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第12章 スペードの女王と道化師
ずっと子どもでいられたら
しおりを挟むフォンテーヌブローの宮殿に「子どもたちの世界」があることは前にも書いた。
フランス国王のアンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの子どもたち、フランソワ、エリザベート、クロード、シャルル、アンリ、フランソワである。さらに加えると、1556年初頭にカトリーヌは懐妊しており、新たな命の誕生が待たれていた。
そして王の一族に加えて王宮にに滞在しているのが、スコットランド女王でいわば亡命状態になっているメアリーだ。
イングランドの王家は当時たいへん複雑な状況にあった。
1547年に逝去したイングランド国王ヘンリー8世は、妻との離婚が認められなかったのを機にイギリス国教会を開いたことで知られるが、晩年は彼の親族および子どもたちの処遇で大きな混乱を生んだ。簡単にいえば王位継承の問題である。
王にはエドワードという男子がいたので王位継承はまず彼に行くが、そうでない場合はたいへん厄介だった。最初の妻の子メアリー(ステュアートとは違う)、次の妻の子エリザベスにも続く継承権が与えられてはいたが、ヘンリー8世存命中でも決定は二転三転していた。折々の妻の要望にも王は心を変えるし、エリザベスの母アン・ブーリンが処刑されるという悲劇もあった。それらによって子の順位が上がったり下がったりしたのだ。あるときは庶子として無視され、ときには王位をあたえられる。
ヘンリー8世の跡は順当にエドワード六世が継いだが、彼は病弱だった。この時点(1556年)から遡ること2年半になるが、エドワード6世はわずか15歳でこの世を去った。そして、メアリー1世が女王として即位している。
これらの、大河小説のような複雑なストーリーをフォンテーヌブローに暮らすメアリーはよく理解している。
なぜなら彼女も登場人物の一人だったからだ。彼女はエドワードと結婚させられそうになっていたのを逃れてフランスに渡った。エドワードと結婚したら、スコットランドはイングランドのものになるからである。彼女は年端もいかない少女ではあるが、その動向が国の行く末を左右するほどの重要人物だった。
メアリーは複雑なストーリーの中で自分が取るべき立場をすでに決めていた。決めていたというよりは母親によって決められたというのが正確である。彼女は母の血縁であるフランスの庇護を受け、成人になるか、あるいは結婚するまで留まることになるだろう。それは公的、あるいは表向きの立場である。
ただ、さらにその先も周囲の人々によってお膳立てされている。
メアリーは侍女に命じて、海老茶色の比較的地味なドレスを持ってこさせた。地味ではあるが、その濃く深い色味は肌の白い彼女をこの上なく引き立てている。髪をさっぱりと結い上げてもらうと、まず13歳には見えない。
彼女は王宮の子どもの中では最も年長である。同室のエリザベートから見ても、他のきょうだいから見ても完璧に「お姉さま」だった。一度失敗があったので、もう誰も彼女をフランス語読みの「マリー」とは言わない。
共通の勉強部屋に入ると、そこには長男のフランソワがいた。メアリーよりも2つ下である。フランソワが本をテーブルに置くやいなやメアリーは最近思うところを語り始める。
「王さまも王妃さまも最近難しい顔ばかりされているわ。私、カール5世が退位したら少しは皆さま安心されると思っていたのよ。だって、ピレネーとアルプスを越えて同時に攻めてくることはなくなったのでしょう。少なくとも私の侍女たちはそう噂しているわ」
フランソワは首を傾げる。
「そんな噂話があてになるはずはない。メアリー、よく考えてみて。アルプスの向こうとピレネーの向こう、両方の君主が変わっただけだ。しかも皇帝の弟と子どもだよ。今までカール5世だけだったからほうぼうの軍を同時に動かすという芸当はできなかった。国があまりにも大きすぎるからね。伝令を飛ばすのも一苦労さ。でもこれからは違う。最高司令官がそれぞれ号令につくのだから万事がもっと臨機応変に進むはずだ。戦争がすぐ終わるとはとても思えない」
「あら、ずいぶん詳しいのね、フランソワ。それならばあなたはフランス王がどう動くかも分かるのかしら」とメアリーがすかさず切り返す。
フランソワは口を尖らせてメアリーに抗議する。
「ぼくはまだ子どもだよ、メアリー。わかるはずないのは知っているくせに。そうして小さなぼくを問い詰めるのばかり上手になっても、フランス語の勉強にはならないと思う……」
メアリーは驚いてフランソワを見つめる。
責め立てるような気持ちはまったくなかった。
きつい口調になっていたのだろうか。
スコットランド女王であっても、ここはフランス。私はこの王宮では寄る辺ない居候なのだ。ついついフランソワやエリザベートが弟や妹のように思っていた。
言い方には気をつけなければ……。
メアリーはフランソワに近づき、そっと抱きしめる。
「ごめんなさい、フランソワ。あなたを問い詰めるようなことをして。でも、そうじゃないのよ。私はね、いつか自分の国に帰ったときにフランスの宮廷で学んだことを生かして国を治められるようになりたいの。あなたもそうよ、だって次のフランスの王さまはあなただもの」
フランソワは女性に急に抱き締められて、これまで感じたことがなほど心臓の鼓動が大きく打っていることに仰天していた。
それはいつも軽口を叩いて、ときに喧嘩にもなる「お姉さん」ではなかったのだ。いい香りにくらくらとしながら、少年はしばらく固まったようにじっとしていた。
「メアリーは……いつか国に帰っちゃうの?」と少年はおずおずと尋ねる。
メアリーはそこでようやく、フランソワから身体を離した。
「そうね、いつかはね。スコットランドが私の帰る場所だから。ただ、しばらくは無理ね。イングランドのメアリー女王にとって、私は邪魔者かもしれないから……フランスにいるから、私は安全でいられるの。あなたのお父さまやお母さま、そしてギーズ公が守ってくださるから」
フランソワはしばらく黙って聞いていたが、ようやく口を開いた。
「それなら、ずっとフランスに、この王宮にいたらいいよ。ぼくは王になってもメアリーを追い出したりしないよ」
メアリーは目の前の少年が懸命に主張するのを聞きながら考えていた。
フランソワは分かっていないのだ。
無邪気なこの少年は。
私が大人になってもここに留まるためには、フランス人の妻になるしかない。それは誰でもいいというわけではない。王宮の誰か、目の前のこの少年か、そのきょうだいか、あるいはギーズ公の縁者が私の相手になるはずだ。
でもそれは、スコットランドがフランスのものになるということでもある。
メアリーは考えていたが、彼女の行く末は自分で決められるものではないことも分かっている。
彼女は王太子に微笑む。
「本当に、ずっと子どもでいられて、フランソワやエリザベートやシャルルとずっと仲良く暮らせたらどんなにいいでしょう。フランソワ、今まであまり言ったことがないのだけれど、私はね、フランスが大好きなのよ」
「本当に?じゃ、ずっとフランスで暮らしてもいいと思ってる?」
メアリーはゆっくりとうなずく。
「ええ、できるものならばずっとここにいたいわ」
フランソワは心底嬉しそうに、人懐っこい笑顔を見せた。
「本当だね、じゃ約束する。ぼくはメアリーが帰されないよう、一生懸命守るよ」
フランスが今後どのような外交政策を取るのかまだ他には明かされていないが、イタリア半島を手にするための戦争状態からは脱していくだろう。これまでと風向きが変わることだけは確かなようだ。
それはスペインと神聖ローマ帝国とイタリアばかりではなくイングランドも関わってくる話で、アンリもカトリーヌも慎重に物事を判断する必要があった。
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