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第12章 スペードの女王と道化師
メアリーがスコットランドへ発つ
しおりを挟む国王フランソワ2世が重篤になっているとき、ミシェル・ノストラダムスはオルレアンか近郊の城のいずれかに呼ばれたという話がある。ミシェルだけでなく、フランスに在して母后の信頼を得ている占星術師たちは呼ばれたという。そして、夜空の兆しを探したり、占いはもちろん怪しげなまじない及び儀式をしたと書かれているものさえある。ただ、この時期に占い師が必要なほど不安だったとしても、占い師を召集しているほど暇ではなかったはずである。国の明暗を決める三部会は目前に迫っていて、その準備をしなければならなかったからである。準備というのはよくいえばコンセンサスの共有、悪くいえば説得工作になる。
一方のミシェルはしばらく前から通風の症状が出ているし、冷える冬の最中に急いでパリに来いといわれても無理だと考えるのが自然である。現代ならば飛行機で1時間と少し、TGVで3時間ほどあれば容易に行けるのかもしれないが。この頃のミシェル・ノストラダムスはエクス・アン・プロヴァンスでペスト退治に乗り込んだときよりもふくよかになったので、旅をするのはいっそう厳しくなっていた。
どうもこの頃の噂というものは話をオカルトに寄せたがるようだ。
カトリーヌには考えなければならないことが山ほどあった。何よりも実子が重篤になっているのである。それだけで十分すぎるほどなのに、王位の継承、争乱の原因のひとつであるギーズ公の処遇、ユグノー(プロテスタント)との宥和、カトリック聖職者との調整、内乱の芽をひとつひとつ積んでいかねばならないのだった。
加えて対外的な問題もある。西のスペイン・フェリペ2世は強硬なカトリック支持、北のイングランドは女王エリザベス1世のもと、血生臭い政争を経て穏健な国教会を打ち立てようとしている。東の神聖ローマ帝国は既に信仰の自由を明文化した。どの国家も新旧キリスト教のバランスが重要な政治課題となっていたのだ。それらの国々に加えてカトリックの本拠地、イタリア半島と緊密に繋がる必要があった。この世紀の後半はそれが前面に躍り出て、決して舞台から降りてはくれなかったのだ。
かつてマキアヴェッリが書いた、「君主の政治的能力」というのが真に生かされるべき時代だっただろう。残念なことに、マキアヴェッリはこの時代のさわりも見ずに天国に去ってしまった。
それでも、カトリーヌはこの状況を何とかできないかと考えていた。次の王、次男坊のシャルルにもこの役割は重すぎると母親は思っている。当然、大臣たちと十分に討議しなければならないのだが、カトリーヌはカトリック支持を保ちつつ、新教を寛容に受け入れるしかないと考えていた。彼女が恐れていたのは「内戦、そして戦争状態」で、それを避けるのが第一義だった。
その結果、フランスを去れと言われる人もいる。崩御した国王フランソワ2世の妻(王妃)、メアリー・ステュアートである。寡婦になった彼女がフランスで何らかの役に就くことは可能だったろう。なぜなら、カトリーヌも同様に寡婦なのだから。小さい頃からヴァロワ(王家)の子どもたちと共に育てられたメアリーもそれを期待し望んだはずだ。
しかし、カトリーヌはメアリーをスコットランドに戻すことにした。
ずっと子ども同然に育ててきた娘への態度として、冷淡に過ぎると思う向きもあるだろう。ただ、メアリーがフランスで重きを置かれる地位になると、伯父のギーズ公フランソワがあれこれ関与するだろう。そして自身も一層の権力を求めるだろう。
先日はブルボン公アントワーヌとギーズ公の仲を取り持ったが、ギーズ公はカトリーヌにとって遠ざけたい人なのだ。それがメアリーをスコットランドに帰す最大の理由だった。これまでにもカトリーヌは、王の愛人にすら支持者が付いて正当な妻を蔑ろにする風潮が王宮にあったことを身を持って知っている。自身に口を出す機会がない頃は耐えるしかなかったが、今は違う。
しかし、それを納得できない人はギーズ公以外にもいる。最たる人はスペインの王宮にいるエリザベートだ。カトリーヌの娘で、メアリーと同じ部屋で子ども時代を過ごした。兄フランソワとメアリーの結婚をいちばん喜んでいた人でもある。姉妹同然で何でも話していたのだから当然だろう。争乱寸前になっているフランスの様子を気にかけてもいたし、父に続いて兄まで亡くなってしまったのだから、かなりの衝撃を受けていた。
フランスの様子はもちろん本国からも入ってくるのだが、夫のフェリペも同等かそれ以上にフランスの様子を知っていた。メアリー帰国の件を真っ先に知らせたのもエリザベートの夫からだった。この頃まだエリザベートのスペイン語は覚束ないものだったので、通訳経由ではあったのだが。
バリャドリッド宮殿の自室でくつろいでいたエリザベートにフェリペは重々しい口調で告げる。
「メアリー・ステュアートはスコットランドに帰るそうだ」
エリザベートは目を見開いてしばらくものもいえない。目を固く閉じた後ようやく彼女はいう。
「それはあんまりです。スコットランドとイングランドの今の状況を考えたら、狼の群れに羊を放り込むようなものだわ。陛下にいっても仕方ないのですけれど」
フェリペは何度か小刻みに頷いた。
「ああ、私もイングランド女王(メアリー1世)と『白い結婚』をしていたからよく分かるよ。あの国で生き残るのはたいへんな難事だ。すでにエリザベス1世が地歩を固めているし……おそらくスコットランドも飲み込むつもりなのだろう。私がポルトガルを飲み込みたいと願っているように」
エリザベートはスペイン王をすがるような目で見る。
「そうしたら……メアリーはどうやって生きていったらいいのかしら。何とか手を差しのべてあげられないかしら」
フェリペは妻を抱き寄せる。
「しばらく様子を見ていたらいい。メアリーはカトリックなのだし、イングランドで不穏な動きがあれば働きかけることもできるだろう」
エリザベートは夫の胸の中で、小鳥のようにつぶやく。
「三人目の妻ですのに、陛下はずいぶん優しくしてくださいますのね」
少し間があって、夫は答える。
「愛したいと思っても、その前に皆去っていってしまったのだよ。どうかあなたはずっと私の側にいてくれ。私はあなたを守るから」
強く抱きしめられながらエリザベートは、「はい」と小さいけれどはっきりした声で応えた。
もちろん、政治的な思惑はあっただろうが、この王は若い妻を心底から大事にしているようだった。燃えるような恋ではなかったとしても、エリザベートはしっかりと守られる安心を得られたのである。
守ってくれる人がいなくなったのはメアリーだった。彼女を心から愛した亡きフランソワも、フランスの宮廷に住むきっかけになった伯父のギーズ公も、今は彼女を守ることができなくなった。
「あなたと結婚したい人は次から次へと現れると思う。スコットランドでも女王を迎える準備を進めている。だから、何も心配することはないわ」
カトリーヌの言葉にメアリーは、「はい」とだけうなずいた。スコットランド女王の反応に少し気が咎めたのか、カトリーヌはため息をひとつついて呟く。
「あなたをここに居させない私を恨んでいるでしょうね」
メアリーはハッと目をみひらいて、「いいえ」と姿勢を正す。その背丈はカトリーヌよりはるかに高い。そして言葉を続ける。
「母后さま、私はこの宮廷で温かな家族というものを初めて知りました。フランソワもシャルルもアンリもエリザベートもマルゴも、本当のきょうだいのように思っています。でも、フランソワがいなくなって子どももいない。今、スコットランドに帰るのは当然のことでしょう。感謝しても、恨むなんてとんでもない。ただ、やはり寂しい気持ちでいます。長く居すぎたのでしょう」
カトリーヌは目を伏せる。
「あなたがいなくなるのは、とても寂しいわ。フランソワがもっと生きていてくれたらどんなによかったでしょう……あの子はあなたのことを心から愛していた……いちばん悲しんでいるのはあの子かもしれません」
「愛された思い出だけで十分です。あとはエリザベートに一度会えたらよかったのですが、スペインの真ん中は遠いですね」
カトリーヌは寂しげに微笑む。
「エリザベートはきっと怒ると思うわ。ひどい母さまだとなじるでしょうね。それでもあなたの幸せを祈っているわ。それと……」
「はい、何でしょう」
「これをあげるわ」
カトリーヌは古ぼけた1冊の本をメアリーに渡す。
「あ、『君主論』ですね。母后さまが大事にされていた……いいのですか」
「まだあるから大丈夫よ」とカトリーヌは書棚をちらりと見る。そして、また向き直っていう。
「メアリー、あなたは情に流されないようになさい。一国の君主として相応しい資質をあなたは持っていると思います。ただ、国を治めるには難しい判断をしなければならないことが往々にしてあります。情で正しい判断ができなくなる場合もあるでしょう。自覚を持って、どうか自分の道を進んでください」
メアリーはじっと本の表紙を見る。
羊皮紙の表紙は年季が加わってすべすべになっている。それはカトリーヌがいちばん大切にしていた本だった。
「母后さま、ありがとうございます」
メアリーは涙ぐんでいた。
彼女は1561年の夏にフランスを発ち、スコットランドに帰国した。
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