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第12章 スペードの女王と道化師
オルレアンの落陽
しおりを挟むフランスでは70余年ぶりに三部会の開催が決定され、そこでカトリックとユグノーの間に一定の和解が成立するーーことをカトリーヌは意図していたが、ことは混乱の様相を見せていた。
アンボワーズの争乱は両者の対立より先に、国王代理たるギーズ公フランソワとそれに不満を持つ派閥を明確にあぶり出す様相を見せていたのだ。ギーズ公は引き続きアンボワーズの真の下手人を躍起になって捜している。そしてついに、ユグノー派であるコンデ公ルイの逮捕に踏み切ったのだ。
コンデ公ルイはさきにも述べた通り、王家の血統を継いでいるブルボン家の一員である。しかし、ギーズ公は容赦しなかった。コンデ公がおよそ半年にわたって密かに兵を募っていた事実を引き出して公然と非難した。非難するだけではなく、コンデ公は裁判にかけられることになった。
この様子を見てコンデ公のさらに上、ユグノーの頭目的な存在のナヴァーラ王・ブルボン公アントワーヌは妥協の道を取ることにした。ギーズ公に服従するという文書を差し出したのだ。皮肉なことに、その素早い翻意が返ってギーズ公の疑念を引き出した。
何か裏で企んでいるのではないか。
そのような疑念はたとえ正しくとも、とんだ思い込みであっても、根付いてしまうと払拭するのは難しい。ギーズ公はこの段で一気にブルボン家の掃討さえ考えていたのだ。
それは王家の考えーー主に母后カトリーヌと宰相たちの考えであるがーーとは相容れないものだった。三部会を宥和の機会として設けたのに、これではまるきり逆である。なぜカトリーヌの考えであるとわざわざ述べたかといえば、国王フランソワ2世は王妃メアリーの伯父であるギーズ公をそれなりに重く見ていたからである。フランソワの心を推し量るものではないが、彼はメアリーを心底から愛している。その伯父を糾弾してメアリーの立場が悪くなることは絶対に避けたいのだった。夫としてはよいのだが、国王がこの情勢でそのような態度を取ることは両者の溝を深めることになりかねなかった。カトリーヌもギーズ公の妻アンナとは長くごくごく近しい友人として付き合ってきたが、すでに本人と話をしてきっちり線を引いている。それは、「情勢によってはギーズ公を解任することもありうる」という厳しいものだっただろう。
逮捕されたコンデ公と同道した兄のブルボン公アントワーヌはところどころでカトリック派に面罵されながら移転している王宮のあるオルレアンに入城した。パリから130kmほど南下した都市で三部会もここで開かれる。かつてのジャンヌ・ダルクを思い浮かべる向きもあるだろう。ここでフランソワはコンデ公に詰問し、激しく非難したというが、カトリーヌは王の前に出るような越権はしないものの、ブルボン公にはこう告げたといわれている。
「私の息子に決定させるにしても、正義が先に立つようにします」
ブルボン公は感銘を受けたといわれるが、この場合の「正義」とは何を指すのだろうか。
ブルボン公にとっての正義とギーズ公にとってのそれは両極である。宗教だけならばそうではないのだが。
1560年11月、コンデ公は役人たち、王の議会員、サン・ミッシェル騎士団員で構成される臨時法廷にかけられた。そもそも構成員もまったく公平ではない。26日、コンデ公に死刑の判決が下った。ただ死刑執行は猶予され、公爵は収監されることとなった。ここまでの流れで見れば、執行猶予にはカトリーヌの意思が反映されていたという見方もできる。
カトリックとユグノー、ギーズ公と反対派の対立だけでなく、親子の間にも見えない亀裂がわずかに生じていた。このことはカトリーヌも人知れず心を痛めていた。ギーズ公の処遇も考えなければならないが、フランソワがメアリーの騎士(ナイト)となって公の擁護に回るのは望ましいことではない。
彼はフランス国王なのだ。
この難局は情のみで丸く収められるものではない。
三部会までの日々は緊張を増しつつ過ぎていく。しかし誰もが予想もしない、三部会など吹っ飛ぶような一大事がさらに起こるのだ。
判決からわずかにさかのぼる11月16日、フランソワは耳の奥に耐え難い痛みを感じ、そのまま倒れた。もともと幼少から中耳炎を頻繁に発症していたが、この時の痛みはその比ではなかった。中耳炎というと子どもならば難聴を起こすことが知られているが、それが長じてさらに悪化すると髄膜炎を起こすこともあり、現代の医学では切開手術をするべき症状である。いや、フランソワの典医たちもカトリーヌに開頭手術を勧めたが、彼女はそれを拒絶した。それも仕方ないことだろう。夫のアンリが目から脳の損傷に及び、開頭手術をしても助からなかったのだから。同じことを自分の子どもにしてほしくなかったのだ。
フランソワの急激な症状の悪化には、この期間の過度の緊張が影響していないとはいいきれない。それはカトリーヌを非常に憤らせていたが、忍耐強い母は感情を爆発させることはない。それをしていたのは病床の国王の方だった。まだ16歳の国王は苦痛を訴えてわめき散らし、役に立たない医者をしばり首にしろという。医師たちは罵られながらも懸命に手当をしていた。側についている最愛の妻も見ているだけでどうすることもできない。いつもは姉のように振る舞っているが、今は涙を浮かべてそれを見ているしかない。
ギーズ公は事態の変化していることに気づく。自身の行く末を考えた。王妃の伯父で王の庇護を受けているから居られる立場でもある。ブルボン家の掃討どころではなくなった。彼はコンデ公ルイを即時に死刑執行するように求めたが、裁判官も宰相らもそれに応じず、のらりくらりと時間を延ばした。
判決が出ても執行が猶予されたのはそのような事情である。
カトリーヌはここでひとつの考えを実行することにした。
ブルボン公アントワーヌ、キーズ公、ギーズ公の弟ロレーヌ枢機卿をオルレアンの一室に呼び出した。言い換えるとユグノー派(反ギーズ公)、ギーズ公(反ユグノー)、カトリック(反ユグノーでギーズ公派)ということになり、小さな三部会のようなものであった。一同を集めるとカトリーヌはまず、この陰謀・騒乱の中心であるブルボン公を強く叱責した。ブルボン公は無実を主張したが、それは力のない疲れ果てた呟きのようにしか聞こえなかった。すでにオルレアンに着いてから、彼は極限の緊張状態にあった。
彼は白旗を上げて、フランス王の代々側近の地位は棄てますと答えた。その言葉はカトリーヌ自身によって書き留められ、両者は母后の目の前で和解することになった。
それを受けてカトリーヌはブルボン公にも寛大な言葉を与えた。
「あなたには国王代理官の役に就いてもらいますし、その意見は今後も尊重します」
結局、コンデ公もしばらく収監されるが死刑にはならなかった。
子どもが臨終になろうとしている時に、この和解の一幕は芝居がかっているように思えるし、政治に利用しているともいえるだろう。
この類いの折々の判断がのちのカトリーヌ像を決めてしまっているが、単純にマキアヴェッリの『君主論』の理屈を忠実に実行したものかもしれない。彼女が母国語で書かれた、かつ自身の父ピエロに捧げられたこの書物を最大限に活用するのはちっとも不思議ではないからだ。
彼女はすでに「政治」から離れることのできないところに立っていた。
ギーズ公は自分の政治的思惑もあって、フランソワが倒れた事実に口止めをしていたが、奔流のように世間に溢れ出すときが無情にもやってきた。
1560年12月5日、フランス国王フランソワ2世は永遠の眠りについた。享年16歳、在位1年余りの早すぎる死だった。
次の国王は決まっていた。
カトリーヌの産んだ子。
フランソワの弟、シャルルがシャルル9世として戴冠する。
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