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第12章 スペードの女王と道化師

オークの木の下で

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 メアリー・ステュアートが王国に帰還する報せは、イングランド女王のエリザベス1世にもただちに届いた。

 ウィンザー城の広々とした謁見室で、側に付く国王秘書長官ウィリアム・セシルに女王は淡々と感想を述べる。
「スコットランド女王の帰還ね……諸手を上げて歓迎するというわけにはいかないでしょう。これが新たな火種にならないよう祈るしかありません」

「さきのエディンバラ条約で、スコットランド女王にはイングランドの王座を求めないという約束ができています。それは改めてメアリー女王にも確認していただきましょう。フランス語の通訳を付けた方がいいでしょうか」
 秘書長官の皮肉めいた言葉にエリザベス1世は苦笑して続ける。
「あの人は物心ついてからフランスに渡ったのだけれど……なんなら私が通訳するわ。多少は学んでいますからね。それにしてもウィリアム、去年スコットランドに出兵したのは正しい判断だったわ。スコットランドにフランスを介入させなかったし、同時にイングランドにも介入させないという言質を取ったのだから」
 女王の賞賛に長官は恭しく礼をする。
「イングランドの安定を脅かす芽あらば、一刻も早く摘まねばなりません。フランスはスコットランド女王を手放したのですから、当分横槍は入れて来ないでしょう。願わくばもう少しだけ早く、条約批准のサインをいただけると嬉しかったですが」
 エリザベスは苦笑する。
「幼少からとても慎重な性格なのよ。でもいったん決めたら動じないわ」

 前年、フランソワ2世が妻の国であるスコットランドの国政に介入をはかるチャンスがあった。国内のカトリック勢力を支援し、兵を駐留させ親イングランドのプロテスタントを排除しようとしていた。多分に代理戦争の側面もあるだろう。ウィリアム・セシルはイングランドもただちに軍を差し向けるよう女王に進言した。
 そのさなかの1560年、カトリックとプロテスタントの騒乱が起こった際、イングランドは即座に鎮圧にかかった。こう言っては物騒だが、ヘンリー8世以降、不穏な気配を伴う王の交替が続いていたので、反乱の鎮圧に長けていたかもしれない。そして、ウィリアム・セシルが主導してスコットランド王室との間で『エディンバラ条約』を取り交わしたのだった。調印に躊躇う女王にウィリアム・セシルは「イングランドの安定を脅かす芽あらば、一刻も早く摘まねばなりません」と言って説得した。
 さきと同じ台詞である。
 秘書長官の懸念は、カルヴァンの薫陶を受けたジョン・ノックスら教会改革派の勢力拡大にもあった。スコットランドは急速にプロテスタント(改革派と呼ばれる)の国家になりつつあったのだ。プロテスタントとカトリックの中道といえる国教会を打ち立てているイングランドにとって、先鋭的な改革派は警戒すべき相手である。

 メアリー・ステュアートがエディンバラを去った頃とは状況がずいぶん変わっている。女王が不在の期間も女王の母や残る宰相らがしっかりと留守を守っているので、確かに帰る場所はある。ただ、キリスト教の信仰手段については十分に理解しておかなければならなかった。すでにプロテスタントが増大している中で、国家元首といえどもギーズ公のように強硬な態度を取るのはご法度である。それがどのような結果になるか、メアリー自身もフランスで見てきた。

 1517年頃、レオ10世が教皇庁建て替えのための資金を融通するのに贖宥状の製造を許可し、フッガー家と一部聖職者、貴族が手を結んで大量の贖宥状を売りさばいたーーのがこの世紀の宗教改革のきっかけだった。そこから40年あまり後、紆余曲折を経て時代の軸は旧教カトリックと新教プロテスタントの対立に置かれるようになった。

「スコットランド女王の件はいったん置いて……」とエリザベス1世は話を変える。
「はい」とウィリアム・セシルは女王を見る。
「フランス国王がまだ16歳で崩御されるとは、何と可哀想なことでしょう。しかも、王座を得てまだ1年ほどしかたっていないのに。ジェーン・グレイのように命を絶たれたのではないから、まだいいのかしら。どのような死に方をするにせよ、16歳というのはあまりにも早すぎる」
 ウィリアム・セシルはすっと直立した姿勢のままだが、穏やかな口調で告げる。

「神の御心のままに、と陛下は数年前におっしゃっていました」

 エリザベスはこの時27歳とまだ若いが、これまでの人生の中で、いつ殺されてもおかしくない状態を何度も経験していた。
 ヘンリー8世に6人も妻がいたことは何度も書いた。王のきょうだいの子まで含めると実に多く王の候補者がいたのだ。例えば、メアリー・ステュアートは王の妹の血筋で立派にイングランドの王位を継げる資格を持っていたし、エドワード6世と婚約もしていた。嫡出の男子でなければ女子に、嫡出がいなければ庶子に、でなければ王のきょうだいの嫡子に……という順位はあっただろうが、エドワード6世以降は混沌とした状態に陥った。エリザベスはそのあおりをくらった人である。特に先代のメアリー1世(メアリー・ステュアートとは異なる)の時期には囚われの状態になっていたし、風向きひとつでジェーン・グレイのように処刑されても不思議ではなかったのだ。

「ああ、ハットフィールド・ハウスの外にある、大きなオーク(楢の木)の木の下でね。あなたはメアリー1世の崩御を知らせ、私が女王になると告げた」
「そうです。ハットフィールドの庭、1本だけ立っている大きなオークの木の下で、陛下は腰かけて本を読んでいらっしゃいました……もう3年近く経つのですね」
 二人はハットフィールド・ハウスのオークの木の香りを嗅いでいた。もう冬が訪れていて低い日差しがあった。日中でなければ外に腰かけているのは寒い気候だった。ハートフォードシャーにある聖職者、あるいは貴族の邸宅である。のちに増築されるが、質実剛健な石造りの邸宅である。エリザベスはそこで暮らしていた。悲喜こもごもな出来事が起こったが、エリザベスの一番親しんだ場所である。いっとき汚名高きロンドン塔に幽閉されて自由になったとき、この家の姿をどれほど愛おしく見ただろう。

「神の御心に自分を預けるしかなかったわ。だって、実の母を処刑されたのよ。それがどんな影響を子どもに与えるか想像できますか。そして私自身もジェーン・グレイの次に首を置くかもしれなかった。恐怖と絶望しかありませんよ。それが神の御心によって新たな生が与えられたと思いました。私は御心に従い、女王としてこのイングランドのために生きていく。そう強く思ったのね……」
「ですから、それを女王の宣誓にも使っていただくよう申し上げたのです」とウィリアムはにっこりと笑う。

「あのオークの木を思い出します。あの木は数百年の寿命があると昔私に付いていたキャサリン先生に教わったわ。あの日のことを思うにつけ、オークの悠々とした姿が目に浮かぶし、人生は本当に美しいと思う。
 そして、あの木がもし生きていて、私たちを見ているのなら、私たちの一生なんてほんのわずかな、まばたきのようなものよ。その中のわずか16年しか生きられなかった人たちのことをどう考えたらいいのかしら。やっぱり哀れだし、やりきれないわ。メアリー・ステュアートが帰ってきてどうなるかは分からないけれど、寡婦になった彼女の悲しみには寄り添ってあげないと」
 ウィリアムは微笑んで、「御意」とうなずいた。
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