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第12章 スペードの女王と道化師

メアリーのメアリー

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 エリザベートはメアリーとともに自室で過ごしている。そこは二人が多くの時間を過ごす部屋である。さっぱりしたシーツと柔らかい枕、同じように整えられたベッドが二つ並べられている。大きなクローゼットも二つ、長椅子・テーブルなどがある。女官の部屋がすぐ隣にあるため、この一画だけがまるで女子の寄宿舎のようであった。

 女官は前からいたものの、母と二人きりで暮らしていたメアリーにとってこの王宮はお伽の国のように思えた。
 メアリーの生まれたリンリスゴー城、王城のエディンバラ城があるスコットランドは天気がよくない日が多い。もとより太陽も低いところにあって日照時間が少ないのでなおさらである。それは高緯度の土地ゆえなので何かを責めるわけにはいかないがフランスとはーー緯度のせいではあるがーー天候からして違うのだ。
 部屋の窓を開けると太陽の光がいっぱいあって、鮮やかな花の咲く緑の庭園がある。
 メアリーは毎朝、それを見ただけで小躍りしたくなるのだ。
 違うのは風景だけではない。
 ここは安寧で華麗な避難所だった。

 彼女を引き取ったフランス王家はメアリーにとって異国の得体も知れぬ所帯ではない。母の弟であるギーズ公フランソワは王の重臣で、アンリ2世の信任篤い人物である。ギーズ公の姪が幼くしてスコットランドの女王になり、婚姻を強いるイングランドに乗っ取られようとしている。スコットランド王妃からのじきじきの要請もある。道義的に引き取るのを躊躇う理由はなかった。とはいえこれは国と国の利害が絡む話である。彼女の身の扱い方には細心の注意を払わなければならなかった。
 イングランドとフランスの関係が悪化する危険は常にあるのだ。かつての百年戦争のように。

 メアリーは5歳のときにドーバー海峡を越えて母の祖国フランスにやってきた。王の子どもたちよりもわずかに年長だったので、彼女の扱いは自然と「いとこのお姉さん」のようになる。来た時点でフランス語は片言だったが(片言でも5歳児としては上出来なのだが)、家庭教師が舌を巻くほど早く流暢にフランス語を使えるようになった。王の子どもより進度が早いほどだった。それだけではない。彼女は王が付けた礼儀作法の教師にも「完璧です」と言わせたし、ラテン語やイタリア語、スペイン語も貪欲に学んだ。ハイランドから来た乙女に国王夫妻も賛辞を惜しまなかった。
「スコットランド女王にすべての教養を与えたのはフランスの宮廷だということだな」とアンリがいうのをカトリーヌは耳にして、うなずいていう。
「メアリーはこちらに来て本当によかったと思いますわ。あのままエディンバラにいたらどうなっていたことか……何しろ先のイングランド王(ヘンリー8世)は女性でも容赦なく監獄に入れた上に処刑してしまうのですから、今の王にそれが引き継がれていなければよいのですが、いずれにしてもメアリーを養育し、ふさわしい地位に戻してあげなければ」
「まったく……フランスでは起こり得ないことだ。それに、カトリックとプロテスタントの対立はイングランドではかなり激しい。わが国はカトリックの国としての立場を守り、メアリーもカトリックの女王として君臨してもらわねば。その点、妃は教皇を二人も出した家柄だ。メアリーにもよく話をしてやるといい」
「御意」と礼をしてカトリーヌは王の居室を出る。

 アンリ2世に公然たる愛人がいることは周知の事実だが、女性を取っ替え引っ替えして次々とお払い箱にするような王なり宮廷というのはどうなのだろう、とカトリーヌは思う。それは王が艶福家だから、という一言で済ませるにはあまりにも度の過ぎた話である。自分の方ががまだましだとは思いたくないが、処刑されるのはまっぴらごめんだ。いずれにしても、先王の6人の妻の名を覚えてしまったが、諳じれば哀しみがこみ上げてくるばかりだ。キャサリン・オブ・アラゴン、アン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・オブ・クレーヴス、キャサリン・ハワード、キャサリン・パー……このうち2人が刑死した。
 カトリーヌはふっとつぶやく。
「あの子はイングランドと生涯向き合わなければならないのでしょう。せめて、フランスにいる間は何の不安もなく楽しく過ごしてほしい」

 子どもたちだけの時間というのは、いつかは終わるものでもあるゆえにかけがえのないものだ。カトリーヌがつぶやいた通り、波乱万丈の道が先にあるならば尚更である。
 女子二人の部屋では、エリザベートがメアリーに謝っている。マルグリットの部屋でつい、「マリー」と言ってしまったことについてだ。
「私こそごめんなさい、あんな言い方をしてはいけなかった」とメアリーも謝り、エリザベートを抱擁した。
 エリザベートはおずおずと説明を始める。
 メアリーにはスコットランドから付いてきた女官が4人いて、皆ファーストネームが「メアリー」なのである。女王のメアリーは彼女たちと親しく話しているのだが、彼女たちにしか分からない言葉(英語)で話すので、端で聞いていても誰がどのメアリーだかこんがらがってしまう。なので、女王のメアリーはフランス語読みである「マリー」にしてほしいのだ。たまに、マリーと呼んで嫌な顔をしないので、皆の前でそう呼んだらいいのではないか。そのような理由なのだと幼いエリザベートは懸命に説明した。
 メアリーはその言葉をただじっと聞いていた。
「そうだったの。女官と話すときに英語だから聞いていても分からないし、つまらなかったでしょう。ごめんなさい。私のママン、いえ王妃さまとは時々フランス語で話していたの。ママンの名前もマリーで、結婚してメアリーになった。でもね、時々寂しそうなお顔をして『私はマリーなのよ』と仰っていたわ。それを聞いてから、マリーはママンの名前、メアリーは私の名前ときっぱり分けることにしたの。気がついたときにはもうスコットランド女王だったから、英語の名前にしなければいけないのね。それはフランスにお世話になっていても同じなの。そうね……4人の女官の名前がみんなメアリーなのはちょっと面倒ね。私は適当な名前を付けているから、それを教えてあげる」
 エリザベートが目を輝かせる。
「本当に? 教えてほしい」とにっこり笑う。

 突然、部屋のドアがノックされる。
「はい」とエリザベートが答えてドアを開ける。
 すると、女官のメアリーが箱を持って立っている。
「女王さま、夜分に申し訳ございません。明日のお召し物、ドレスや靴は決めていただいておりますが、首飾りや耳飾りはいかがいたしましょう」
 メアリーはうーんと思案顔をする。
「こちらに来てから王さまやフランソワ叔父さまがたくさん首飾りを下さるので、何があるのかよく分からなくなってしまったわ。でも、真珠の派手でないもの。サファイヤが中心に据えられているのがいいわ。耳飾りも揃えてほしい」
 メアリーの衣装や宝石の大半は別の部屋にあって、皆女官が管理している。エリザベートも同じなのだが、数はメアリーの方が多い。贅沢だと見る向きもあるが、それなりの理由もあった。彼女は当時の女性としては背が高く、この時点ですでに170cmになりそうなほどだった。まだ成長しているので、ドレスは頻繁に仕立てなければならなかった。それに合わせて宝飾品も誂えるので、数は増える一方だった。
 女官が「かしこまりました」と言って去っていくと、メアリーはエリザベートにささやく。
「彼女の苗字はシートン、なのでセトゥンでいいかしら」
「うん」とエリザベートは笑った。


 パリからはるか南東に下って、サロン=ド=プロヴァンスのミシェル・ノートルダムの元にリヨンの印刷屋から手紙が届いた。子どもが泣いているのでなかなか運んできた人の声に気がつかない。
 当時は公式な郵便事業というのはなかったが私設の手紙・書類配達業というのはあった。主に商業の盛んな都市で発展しており、手形や証書などの文書類を運んでいた。王や教皇などはこれとは別に人を使って手紙のやり取りをしていた。リヨンはフランス南部の一大商業都市であるため、プロヴァンス地方だけではなく、パリやイタリアにも配達網を広げていた。
 子守をするミシェルに代わって、妻のアンヌが手紙を受け取って夫に手渡す。
「また本を書いてほしいという依頼かしら。いろいろ入り用だからありがたいことだわ」と妻は言う。実際、夫婦の子どもは次々とこの世に生を受けてくるのだから、切実な問題でもある。
 ミシェルは手紙を開いて読み始める。そして「うーむ」と思案顔をしている。
「どうしたの?」
「パリに行かないかというんだ」とミシェルは答える。
「パリ?」と妻が聞き返す。
「正確にはサン=ジェルマン=アン=レー城だが」
「え、それは王さまのお城じゃないの?」
 ミシェルはこくりとうなずく。
「王妃さまがぜひ面会したいと仰られているそうだ」
「え、本当に? それはすごいことだわ!それで、どんな御用なのかしら」とアンヌは軽く興奮している。
「そこまでは書いていないよ」とミシェルは苦笑いする。
 ただ、王家が自分を呼ぶのは占星術師としてだろうというのは容易に想像がつく。リヨンの版元から連絡があったのは、そこに照会があったからだ。『1553年の暦と占い』を見たのだろうが、あれは仮名で書いているから私がどういう素性の人間かも分からないはずだ。それほどまでに、王宮は占星術師を必要としているのだろうか。パリに赴いて専属になれと言われるのだろうか。ようやくここに落ち着いたというのに……。
 ミシェルの思考は赤ん坊のけたたましい泣き声に遮られた。
「ああ、あなたは本当にお父さんっ子ね」とアンヌは赤ん坊をさっとミシェルに託す。
「おお、よしよし」とあやしているうちに赤ん坊はすやすや眠り始めた。
 ミシェルは小さい命のぬくもりに抱かれながら、また考え始めるのだった。
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