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第12章 スペードの女王と道化師
閉じ込められた妻
しおりを挟む夜のエステンセ城の一室にぼうっと蝋燭のあかりが灯っている。
城の周りはひっそりとしており、誰かの歩く足音も高らかに響いてしまうほどである。あかりの灯る一室では、旅人のニコラスとフェラーラ公エルコレ・デステが酒を酌み交わしている。しかし、ニコラスの杯は一向に軽くならない。
ニコラスがヴェネツィアでの暮らしについて、エルコレの質問に応じるように答えている。ニコラスは幼い頃からぺらぺらと喋るような癖はない。ただ、何も考えていないわけではない。目の前のフェラーラ公エルコレが老け込んだ、いや、疲れているように見えたので何か心痛の種があるのだろうと思ったのだ。それならば、ニコラスは理由を察することができる。
ただ、いくら幼馴染みとはいっても、なかなか切り出すことができないようだ。
ニコラスは思い出したことを言う。
「師匠の案内でバチカンの絵を見て回ることができたんだ。きみはお母さんの血筋か、伯父さんのチェーザレ(ボルジア)に少し似てきたね」
エルコレはふっと笑う。
「それは、母に子どもの時分からずっと言われていたよ。ニコラスの前では言っていなかったけれど」
「どうして?」
「それはそうだ。夫を亡くしたばかりのソッラがチェーザレの名前を聞いたら、いろいろ思い出してしまうだろう。母は明るいソッラが大好きだったから、悲しい顔をさせたくなかったんだろう」
エルコレはフェラーラ公アルフォンソ・デステとルクレツィア・ボルジアの間の最初の子である。ルクレツィアはチェーザレ・ボルジアの妹なのでエルコレにとってチェーザレは伯父にあたる。
「イッポーリトはどちらかというとイザベッラ伯母に似ているから父がしきりと感慨に耽っていたっけな」とエルコレがあごひげを撫でる。イッポーリトはエルコレの弟で、母は同じくルクレツィアである。エルコレのいうイザベッラ伯母はアルフォンソの姉でマントヴァ公に嫁いでいた。ニコラスも彼女の肖像画を描いたときに会ったことがある。比較的長命だったイザベッラもすでにこの世を去っている。
イザベッラ・デステ、アルフォンソ・デステ、そしてルクレツィアとチェーザレ・ボルジア……皆16世紀初頭のイタリア半島を華々しく彩った人々だった。
「でもきみは少しやつれたようだ。奥方はどうしている?」とニコラスが聞く。
エルコレの表情が曇る。
「部屋に留めている」
その言葉の意味をニコラスはすぐに悟った。部屋に留めているということは、部屋の外に出る自由がないということである。
「そうか……つらいな」
ニコラスはこれまでの二人の関係を見聞きしてきたのでおおよその見当がついた。
エルコレの妻レナータはフランスの王家に連なる家の出だ。当時の国王フランソワ1世の最初の妻クロードの妹でもあり、持参金も相当なものだった。ただ、彼女は異国での結婚生活に馴染めなかった。その不満からだろうか、部屋のしつらえをすべてフランス風に替えるなど持参金並みに莫大な費用がかかった。頭の痛い問題だったが、子どもを産んだら落ち着くだろうとエルコレは考えた。しかし事態はさらに悪化した。
彼女はプロテスタントの新しい教えに感化されて、カルヴァンに心酔してしまったのだ。これは贅沢よりもさらに由々しき事態だった。なぜなら、フェラーラはローマと密接なつながりを持っていて、プロテスタントは禁忌に等しい。もっと具体的にいえば、エルコレの弟イッポーリトは枢機卿となっていたし、エルコレもイッポーリトも教皇アレクサンデル6世を祖父に持っていた。また、レナータの出身のフランスもカトリック国であることを鮮明に打ち出していた。どう考えても許されないことだった。それでもレナータはプロテスタントを支持したので、エルコレは彼女に外部との連絡を禁じた。
ニコラスが今回訪問した頃にはレナータは異端審問にかけられ、カトリック信徒に戻っていた。しかしそれが本意ではないと分かっていたので、エルコレは彼女を軟禁状態のままにせざるを得ないのだ。ただ夫婦の不仲というだけではない、大きな亀裂が夫婦を隔ててしまったのである。
「フランスに嫁いだ長女のアンナはたいそう母親を心配してよく便りをくれるんだよ。アンナは今は王妃の側に付く役をしていて、イタリア半島出身の王妃を支えて本当によくやっている。それなのに……なぜレナータは……こんなことになってしまったんだ……デステ家の人間が異端審問を受けるなんて……」
ニコラスはつらそうにエルコレを見つめている。エルコレはちらりと幼馴染みを見やってから、嘆きの言葉をさらに続ける。
「父と母は、私にとって理想の夫婦だった。無口で大砲の調整ばかりしていたけれど逞しくて勇敢な父、そして限りなく優しく皆に愛情を注いでいた母。私たちもそんな夫婦になりたいとずっと思ってきた。きみも見ていただろう? それなのに、私は妻とはよい関係が築けなかった。妻をずっと閉じ込めておかなければならないとは、どんなひどい男だろうか。それでも、すべてがプロテスタントのせいだとは私には言えない。彼女をそちらに向かわせてしまったのは、間違いなく私なのだろうから」
エルコレの言葉はどうしようもないやるせなさ、悲しさに満ちていた。ニコラスは何と言ってやったらよいのか分からなかったが、ようやく口を開いた。
「……レナータさんが自分で選んだ人生なんだよ。初めはそうではなかったのかもしれない。ただ自分で選んで今の場所に来たんだ。それで道は別れてしまったけれど、きみだって同じだと思うよ、エルコレ。きみはフェラーラの長として、自分の人生を懸命に生きているじゃないか。それでいいんだと思う。みんなも神さまもきっと分かっていてくれるよ。自分を責めることはない」
エルコレはニコラスをじっと見た。そして笑っているような、泣いているような表情になった。
「ああ、そうだ。私もきみも自分の人生を生きている。愚痴ばかり言ってしまってすまない」
もう、夜はすっかり更けていた。
遠くからフクロウの「ホウ、ホウ」という鳴き声が聞こえてくる。
「明日は馬で途中まで送るよ」とエルコレが少しだけ明るい声で言う。
「ありがとう」とニコラスは笑顔で申し出を受ける。
すっかり葡萄酒は空になった。
飲んでいたのはほとんどエルコレだったのだが、呂律が多少回っていないぐらいだ。エルコレは杯に残った数滴の液体を飲み干して立ち上がる。
「いい夜だったよ。私の友よ。またすぐに会いに来てほしい」
「もちろん。今度はラウラと子どもも連れてきていいかな」
「ああ、待っている」
エルコレがドアを閉めて出ていくと、ニコラスはホッとしたように杯などをテーブルの隅に寄せると、ドサッと寝台に横たわる。
数刻絶つとニコラスは軽い寝息を立てて眠りに落ちていた。
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