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第12章 スペードの女王と道化師
巨大な帝国を持つ皇帝の栄光
しおりを挟むチェーザレ・ボルジアがイタリア半島から追放されたのは1504年だったが、彼はローマからナポリに移され、そこからイベリア半島に向かって旅立っていった。
ナポリ港の風景が、彼が見るイタリアの最後となったのはさきに書いた通りである。
それからほぼ50年経って、ナポリは当時と同じようにスペインが治めている。内実を言えば、ハプスブルグ家とスペイン王家の血を引く神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の統治下であるため、旧来と事情は異なる。
カール5世は1500年生まれなので、このときは53歳になるが、その年齢に比してずいぶん老けて疲れているようにも見える。
彼はその出自のせいで非常に重い荷物を背負って旅をしてきた。それはさきの章でも述べているが、簡単に振り返っておく。
カールの父母から始める。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長子として生まれた父フィリップは美王と称される。彼はスペインの王女ファナと結婚した。ファナはカスティーリャ女王イザベラとアラゴン王フェルナンド2世の子である。
二人の間に生まれたカールはハプスブルグ王宮で幼少期を過ごした。一方、慣れない異国で母親は次第に精神を病んでいく。その大きな原因はフィリップの放埒な女性関係で、夫を心から愛していた妻にとって耐え難い苦痛だった。
カールが6歳のときに父フィリップが若くして亡くなると、母ファナの心は完全に壊れてしまう。夫の棺をスペインに運ばせて荒野をずっとさまよい歩いたと伝わる。その後、母は故郷スペイン・トルデシリャスの修道院に入れられる。一族によって幽閉されたというのが正確だろう。
1553年時点で70歳を越えているが、カスティーリャ女王の称号を持って幽閉されたままだ。
幼い頃、母の様子を側で見ていた息子はときどき気鬱に陥るようになったが、運命は彼を休ませてはくれなかった。
長く続くイタリア戦争のさなか、1519年には晴れて神聖ローマ皇帝の位に就き、スペイン王も兼ねることになる。
神聖ローマ帝国とは概ね現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を含む広大な地域である。一方、スペインの国土もレコンキスタ(イスラム王朝の追放を目的とする国土回復運動)の終了後には西のポルトガル以外のイベリア半島全域を領していた。
帝国の運営は選帝侯はじめ地域の領主が行ない議会も構成されている。スペインでは貴族が地域の総督および領主を担っている。したがって、皇帝がすべての政務をみるわけではなく、諸州が独立して自治を行うということだ。そうでなければ、これだけ広大かつ離れた領土を治めることは不可能に近い。皇帝の日常は領土を回って旅をすることであり、そこに戦争が絡んでくるのだった。
交戦相手には事欠かない。
まずは、フランスである。
当時の王であるフランソワ1世はカールを終世不倶戴天の敵とみなしていた。フランスにしてみれば両側をカールの領土に挟まれているのだから、いつ攻め込まれても不思議はない。加えてナポリもハプスブルグの皇帝が宗主と来れば、それと張り合ってイタリア半島や国境付近の地域を奪取したいという欲求を持つ。いっときはフィレンツェやローマにまで皇帝の軍が進攻したのだからなおさらである。
フランソワ1世が世を去ったあとも、アンリ2世がその遺恨ごと引き取ってまだ交戦状態が続いている。アンリ2世はさきに述べた通り、スペインで4年も酷い人質生活を送ったのだから遺恨の深さは父王にも引けをとらなかった。
続いてはオスマン・トルコである。
オスマン帝国とも呼ばれるこの国家を最も拡大させたのはスレイマン1世(2世ともいわれる)だが、彼の最盛期はカールとほぼ重なる。
オスマン・トルコのヨーロッパ侵攻はこの時期エーゲ海と神聖ローマ帝国領に集中していた。
カールが皇帝になった直後の1521年、彼らはハンガリーからベオグラードを占領し、翌年には聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪取した。エーゲ海を含む地中海の制海権を手に入れることは帝国の範囲を広げるために不可欠であったし、ハンガリーに拠点を築いてヨーロッパ攻略の足掛かりにしようとしたのだ。1526年にオスマンはハンガリー王を倒し、ローマ帝国領オーストラリアの国境線まで一気に攻め上がってきた。
このときはカールの弟フェルディナントがハンガリーの王位継承を宣言し、オスマン・トルコと対峙した。オスマンはウィーンを包囲し攻撃をかけるが、ローマ側もよく応戦しウィーンを奪われることはなかった。
ここで持ちこたえられたのが分岐点だった。
以降はオスマンが武力でヨーロッパに攻め込んでくることはなくなった。最終的に1533年にフェルディナントの使節とオスマンのイブラヒム・パシャが協議し、コンスタンティノープル条約が成立、和睦がようやく成った。
その後オスマンはヨーロッパから地中海およびアフリカ大陸に照準をさだめていく。陸の戦いから海の戦いに移ったのだ。各地で交戦が繰り返されカールが自国の軍を派遣する戦闘もあった。地中海のコルフ島を狙ったオスマン軍とヨーロッパの連合船団が戦ったプレヴェザの海戦がそのひとつである。
この戦いのため、ヴェネツィアからエルサレム行きの定期船が長く欠航となった。ヴェネツィアに滞在していたイエズス会の結成メンバーたちはそれによってエルサレムに行くという当初の誓願について変更を余儀なくされたのだ。もし、このときエルサレムに行っていたら、フランシスコ・ザビエルは日本に来なかったかもしれない。
ざっと述べたが、ヨーロッパにオスマン・トルコが侵攻したというのは神聖ローマ帝国のみならず、ヨーロッパ全域に緊張をもたらすできごとだった。ローマも相応の対策をとっている。カトリーヌの恋人だったイッポーリト・メディチがバチカンの外交官としてハンガリーに赴いたのはその一例だろう。
いずれにせよ、各国の動きは寸分の油断も許さないものだっただろう。皇帝は落ち着いて国の運営に注力することなどできなかった。じきに神聖ローマ帝国のドイツ周辺地域の統治をフェルディナンドに任せることになる。
しかし、カールの最も大きな受難はキリスト教によってもたらされたという見方ができるかもしれない。
それはカールの即位前に起こったルターの運動が直接のきっかけだった。ヴィッテンベルグ大学の神学教授だったマルティン・ルターは折からの贖宥状の濫造・販売に異議を唱え、教皇庁および教会の拝金主義・腐敗を質す質問状を印刷した。有名な『95ヶ条の論題』である。ここから新たにカトリックに対しての新教が生まれる。それが現在のドイツにあたる地域で燎原の火のごとく広がったのである。これにはカールも手を焼いた。神聖ローマ帝国はカトリックを是としている。新教を認めることはできない。
ルターを審問にかけても翻意することはなく、教皇が破門するに至る。それでもルターに付いていく人が減ることはなかった。それどころか、有力な選帝侯の中にはルターを支持する者も出てきた。神聖ローマ帝国を実質的に持っているのは彼らを初めとする諸侯なのだ。
彼らがルター支持の民衆とともに反乱を起こしたら……。それは宗教の話ではなく帝国の瓦解につながりかねない。実際、1524年にはシュヴァーベン地方の農民たちが反乱を起こした。反乱は周辺地域にまで広がり、鎮圧するのに時間がかかった。
そこでカールはプロテスタント(ルター派とそれを支持する諸侯の総称)を抑えるためにはカトリックの総本山である教皇庁に介入してもらう他はないと考えた。具体的にはカトリックの公式な議決期間である公会議の開催である。それはすぐには実現しなかった。1545年にようやく第一回のトリエント公会議が開かれ、それは断続的に19回まで続けられる。最終の会議が終了するのはまだ先のことだ。カールの生きている間には終わらないだろう。
これらの内患外憂の状態を長く続けた結果、皇帝カール5世は極度に疲労困憊していた。持病の痛風がしばしば彼の足を止めているのもあるが、彼はこの重荷からの解放を真剣に考えるようになっていた。
皇帝を止めることである。
彼は実に大量の称号を持っていた。正式に近いものを引用してみよう。
「ローマ王、イタリア王(ミラノ公、ナポリ王、シチリア王)、全スペインの王およびカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グラナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリアおよびサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主。」※
有名無実の称号も少なからずあるものの、これだけの肩書とともにいつも暮らすのは心理的にも重たい。
トリエント公会議が実現したのち、1550年代初頭の神聖ローマ皇帝は引退してスペインに住むことを考え始めていた。その元になったのは、この前年の1552年に公職をすべて譲ったスペインの臣下・フランシスコ・ボルハの存在が大きかった。
ボルハはカトリックの新しい修道会であるイエズス会に入会し、信仰に余生を費やそうと固く決めていた。それだけではない。ボルハはカールの母であるファナの許をたびたび訪れ、話をしていた。カスティーリャ女王、皇帝の母という輝かしい称号を持ちながら、修道院で幽閉状態に置かれている母のことは、カールの心の片隅に常にあった。いわば、見捨てられた子羊である母にボルハが面会していることはカールをひどく感動させていたのだ。ボルハはじきにローマに出るのだが、カールはボルハとやりとりをする中で、自身もスペインでひっそりと余生を送りたいと願うようになっていた。
カールは、かつてバリャドリードにあるスペインの王宮で、フランシスコ・ボルハがアラゴンの地方総督を辞したいと申し出たときのことを思い出す。もう十年前のことだ。カールは物憂げに尋ねる。
「辞職を希望する理由は?」
「幼い頃から望んできました。信仰にこの身を捧げて生きたいのです」とフランシスコは淀みのない声で堂々と現世の主に告げた。
「ガンディアはどうする?」とカールは続けて尋ねる。
「ガンディア公爵は次代にきちんと引き継ぐ責任があります。それはきちんと全うするつもりです」とフランシスコは落ち着いた調子で答えた。すでによく考えた末の懇願であることはよく理解できた。
カールはまた黙りこんだ。そして、ふぅと長いためいきをつく。
「……私がこの厄介な役目を終えて、おまえと同じ道を行きたいと思ったときには、その両の手で迎え導いてくれるか」
「もちろんです」とフランシスコは答えた。
堂々としたフランシスコの姿はカールにはとても眩しく映った。
自分の信じるものに真っ直ぐ向かっていくというのは何と素晴らしいことか。
ボルハはあれから病気だった妻の最期を看取り、息子の結婚を祝い、ガンディア公を譲って、すべてを片付けてからローマに旅立った。カールの前で宣言してから7年が経っていたが、まったく見事としかいえない身の処しかただった。
「ボルハの血族を遡れば教皇アレクサンデル6世にあたる。ローマに行くのは必然なようにも思えるな。教皇になるわけではないが、自ら望んで新進の修道会に進むというのは、純粋に信仰に向かって生きるという純粋な誓いだ。ルターもスペインに住んでいれば、カトリックをよしとしたかもしれない。そうすればまた状況が違っていたのだろうか。
そうだ、アレクサンデル6世の子、フランシスコ・ボルハの祖父の兄がチェーザレ・ボルジアだったと聞いた。もう過去の人だが……」
そこまで一人ごちて、カールはため息をつく。
「それほどヨーロッパの、世界の覇者になりたかったのか。日々移動、移動。遠征か戦争に明け暮れる。問題はいくつもあり、すべてが複雑に絡み合って手に負えないし解決しない。治める領土が広大なら広大であるほど、尋常ではない労力が必要になる。1年ならできるかもしれないが、もう30年だ。こんなことをやりたがる人間がいるのか。ボルハの軍神はそれほど皇帝の冠が、称号が欲しかったか。
くれてやる。
くれてやる。
欲しいならくれてやる。
これにいったい、
どのような価値が見いだせるのだ」
カールは独りで喋りすぎたと感じて立ち上がり、窓から空を眺める。
彼の晩年が始まろうとしていた。
※称号の一覧はwIkipediaより引用
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