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第12章 スペードの女王と道化師
ひとつの時代を終わらせる人
しおりを挟むミケランジェロ・ブォナローティは教皇パウルス3世の治世にローマ教皇庁(バチカン)の芸術監督の役割を任されている。
以降も彼とバチカンの関係は続いていて、このとき、1555年にはバチカンのシンボルであるサン・ピエトロ聖堂改築のための建築設計を任されていた。設計案はほぼできているのだが、大規模な工事が進むのはまだ先になりそうだった。それは、トリエント公会議が断続的に開かれていて予算的に工事にかかる余裕がなかったのが理由だったと考えられる。そもそも、トリエント公会議の第一の目的はプロテスタントに対して優位を保つことだったが、その運動が始まったのはサン・ピエトロ聖堂の改築費用の調達に端を発するので、卵が先か鶏が先かという性質のものでもあった。時勢としても悠々と建築にかかれなかったのである。
プロテスタントの運動、いわゆる宗教改革の嵐が巻き起こった当時の教皇レオ10世は、表現が悪いが最も金遣いの荒い教皇といわれている。当時から現在まで、その世評は変わっていない。メディチ家の出であるレオ10世の、個人に帰する奢侈もあっただろうが、特に芸術家に多くの作品を作らせ、音楽家に多くの演奏をさせたのが費用の大半を占めた。その芸術家の中にはラファエロ・サンティも含まれる。皮肉なことに浪費と美の爛熟はコインの裏表だった。
「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした」と表現されるほどの浪費ぶりで、バチカンは代替わりまでに財政破綻に陥った。
とはいえ、サン・ピエトロ聖堂の改築自体は永年の課題である。なぜなら5世紀には完成していたこの聖堂は相当ガタが来ていたはずなのだ。「1000年経ったので建て替える」というのは遺跡にするつもりでなければ、決して無理無体な話ではない。16世紀の初めの教皇アレクサンデル6世(チェーザレ・ボルジアの父親)が号令をかけてから、ずっと聖堂の改築は重要案件だった。そして何人もの設計案と柱などのごくごく部分的な建造物だけが長く頻繁な中断の隙間に積み重ねられてきたのだ。ジュリアーノ・サンガッロ、ドナト・ブラマンテ、ラファエロ・サンティ、ジュリアーノの甥のアントニオ・サンガッロ、ジュリオ・ロマーノ……そしてミケランジェロである。
1555年に至って、16世紀の宿題を最終的にまとめているのがミケランジェロということになるだろうか。
そのような事情もあって、彼は教皇庁宮殿にも出入り自由の身である。しかし、パウルス3世の逝去後はバチカンを訪れる回数は減った。彼に好意的でない枢機卿もいたのだが、何よりも寄る年波には抗えないのだった。彼は1475年3月生まれで、もう80歳だった。
ミケランジェロは少し足腰が不自由だったので、ニコラスは介添をするようにゆっくりとだだ広い広場を歩く。そしていっとき立ち止まると、目の前に聳え立つサン・ピエトロ聖堂を仰いで、手を組んで胸の前に合わせる。
「師匠がカトリックの中心の、あの大きな大きな聖堂を生まれ変わらせるのですね」とニコラスは祈りの後でミケランジェロに感嘆して告げる。
「おれの生きている間には見られないかもしれないがな。それでも、図面はもう渡しているし、弟子たちにも子細は伝えてある。おれはもう進捗を眺めるぐらいしかないだろう。それもまだだが……いつ完遂することやら」
「いろいろありますからね」とニコラスが同情をこめていう。
「本当に、いろいろだ」と師匠も同意する。
この日はニコラスがシスティーナ礼拝堂を久しぶりに見たいというので、二人は広場の向かって右手にある礼拝堂目指してゆっくり、ゆっくりと歩いていく。
「でも、師匠がローマに家を構えて落ち着けたのは……いろいろありますが、よかったと私は思います。カトリックとプロテスタントの折り合いは私にはよく分かりませんが」とニコラスがいう。
「ああ、おれもそう思うよ。ほら、こちらだ、今は使っていないようだから好きなように見るといい」とミケランジェロは礼拝堂に案内する。
ドアを開けて足を踏み入れると、ニコラスは一面に広がる光景に圧倒される。天井と祭壇の背後全面に師匠の大作が踊っているのだ。それはもう礼拝堂ではなく、ひとつの「世界」だった。天井には以前にも書いた『天地創造』、祭壇の背後には『最後の審判』が描かれている。ニコラスはぐるりとそれらを見渡して、ほうと深い息を吐く。あまりに圧倒されたので呼吸ができないほどだったのだ。彼は『天地創造』やその他の画家が描いた装飾画を以前に見ていたが、『最後の審判』は初めて見る。
「いったい何人の人が描かれているのですか」とニコラスが尋ねる。
「おれは構成だけ決めて描いていったので数えていないが、弟子によれば400人を越えるようだ」
そういえば昔から師匠は、創る以外のことに関心を示さなかったことをニコラスは思い出す。初めて出会ったときからそうだった。面倒な交渉や契約を「大人の事情だ」と言って渋い顔をしていた。変わっていない、とニコラスはしみじみと思う。
「ここに描いているのは、裁きを受ける人間だが、おれのテーマは終始、人と神の関わりだったようだ。いずれにしても、もうこれ以上の絵は描けまいよ」と白髪のミケランジェロはゆっくりとつぶやく。
ニコラスは礼拝堂両脇の足下を飾るタペストリーを眺めている。
「これは、ラファエロさんの図案でしたね」
「そうだ、ここにはボッティチェリを始め、偉大な芸術家たちの息吹が刻まれている。芸術の殿堂でもある。だが肝胆相照らしたレオナルドもラファエロも、もうとっくに天に召されてしまった。残ったのはこのよぼよぼのじじいだけだ」
「それでも、師匠は創っています」とニコラスがきっぱりとした口調でいう。
ミケランジェロはにっこりと、あどけなく微笑む。
「なあ、ニコラス、おれとおまえが出会った頃はまだ芸術にとって光溢れる時期だった。そして、芸術家たちは一人、二人と去っていき、フィレンツェもローマも戦禍に見舞われた。今思えば、黄金時代はそこで完全に終わったのだろう」
ニコラスは黙って師匠を見つめている。
絵の中の人ばかりではなく、過ぎ去った時代の過ぎていった人々の眼差しまで感じられるようだった。
「フィレンツェにしろローマにしろ、あの黄金時代が後の世で何と呼ばれるのかにおれは興味がない。ただひとつ思うのは、『最後の審判』はその時代を終わらせるものになりそうだということだ。おれにとっても最後の大作が、その役を担うとはついぞ思わなかった。同じ時を過ごしていた連中がみんないなくなって、寂しいと心から感じているが、ある日ハタとそれに気がついた。その後で、サン・ピエトロ聖堂の設計の依頼が来たのさ。おれはもう70になっていて、そんな大きな仕事はできないから断ろうと最初は考えた。でも、思い直したんだよ、ニコラス。これが最後の最後の仕事なら、それはきっとおれに来るべき仕事だったんだ。そして体調を最優先にするということで引き受けた。もう、『天地創造』を描いたときのような体力はまったくないからな」
ニコラスはただ微笑んで、うなずいた。
まったくその通りで、何も付け足すべき言葉はなかったからだ。その代わりに、手に持っていた画帖を取り出して、ミケランジェロに告げた。
「師匠、最初は『最後の審判』の模写をさせてもらえたらと思っていたのですが、考えが変わりました。師匠の姿を描かせてもらえませんか。私のモデルになってください」
ミケランジェロはニコラスを見てニヤリと笑う。
「おまえはかつて、フィレンツェの市庁舎から離れた広場の角に座り込んで、無心でダヴィデを描いていた。あの頃とちっとも変わっていないな」
ニコラスも笑顔で返した。
「ダヴィデより師匠の方が、人間としてはるかに美しいです。やっぱりあなたは、ダヴィデには似ていませんでした」
「おう、おれはあんなに大きな自分の像など作らない。皇帝じゃないからな。あのときもそういったはずだ。ようやくわかったか」
「はい、よくわかりました」とニコラスは答える。
その目にはきらりと光るものが瞬いていた。
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