騎士団はまだましだったが、本国に戻って地域で従軍するのみとなった。

 三大騎士団の中でただひとつ生き残った聖ヨハネ騎士団はロードス島を占拠すると、「キリスト教防衛」のための最前線として島に堅牢な城砦を築いたのである。

 さて、降伏勧告を無視された形のオスマン帝国はロードス島に押し寄せた。押し寄せた、という表現が適切だろう。スレイマン1世の船団はなんと235艘に及んだのである。海上封鎖である。それを持って海から難航不落の島の城砦を攻撃し続けたのである。これは長期戦だとスレイマン1世も分かっていた。

 ロードス島が陥落したのは5ヶ月後の1522年12月10日だった。

 スレイマン1世は敗軍に寛大な態度を示した。騎士団長以下団員は島から追放されたがそれ以外の罰などはなく、島民はオスマン帝国の支配下におかれるが徴税は免除された。オスマン帝国の異教徒、敵国に対する寛大、寛容な処遇についてはそれ以前からも見られたものであるが、それがこの時期には帝国の版図拡大に大いに役立っていたことと思う。


 イニゴとこのロードス島の攻防戦について話をしたことはなかったが、彼は、自身が大ケガをすることになったパンプローナの攻防戦と重ねてみたことがあったのではないかと思う。
 そう、同じ時期なのだ。
 キリスト教の旗印のもとにある騎士団が異教徒に打ち倒される姿を、苦境の己が身にあてはめたことがあるのではないのかと。
 イニゴはもう戦えない。その身で「剣を持たない十字軍」として名乗りをあげたことにはこの戦いの影響もあるのだと、私は思っているのだよ。

 そして、スレイマン1世は征服した土地を足がかりにさらなる攻勢をかけてくるのだ。
 ハンガリーは制圧され、さらに進んで神聖ローマ帝国の都市ウィーンを1529年と33年に二度包囲するまでにいたった。これで神聖ローマ帝国(ハプスブルグ王朝)の皇帝カール5世はバルカン半島に進出することができなくなったのだ。すさまじい勢いだろう。しかしそれだけでは終わらなかった。

 カール5世はさらに、海でもオスマン帝国と対峙していかなければならなかったのだ。それが、私たちのヴェネツィア行きと関わることになるのだよ。だからここまでの話は予習のようなものだ。


 さて、1536年に進まなければいけない。

 イニゴの求めに応じて、神学の修了証書と司祭叙階に必要な書類を大急ぎで得た私たち9人はようやくヴェネツィアへの旅に向かうこととなる。1536年11月15日のことだった。

 またもや、冬の旅だ。

 私がパンプローナからパリに出発したときのように。
 しかしピレネー山脈のほうがはるかに優しかったのかもしれない。雪はそう多くない年のようだったが、これ以上はないほどの冬の旅だったよ、アントニオ。
 それもまた貴重な経験だった。
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