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第12章 スペードの女王と道化師
それでも生きていく
しおりを挟むミシェル・ノストラダムスは一カ月ほど王宮に滞在して、キリの良い日に出発するとあらかじめ滞在の半ば頃に告げていた。王妃カトリーヌ・ド・メディシスはそれを聞くと、
「あら、王宮の家庭教師にと思っていましたが。科学がいいわね」と悪戯っぽく笑う。
「いえ、これ以上子どもたちの世話を放棄しておりますといろいろ面倒でして」
カトリーヌは扇を軽く揺らしながらうなずいている。宮殿が夏を避けられるわけではない。9月に入ったがまだ暑い日が続いている。
そして、扇を口元に寄せると告白するようにいう。
「私自身は小さい頃、自分の行く末を知りたいなどとは思っていなかった。だって、考えてみてください。自分の家を追われて、女当主の座は早々に奪われ、ランツクネヒトが取り囲むフィレンツェにあって一人修道院に預けられ、見せしめに逆さ吊りにされるかもしれないーーなどとあらかじめ言われていたら、とてもこの先生きていこうなどとは思えないわ。でも子どものこととなると違うのですね……子どもは特別な存在」
「確かに、知らない方がいいことも多々あったでしょう。しかし、王妃さまはありえないような苦難を越えてこられた。それこそ運命を掴む力量であったと思います」とミシェルは応じる。
「私は非力です。それはさておいて、あなたが子どもたちの行く末をはっきり言わなかったのもよく分かります。さすがに私のような目には遭わないと思いますけれど……知らない方がいいこともあるのでしょう。でも、ひとつだけ分かったことがあります」
カトリーヌの言葉の続きをミシェルは待っている。
「男子もそうだけれど、女子にも強くなってもらわなくてはね」
ミシェルは破顔一笑して「御意」と同意する。
ミシェルは何度か王子と王女と女王に天文学の講義をしていた。星の動きを観察して記録することは決して怪しい魔法の類いではないということを述べている。
教室であるカトリーヌの書庫にはかつての教皇クレメンス7世が婚礼の際に持たせた大量の書物があったし、カトリーヌ自身が取り寄せた本も多数ある。義理の父、先代の王フランソワ1世の蔵書も引き受けて、書庫は一気に本で埋まっていった。やはりラテン語の書物が多いが、最近ではフランス語の本も相当加えられていた。フランソワ1世が「フランス語を公用語にする」という勅令を発してから、それほど長い歳月は経っていない。それも蔵書に影響しているはずだ。
そこに『ガルガンチュワとパンタグリュエル』があるのを見つけたとき、ミシェルは自分が褒められているような誇らしい気持ちを覚えた。
「黄道十二宮の名付けはギリシア神話から採ったと思われていますから、きっと天体を観測し始めたのは古代のギリシア人だと思われるでしょう。でも、起源を辿れば、さらに古くエジプトやバビロニアなどにも天文学があったと思われるのです」
子どもたちは単刀直入な質問を生み出す名手だ。
「どうして、それがわかるの?」
ミシェルはふむ、とうなずいて答える。
「エジプトでは太陽が神になっています。ラーといいますが、神様にするほど重要なものだった。作物を上手に育てて収穫するためには、まず太陽と水を上手く利用するのが必要です。時間や季節を知るためには、天体の動きを知っていなければできません。それで暦というものが作られたのです。例えばエジプトのナイル川はしばしば氾濫して、流域の人々を苦しめたと考えられますが、それも多雨の時期があらかじめ分かっていれば、何かしら手を打っておけるでしょう。占星術というのももともとは作物の収穫に関わる暦なのです。食糧がなければ人は生きていけませんから。そう、美味しい鶉のローストも、きちんと餌をあげて育てたからいただけるのです」
「へえ、確かに鶉も餌を食べないと痩せ細ってしまいますね」とエリザベートが納得している。
そこでミシェルは書棚のある一画から1冊の本を取って子どもたちに見せる。
「これはイスラム国家のアッバース朝で作られた『サビア天文表』です。今から600~700年前に作られてラテン語に訳されたものです。きっとアッバース朝がオスマンに取って替わった後に西洋に入ったと思われますので、200年ほど前のものでしょうか」
シャルルが書庫を見回している。
「何か難しそうな本がたくさんあるとしか思えなくて、1冊1冊の本をよく見たことがなかったよ。もっと見なければもったいないね」
「誰でも見られるわけではないですから、もったいないですな。特にラテン語は公用語でないとはいえ、皆さんも学ばれているのですからおさらいしない手はない」とミシェルも同意する。
授業を終えた子どもたちが飛び出していくと、ミシェルは少し休憩しようと長椅子に腰かけた。すると睡魔がゆらりとやってきてヴェールをふわりと彼にかけた。
「ムッシュウ」と声が聞こえて、ミシェルははっとする。
そこにはのっぽのメアリーが立っていた。
「いくら本がお好きといっても、ここで寝てしまってはお掃除の埃をかぶってしまいますよ」
ミシェルは慌てて立ち上がって、「あ、もうお掃除の時間ですか」という。メアリーはクスッと笑って横にかぶりを振る。
「ほっとしました。眠りこけて大いびきなどかいているのを見られたら恥ずかしいですから」とミシェルはあごひげを撫でる。メアリーは「大丈夫、寝息だけだったわ」と笑顔で言って、テーブルにあった『サビア天文表』を取りながらいう。
「ムッシュウの授業はたいへん興味深いものでした。他のより熱心に聞き入ってしまいました。みんなもそうでしょう。博覧強記というのはあなたのような人をいうのね。でも……もう明日には出発されてしまうのですね。もっと聞きたかったわ」
「いやいや、それは買いかぶりです。もう教えられることなどありませんよ。メアリーさまも皆さまも聡明でいらっしゃるので、あとはご自身で学ばれれば十分でしょう。本当に、人生で最も晴れがましい経験をさせていただきました。ありがとうございます」とミシェルはメアリーに礼をいう。
メアリーはミシェルに尋ねたいことがあるようで、じっとミシェルの目を見たまま口をきゅっと結んでいる。メアリーが聞きたいことは、その様子だけでミシェルにも伝わっている。
しばらくの沈黙があって、ミシェルはポツリと言った。
「メアリーさまのお産みになる男子は、王になられます。玉座は末永く保たれるでしょう」
メアリーは雷に撃たれたようにビクッとして、しばらく目を見開いていた。そこから、疑問が奔流のように溢れだす。
「それはどういうこと?私は?スコットランドの女王の子どもはどこの国の王になるの?私はフランスの王妃になるの?それともスコットランドに戻るの?イングランドに飲み込まれるの?ムッシュウのおっしゃることがよく分からないのです」
その疑問は当然尋ねてくるであろう内容だったし、ミシェルもそれは十分に承知していた。ただ「その答えを持ち合わせていない」と告げることしかミシェルにはできなかった。
「メアリー女王さま、私は占星術を専門にしていますが、複雑で重要なことを明確にお伝えできる知見は持っておりません。私が申し上げたのは、ヴィジョンです。これは以前王妃さまにだけお伝えしましたが、私は時折夢を見るのです。像がはっきりしている場合は書き留めていますが、それがおぼろげな結果や方向を示している場合がございます。ですが、具体的にどのような道筋を辿るのかというのは分からないのです。再び、何度も夢を見て予測をすることは可能だと存じますが、夢を見るかどうかさえ確実とはいえません。ですので、おぼろげなお答えになってしまうことをお許しください」
メアリーはまだ納得できていなかったが、ミシェルがそれ以上言えないというのだけは分かった。ただ自分が「結婚をして子どもを産む、その子が王になる」と言われたことには、心から安堵していた。レディー・ジェーン・グレイのようにそれすら許されずに命を断たれる人もいるのだから。メアリーはそれを教えてもらうだけでもありがたいのだと自分に言い聞かせた。それに、分かっていても言えない場合もあるはずだ。
例えば、その人にとって著しく望ましくないなら……。
「そういえばムッシュウの書かれた『予言の書』を見ました。象徴的な言葉が散りばめられた短い詩たち、難しいけれど少しずつ読んでいます」
ミシェルは「光栄です」と礼を述べてから、天井を見上げて思案している。
「ムッシュウ?」とメアリーがいう。
「メアリー女王さま、フランスは、あなたさまにとってはふかふかの毛布です」
それだけいうと、ミシェルは目礼をして去っていく。メアリーはその後ろ姿を見ながら、声をかける。
「ムッシュウ、ありがとう!」
ミシェルは一度だけ振り返って、うなずいた。
メアリーは気がついていた。
それがミシェルの発することのできる、精一杯の言葉だというのを。そして、スコットランドに戻れば茨の道が待っているだろうということも。
「それでも、私は生きていくわ、ムッシュウ」
メアリーは小さくつぶやいて、部屋に戻った。
ミシェルは翌朝早く、見送りに出た大臣たちに丁寧なあいさつをして、王宮を後にした。
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