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第12章 スペードの女王と道化師

王と王妃のイタリア戦争(2)

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 サンジェルマン・アン・レー城の陽がさんさんと射す明るい部屋で、フランス国王と王妃が胸襟を開いて話をしている。

 結婚して20年にもなるのだから至極当然と思われるかもしれないが、実のところ、それは近年になってようやく日々の営みの中で可能になってきたことなのだ。
 何しろ王には、王太子の頃から懸想してのちに公然たる愛人となったディアーヌ・ド・ポワティエという女性がいた。品のない言葉でいえば、彼女に骨抜きにされていたので、王の妻に対する態度は愛情に溢れるものとはならなかった。それもあったのかどうか、妻のカトリーヌはしばらく懐妊しなかった。
 この時期のカトリーヌは本当に苦しかった。
 王太子妃不適格としてフィレンツェに帰されてしまう悪夢にうなされてもいた。彼女の輿入れを取り仕切って後ろ楯になっていた教皇クレメンス7世はとうに亡く、実家のメディチ家とはやり取りが途絶えていた。輿入れのときに供に付いた者以外に「身内」はいなかったのである。初めは彼女の母親代わりだったマリア・サルヴィアーティがフランスに付き添って来たが、すぐに帰国してしまった。イタリア半島側のロープはすぐに切られてしまったといえる。
 このように、夫の愛情と実家のつながりは希薄だったが彼女が孤立していたわけではない。彼女は実によくフランス語やその歴史を学んだので、教師たちが逆に心酔していた。また、王に近侍する貴族の中には彼女を好意的に見る人もいた。重臣のギーズ公はその筆頭だろう。
 何より、先代の国王フランソワ1世がカトリーヌを贔屓にしていたのが重要だった。フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いたほどで、無類のイタリア(半島)好みであった。城もイタリア風にたてさせだからイタリアのどこかを領有したかったのだろうかと穿った見方もできる。その愛する文化の大きなパトロンであるメディチ家の娘を好ましく思うのは自然の成り行きだった。フランス語や歴史を熱心に学ぶカトリーヌの熱意にも大いに心打たれただろう。

 それが変わってきたのは、いつからだろう。
 フランソワ1世が逝去しアンリ2世が即位し、カトリーヌは王妃となった。
 そこからだろうかと本人は思っている。

「ええ、生後1ヶ月で名目上は私がメディチ家の当主でした。当主である父親ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの唯一の子でしたから」とカトリーヌは話し始める。
「母親はフランス人だった。オーベルニュ伯爵の令嬢だ」と国王アンリ2世が続ける。彼は釣書を最初から見ているので、その血筋は分かっている。
「はい、陛下がすでに承知されていることです。ただ、生まれてほんの10日後に母は往き、2週間後には父も亡くなりました。母にフランス語の手ほどきを受けられたらどれほどよかったかと後で何度も思いました。でも、どんなに思っても顔さえも浮かびません……物心もつかないうちに父母をなくした者の思いまでは釣書には書かれません。母が亡くなった時点で私はオーベルニュ伯領も継いだそうですが、生まれたばかりの赤ん坊にそれをどうやって使えるでしょうか。どれほど立派な称号があっても、私は天涯孤独の身だったのです」
 アンリは辛そうな表情になるが、ふうとひとつ息をついてから言う。
「それでも、あなたは生き残った。そのような環境でなお命を繋いだことは、何より幸運だったのではないか」
 カトリーヌは伏し目がちに微笑んでいる。
「ええ、命だけはいただきました。ペストにかからずに済んだのは、母がすぐに私から離れたからでしょう。初めて産んだ子をたくさん抱きたかったでしょうに……本当に母も父も憐れでした」
 アンリはただじっと妻を見守っている。カトリーヌは涙をぬぐって言葉を続ける。
「メディチ家の女たちは力を合わせて私を養育してくれました。祖母ルクレツィアも、おばのマリアも……マリアの子がフィレンツェのコジモですね。そのうちに遠縁のアレッサンドロとイッポーリトもメディチの屋敷に同居するようになって、私の周囲は賑やかになりました」

 生まれた直後の不運をルクレツィア・メディチも、その娘のマリア・サルヴィアーティも懸命に払拭しようと、たっぷりと愛情を注いでカトリーヌを育てた。マリアはカトリーヌと同じ年齢の子を産んで、自身の身の回りもてんやわんやだった頃である。そのおかげで赤子は素直にすくすくと成長していった。しかしその生活も長くは続かなかった。カトリーヌにとって大叔父にあたる教皇レオ10世が亡くなり、少し間をおいてレオ10世の従兄弟であるジュリオが教皇クレメンス7世となった。
 この頃からカトリーヌの生活が少しずつ変わっていく。内密にされていたが、クレメンス7世の庶子だったアレッサンドロがメディチ家の次期当主とされ、イッポーリトは聖職に就くよう命じられた。レオ10世はカトリーヌとイッポーリトを結婚させてメディチ家を継がせようと考えていたので、大きな変転である。聖職者は妻帯できない。お互いに思い合っていた二人は、思いきらねばならなかった。
 さらに大きな苦難がカトリーヌを襲う。
 神聖ローマ帝国軍による1527年のローマ劫掠(ごうりゃく)と1530年のフィレンツェ包囲である。ローマは神聖ローマ帝国と敵対したが教皇はその後和解をはかった。そして今度はフィレンツェ共和国が狙われたのである。恭順しないフィレンツェを解放するというのが表の理由だが、教皇にとってはメディチ家の復興がもとからの目的だっただろう。
 その復興の要であるはずの正統な継承者カトリーヌはどこかへ逃げただろうか。

 彼女は戦場になるかもしれないフィレンツェの修道院に預けられたのだ。メディチ家とつながりのあったムラーテ修道院である。彼女はここでは丁重に扱われた。
 しかし、アレッサンドロもイッポーリトも命からがらローマに逃げたし、マリアもカトリーヌの身をを案じながらヴェネツィアに避難したのである。このとき、11歳のカトリーヌを修道院に預けたのは教皇の指示なのだが、最初から、あるいは途中で何らかの救援ができたはずである。なぜそれをしなかったのかと考えると、なにやら薄ら寒い感じもする。
「ムラーテ修道院では不安になっている私を気遣って皆さん本当によくしてくださいました。残り少ない小麦粉を使って私のためにお菓子を焼いてくださったりもしました。思い出すと涙が出そうになるわ。今でも皆さんには深く感謝しています。でも、籠城戦は年明けから始まって、夏になっても終わりが見えませんでした」
「教会や修道院は不可侵の場のはずだが、あなたも危機に陥ったのか」とアンリが尋ねる。
「ええ、戦況が悪化していることに焦ったフィレンツェ共和国軍は私を人質に取ることにした。そしてムラーテ修道院から、私は連行されたの」
「それは……いくら何でもひどい。教皇はよく放っておいたものだな」とアンリは眉をひそめる。
「私はどこへ連れていかれるか分からないまま、慣れ親しんでいる道を歩いた。最悪のことしか考えられなかった。だって、みんな籠城しているから食料もないし……自分たちが生き残るためなら何だってしたと思うわ。実際、ムラーテにいるときも『メディチの娘を縛り首にしろ』という怒声が外から聞こえてきたこともあったから。私は自分が塔の天辺からぶら下がっている姿を何度も夢に見た。怖くて怖くて……怖いなどという言葉では到底表せないわ。そして共和国側の修道院に幽閉された。後でどうにでもできるように、それまで置いておこうと思ったのでしょう。それが1530年7月のことよ」

 新たに幽閉された聖ルチア修道院は前のそれと違い、カトリーヌを非常に冷淡に扱った。雲霞のごとき大軍が押し寄せてフィレンツェを取り囲んでいる。その理由のいくらかはカトリーヌにあると考えていたからだ。修道院や教会は不可侵の聖域だが、このときのカトリーヌに限っては四面楚歌、明日どうなるかも分からない状況だった。

 アンリは一言、吐き出すように言った。
「なんということだ……私がスペインの虜囚生活から解放されたのと同じ月だ。あなたも私のように……いや、もっとひどい恐怖の中で暮らしていたのか」
 カトリーヌは静かに首を横に振る。
「陛下の経験は陛下にしかはかることはできません。私の経験も同じです。他と比べることはできません。絶望、悲嘆、恐怖といえば簡単ですが、私たちのそれぞれの経験はそんな生易しいものではなかったと理解しています」
「そうだな、私とあなたはイタリア戦争の一場面でまだ子どもだったにも関わらず、深い心の傷を負ったのだ」
 カトリーヌはゆっくり、こくりとうなずいた。
「幸い、私が聖ルチア修道院に移されてすぐ、フィレンツェは敗北し、門は連合軍に開かれました。ですので恐怖は現実にはならなかったですし、その月のうちに私はムラーテの皆さんに再会できたのです」
 
 それから3年後に二人は結婚した。

「あなたは、戦争を終わらせるためにフランスに来たと言った。私にそれができると思ったのか。フランスは当事国なのだから……」とアンリが問う。
「できると思っています、ずっと。当事国だから戦争を止められるのです。当事国だから、どれほどの戦費が費やされ、どれほどの人々が兵になって赴き帰ってこられないかを分かっています。かつて、陛下も私も皇帝(カール5世)の侵攻と交戦の影響でひどい目に合いました。たとえどれほど月日が流れても、皇帝と両手を繋ぐのは陛下にも私にも考えにくいことでしょう。憎んだままでいいと私は思います。それでも、戦闘を中断して、これまでにもあったように休戦期間を長くすることは可能ではないでしょうか。そして和睦、交渉で戦争を終わらせるのです。これまでの例でお分かりのように、だらだらと戦闘を続けていては決して終わりません。陛下がどう終わらせるのか決めるのです。子どもたちに私たちのような思いをさせないために」

 アンリは圧倒されていた。そして、カトリーヌの前に膝まずいた。彼女は驚いて国王を見つめる。王は膝まずいたまま、彼女を見上げて言う。
「あなたは、私の名代を任せるに値する立派な人間だ。数年前にあなたに不在の折の代理を任せたことがあったが、子の養育をしながら、実にそつなく役目を果たしてくれた。失礼ながら、あなたが女性に生まれたのは間違いだったと私は思う。ただ、女性に生まれたからこそ私の妻になったのだ。ぜひこれからも私を助けてほしい。私にはあなたが必要なのだ」
 カトリーヌは自分の目から涙がぽろぽろとこぼれていることに気がついたが、止めようもなかった。
「はい、一生かけてお助けいたします」
 アンリはスッと立ち上がるとカトリーヌの手を握りしめる。
「ともに、この戦争を終わらせよう」
 アンリの手を握りしめて、カトリーヌは力強くうなずく。
「はい、陛下」

 本当の意味で、二人がともに生きることを誓いあった瞬間だった。
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