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第12章 スペードの女王と道化師

宗教対立の象徴的地点

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 フランスの新しい国王になったフランソワ2世は、かねてから慕っていたメアリー・ステュアートを王妃とし、意気揚々と王の務めを果たしていく。そういえれば問題はないのだが、なかなか思うようにはいかないのだ。
 フランソワにとって、父の代理も担うことがあるを母后のカトリーヌは完璧な存在だった。
 王フランソワは幼少の頃、何度か話を聞いたことがあった。
 母はフィレンツェからフランスに来るまでは艱難辛苦の日々を送っていた。さらにフランスに着いてから楽になったというわけでもなかった。フランソワがじかに耳にしたわけではないが、イタリアの銀行家出身だというのが陰口の対象になったこともあるはずだ。それに、子どもたちの家庭教師だったディアーヌが父王の愛人だと知ったときにも、かなりの衝撃を受けた。その状態に長く耐え毅然としている母は、強靭な鉄の心を持っていると感じた。
 自分が弱いのは、人生に鍛えられていないからだろうか。
 生まれながらに王家にあると、日々の儀礼やしきたりが煩わしくはある。ただその中でならばぬくぬくと暮らしていけるのだ。
 自分が立派な王として立つにはまだ時が必要だ。

 フランソワはそう思っていたので、母に摂政を務めて欲しいと願い出た。しかし父王を失った母カトリーヌの心の衝撃はたいへん大きく、近臣に当面の国政の運営について意見を求めるようにすすめた。ただ、それは精神的に参っているという理由が多くを占めているのだろうとフランソワも気づいた。
 経験的に王の代替わりというのは、最も危険で不安定になるタイミングだ。近年のイングランドのヘンリー7世以降の政情を見れば明らかだろう。それによって力を得ようとする者が現れ、王位継承争いが起こり、民衆は反乱を起こす。その一端にいる妃メアリー(彼女はスコットランド女王だ)も半ば身の安全のために亡命してきたのだった。

 メアリーも思うところがある。
 伯父であるギーズ公フランソワが(母の兄にあたる)これまで以上にメアリーと夫の新王フランソワにあからさまに接近してくるようになったのが気になっている。接近してきて腰巾着になっているならまだいいが、血縁者ならではの横柄さがはしばしに見える。メアリーに関しては実の伯父なので大目に見てもいいのだが、王であるフランソワに対しても時に指南するのを超えて、命令口調になっているように聞こえる。

 自分が王の摂政になる気なのだろうか。
 いや、もうなっているのか。
 あの態度はそうとしか思えない。
 
 夜も更けると夫婦はともに寝所で朝まで眠る。眠っていないときももちろんあるが、話をすることも多い。彼らはきょうだい同然で育ってきたので、何の違和感もなく一緒にいることができた。前にメアリーは「燃えるような恋ではない」とエリザベートに伝えてはいたが、この時分の王家の結婚としては安泰すぎるほどである。片やエリザベートは馴染みのないスペインの王宮に赴いて相当歳上の夫と褥をともにするのだから。

 もちろん、ギーズ公の振る舞いについてもメアリーは率直に王に伝える。
「私はいいのよ、もともと外国から来たのだし伯父の言うことをはい、はいと聞いていれば。でもあなたは違う。王なのよ。それなのに伯父は少し度が過ぎていると思うの。もっとはっきり咎めてもいいのに」
 フランソワは苦笑する。
「そうだな……でも、ギーズ公はすぐに切り札を出してくる」
「ああ、『国政のことを誰よりもよく知っているのはこの私です』、そうね……だから自分は王の指導をすると。でも、それはとんでもない思い上がりだわ。ウルジーやクロムウェルの最期を知らないのかしら」
 フランソワはぎょっとする。イングランドで更迭された宰相の名だからである。そのようなことをギーズ公の前で言ったら、ただでは済まないだろう。
「ああ、きみの方がずっと王に向いているかもしれないね」
「私はスコットランド女王だから、フランス王にはならないのよ。フランス王はあなた」とメアリーはフランソワの目をまじまじと見る。
「僕は、フランス王というより、スコットランド女王の王配の方がいいかもしれない」
 メアリーは首を横に振る。そして、穏やかに夫に語りかける。
「フランソワ、私のスコットランド女王というのは今は名称に過ぎない。あなたは本当に王さまなの。私はフランス王妃として、精一杯あなたを支えます。そうしていく中でもし、フランスとイングランドの関係が変わることになれば、私をスコットランド女王として認めさせる。そして、その時は堂々と凱旋してあなたを海の向こうへ連れていくわ」
 フランソワは妻の顔をじっと見た。
「そうか、きみはそこまで考えているんだ。それでは僕もきみとスコットランドに行くために、もっと頑張らなくてはいけないね」
「そうよ。二人で力を合わせて頑張りましょう」
「愛しているよ、メアリー」
 そして、夫婦はかたく抱き合う。

 しかし、新しい王の治世で最も大きな問題になるのは家臣の専横ではない。
 ユグノー(プロテスタント)との対立だった。
 フランスにおける指導者はルターではなく、ジャン・カルヴァンだ。この人はだいぶ前に本編に登場した。イタリア・フェラーラ公の奥方、フランス出身のレナータをすっかりユグノーに染めてしまったくだりである。カルヴァンはフランス出身だが、バーゼルやジュネーヴ(どちらも現在のスイス)に亡命して長い。その間に彼はどっしりと亡命先に根を張り、聖職者として大きな影響を与えていた。ジュネーヴ大学を築いたのも彼である。
 この年50歳のカルヴァンは著書『キリスト教綱要』で予定説を唱えた。
 それによれば、魂の救済は人間の意志や行動とは無関係であらかじめ神によって決められているというものである。またそれに伴って、個人個人の職業を使命として重んじるのが特徴としてあげられるだろうか。
 カルヴァンはルターと同様にカトリック教会の腐敗を激しく非難したが、本拠地ではカルヴァン派となる教会が激増した。また貴族や行政に支持者を増やしたので、彼の影響力は著しく大きくなった。さきのレナータの例ではないが、フランス本国にも同様の支持者が増えていた。
 スイスはフランスと隣どうしなので、伝播する速度も早い。フランスが危惧しているユグノーとはほぼカルヴァン派のことなのだ。

フランスの廷臣では、コリニー提督がカルヴァン派の熱心な支持者であった。

 一方で、フランス王室は厳然たるカトリックである。スペインと同様ローマ(教皇庁)との繋がりも深いし、王の母后カトリーヌ・ド・メディシスに至っては後見人が教皇だったから。

 1559年12月にそれを象徴するような事件が起きた。
 クリスマスの夜に、複数のユグノーがパリのサン・マルセルにある教会を襲撃した。そして壇上の聖職者を殺害した。ただちに町の門が封鎖され、急造の助っ人兵士たちも協力した。そして下手人たちを殺したのである。殺人事件の顛末としてはさほど珍しいものではないが、宗教対立が現れた顕著な例でもある。町の人の大半はユグノーによい感情を持っていなかったが、以降は悪い感情しか持てなくなっただろう。
 憎悪である。
 この事件はあまり大きく取り上げられていないが、翌年に起こる事件の呼び水のようになっていると思われる。ここから宗教対立と権力争いが複雑に絡んで、事態は抜き差しならない方へ突き進んでいくのだ。

 ここに至って、黒衣に身を包んだカトリーヌも一人嘆き悲しんでいるわけにはいかなくなった。

 
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