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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア
乾いた城塞の住人 1504年9月~ アルバセーテ(スペイン)
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<チェーザレ・ボルジア、マリア・エンリュクス、アラゴン王フェルナンド、カスティーリャ女王イザベラ、ルクレツィア・ボルジア、ガブリエル・デ・グスマン、モーラ>
チェーザレ・ボルジアは教皇アレクサンデル6世の死去以降、坂を転げ落ちるようにその力を奪われ、教皇宮の自邸に軟禁の身となってしまった。その後自由の身となり、ナポリでコルドーバ総督のもと再起をはかろうとしたのもつかの間、当の総督からも軟禁されてしまう。新教皇とヴェネツィア、そしてスペインで決定したことである。スペイン人の総督にはどうしようもないことだった。
そして、チェーザレは、スペインで実弟殺しの裁判を受けるという名目でイタリア半島から追放されることとなったのである。
彼はナポリからキャラベル船に乗ってイべリア半島の南岸、アリカンテに上陸した。1504年9月初旬のことである。風が弱いこともあって、2週間の船旅だった。マルセイユに向かったときのような国賓待遇ではなかったが、船長の厚意(総督の好意でもあるが)もあって、船の上では自由に過ごすことができた。
チェーザレはマヨルカ島を過ぎて現れたイベリア半島をぼんやりと眺めていた。それがイベリア半島だとわかっても何の感慨も抱かなかった。父の、ボルジア家の故郷だという思いが湧き上がることもなかった。目が覚めるような紺碧の海の先に、なだらかな海岸線が美しく弓なりになっている。美しく悠然としていた。船もナポリのようにごちゃごちゃと多くはない。いかに遠くまで来たことか。チェーザレがイベリア半島を見て思ったことだった。
もうイタリア半島は見えない。
チェーザレも探そうとはしなかった。そこにはまだ断ち切ることのできない思いが、それまでの人生がすべて詰まっているからである。彼はまだ、完全に諦めたわけではなかった。まだ29歳にしかならない若者に、人生を諦めろと誰が言えるものか。
しかしまだ、地中海はチェーザレのかすかな希望に優しい光を与えていた。この海はローマへの道でもあった。いやかつてのローマ帝国をこの海は抱いていたのではなかったか。それを知ってなぜかほっとしていた。彼は必ず帰るつもりだった。
ローマへ。
しかし、その道は実際の距離よりはるかに長く険しい。
彼にとっては完全な異国であるスペインで、自身がどのような扱いを受けるのかまったくわからないのだ。
馬に引かれたチェーザレは、ボルジア家、スペイン語で言えばボルハ家が勃興(ぼっこう)した地ヤティバを素通りした。チェーザレがそれと聞いたかは定かでない。それどころか、弟ホアン亡き後、甥のホアンが領主であるガンディアも素通りした。
さらに内陸に馬は進み、護送兵に囲まれたチェーザレがたどり着いたのは、アルバセーテ郊外にあるチンチーリャ城である。アリカンテを出て数日後のことだった。
チンチーリャ城、高さ約700メートルの岩山を利用して建てられたこの城塞は乾いた平原を見渡すようにそびえ立っている。周囲には堀が巡らされ、狭く細い連絡橋を渡らなければ城門をくぐれない。敵が突入しようとしたらこの橋は瞬時に断ち落とされるだろう。
逆に閉じ込められる立場から見れば、こっそりと脱出することは困難極まりない。人を捕えておくには最高の場所だった。スペインにはこのような城塞が多い。レコンキスタでイスラム教勢力との攻防戦が長く散発的に続いた影響である。城はたいてい、戦いの場となったので、ひたすら堅牢であることが求められた。
チェーザレ本人も期待してはいなかっただろうが、彼を捕囚の身として預かったアラゴン王フェルナンドは、チェーザレをガンディアやヤティバに戻すつもりはさらさらなかった。その一方、おおもとの召還理由である実弟ホアン殺害について裁判にかける話も宙に浮いていた。当面は殺さずに捕囚の身としておくという曖昧な扱いである。
それには事情があった。この頃、スペインではイザベラ女王が病で寝付いていた。それはマラリアではなく、腹痛だった。婦人科系の癌だったのではないかといわれている。彼女はスペイン中央部のメディナ・デル・カンポの宮殿でしばらく療養生活を送っていたが、癌だとすればそれを治す方法はこの時代にはない。症状は悪化するばかりだった。
彼女はスペインの大勢を占めるカスティーリャ女王である。彼女が亡くなれば結婚によってひとつになったスペインがまた動揺することになる。悲しむべきことに、アラゴン王フェルナンドとの間にもうけた長男と長女は早世していた。フェルナンドは妻の身を案じつつも善後策を考えておかねばならなかった。王位継承が戦争を起こす例はいくらでもある。さきのイタリア戦争もそうだった。これ幸いと、隣国フランスが攻めて来ないとも限らない。すでにナポリの争奪戦で苦杯を飲まされたフランスには、そうするだけの理由が十分にある。
最近、カタローニャ州は独立のための住民投票をしたことでニュースになったが、その根はこういった事柄も関係している。カタローニャ地方はかつてのアラゴン王国である。
そのようなこともあって、チェーザレの処遇は曖昧にされていたのである。
一方、チェーザレの弟、殺されたホアンの家族はこの頃ガンディアでどう過ごしていたのだろうか。
妻のマリア・エンリュクスは忘れ形見のホアン(父親と同じ名である)を領主に立てて、静かに暮らしていた。ホアンはまだ幼かったので、寡婦のマリアは彼を守ることだけを考えて生きている。ヤティバにいるボルハの血縁者の援助も受けて、誰かにその座を奪われる心配はしなくて済んだ。スペインではボルハ家の威光はヴァレンシアの太陽のように強かった。カトリックの国と言われるスペインで、教皇を二人に枢機卿も出しているのだから。それにはもちろん、チェーザレも含まれる。
マリア親子もその恩恵は受けている。先頃ホアンとスペイン王の娘の婚約話が出てきたところだった。
ホアンとマリアの夫婦関係はそれほど濃いものではなかった。結婚のときはもちろんガンディアにいたものの、その後首都マドリッドに赴いたホアンは享楽的な雰囲気を気に入り、田舎であるガンディアにはほとんど帰ってこなかった。チェーザレがその放蕩ぶりをたしなめる手紙を出したほどである。子はすぐにできたものの、妻はガンディアでひとりにされることがほとんどだったのである。ローマでは教皇の息子という立場上、あまり羽目が外せなかった反動かもしれないし、もともと享楽的な生活を好んでいたのかもしれない。
そのような夫婦だったせいか、遠く離れたローマで夫が死んだという知らせを受けてもマリアにはあまり悲しみの感情がわかなかった。しかし、息子は違う。息子のホアンはきちんと育てて立派なガンディア領主としなければならない。それだけがマリアを支える生きがいとなったのである。
そして夫の死から8年、チェーザレがローマでその立場を追われて囚われの身となったこと、それがホアンの殺害容疑であると知ったとき、マリアは叫んだ。
「何てこと! もうあの方との縁はないのです。一切関わりたくありません」
マリアがそう叫ぶのも無理のないことだった。今さらチェーザレを訴えることなど考えもしなかったからである。それどころか、ローマ教皇に疎んじられイタリア諸国・諸侯の援助もなく、あるいは届かず、同盟を結んでいたはずのフランスからも見放され、四面楚歌になってしまった義兄なのだ。そのような人間と関わってボルハ家に災いを為すことになったら。そう考えたマリアはチェーザレに関わること一切を拒否した。もちろん、訴訟を起こすという働きかけにも応じなかった。
チェーザレがスペインで裁判にかけられなかったのは、そのような事情もあった。
ただ、これまで登場したボルハ家の人物にはあまり見られなかったが、マリアは敬虔な市井のカトリック教徒であった。彼女は日曜日に限らずガンディア司祭のもとにおもむき、憐れな義兄のためにひたすらに祈りを捧げたのである。チェーザレがかつてガンディア司祭だったことを考えると、運命の皮肉としかいいようがないのだが。
面識のない義兄にこれだけのことをするのは、理由があった。
ルクレツィア・ボルジア(ボルハ)の手紙だった。
チェーザレがスペインに送られたと知ってから、ルクレツィアはフェルナンド王やイザベラ女王(もちろん見舞の言葉も添えて)、コルドーバ総督などスペインの有力者をはじめ、マリアにも手紙を書いていたのである。
マリアは面識のない義妹の手紙に心を打たれた。ルクレツィアがかつて父に教わったという、きれいなスペイン語の手紙を見て、チェーザレに対する深い愛情を知ったのである。マリアが伝え聞いていたチェーザレ・ボルジアと、ルクレツィアの書く兄が同一人物だとはなかなか思えなかったものの、マリア自身にも先入観があったのかもしれないと自省した。
マリアはただ、「彼が平穏な日々を取り戻すように祈ります」と返事を書くことしかできなかったが、それは真実の言葉だった。
祈ること、それがマリアのルクレツィア、そしてチェーザレに対する気持ちだった。
アルバセーテのチンチ―リャ城。チェーザレは自身がいる城の名を知らなかった。
ごつごつとした、少し離れれば岩山にしか見えない城塞。チェーザレは700メートルの岩山の上に立つ城塞の塔の上方に居室を与えられた。さらに25メートルほど上がることになる。その内部は外見ほど荒々しくなかった。簡素で装飾品などはないものの整えられている。装飾品は武器に変わることがあるから取り払われていたのだ。
チェーザレには続きの3部屋が与えられる。それぞれ部屋は広い。動き回るのが性分の、この囚われ人が歩きまわるのに十分とは言えないかもしれないが、不満を抱くほどではない。小さいながら窓があり、客用のベッドもある。
窓からは少しばかりの丘の他は少しばかりの灌木が生える乾いた大地とこじんまりとした街、そして街道を望むことができる。夜は灯りも与えられたが、無数の星が輝いている空を見ているほうがよほど気休めになりそうだった。呼べば人もすぐに来る。温かい食事が運ばれる。新しい衣類も与えられた。
悪い暮らしではない。
チェーザレ・ボルジアはここで客人と同様の扱いを受けていたのである。
ローマ、カスタル・サンタンジェロの地下牢で、拷問を受けていたミケロット、すなわちミケーレ・ダ・コレーリア、タッデオ・デッラ・ヴォルペとは天地の差である。2人はチェーザレの不利になるようなことは何一つ口にしなかった。いや、まったく黙秘した。当然相当の暴力を受けただろう。タッデオ・デッラ・ヴォルペはチェーザレがイタリア半島を去った後しばらくして、解放された。
しかしミケーレはチェーザレに尽くしすぎたのだ。彼は裁判にかけられた。数々の殺人罪である。確かに、これまで書いただけでも彼が手を下した人間は相当数に上る。裁判になる前からその悪名は実際以上に誇張され、「殺人鬼」だの「死神」呼ばわりされていた。
それでもミケーレはすべて黙秘を貫いた。そして何年もカスタル・サンタンジェロ地下牢の住人となるのである。
それに較べれば、という程度の問題であるが、チェーザレは室外に出さえしなければ、仲間、あるいはそれに通じる者と連絡を取りさえしなければ、自由だった。もちろん、それは自由とは言えない。警固は当然ながら厳しく、常に槍を構えた兵が重いドアの外で番をしていた。
ものものしい護衛付きの城代、ガブリエル・デ・グスマンが様子を見に来たとき、チェーザレは何も話さなかった。からかい気味に、「もう父祖の言葉は忘れたか」と告げられたときも、城代に冷たい一瞥を与えただけだった。
チェーザレはイタリアから付いている従者にもほとんど喋らずに、すべての時間を考えることに使っていた。数ヶ月前のナポリの夏はすでに遠い昔のこととなり、城塞の外には
冷たい風が吹いていた。もう冬がやってこようとしている。
チェーザレはただ、考えていた。
どうしたらこの境遇から脱することができるか。
フランスはまだチェーザレ・ボルジアに手を伸ばす気があるだろうか。
スペインは自分をどうしようと考えているのか。
イタリア半島のいずれかの国と手を組む方法はないのか。ヴェネツィアは駄目だが、フランスが付けばミラノは手を組めるだろう。フェラーラやマントヴァも付くだろう。フランスが自分を支持すれば北部から中部に進路を取ることもできる。スペインの風向きが変われば、ナポリから反転攻勢に出ることは可能かもしれないが……。
チェーザレは日がなそのようなことを考えて過ごしていた。外の情報はまったく伝わってこない。
せめて、ミケロットが側にいてくれたら。
チェーザレの思考は堂々巡りを繰り返し、時間ばかりが過ぎていく。
その頃、メディナ・デル・カンポで療養していたイザベラ女王が亡くなった。1504年11月26日のことだった。享年53歳であった。
彼女の跡を二女のファナが継ぐことになる。それがスペインの波乱を呼び、チェーザレの行く末にも混沌を引き起こすことになるのである。
チェーザレは女王の死を知るすべもない。
この頃、彼の世話をするためにムーア人の少女が付くようになった。
まだ幼さが残るように見えるが、17~8歳というところか。ほどよく丸みを帯びた身体はもう大人である。褐色の肌に青い瞳がサファイヤのように輝いている。もう少し生まれるのが早ければ、レコンキスタの前ならば、スルタンの後宮に入れられていたかもしれない。
チェーザレは褐色の肌をした人間を珍しくは思っていない。ムーア人の女性はナポリにもヴェネツィアにもいる。イタリア半島の貴族の間で、ムーア人の女性奴隷を持つというのが流行っていたからである。きっとこの娘も奴隷なのだろう。しかし、チェーザレは想像するしかなかった。
彼女は言葉を発しなかったからである。
そして、チェーザレも言葉を発さない。意思疎通をはかる手段は目だけだった。
チェーザレは娘の美しさには目を見張った。だからこそ警戒していた。なぜ突然、ムーア人の奴隷が世話をするようになったのか。城代が考えたことだろう。ただの世話女か、それとも夜伽をさせようというのか。ドアの外には武装した兵が立っているというのに。いや、そんな好意尽くしの話があるはずはない。油断させて、寝物語に何か話を聞き出そうというのか。それならまだいい。心臓に短刀を突き立てられればそれで終わりだ。ものを喋らないのはなおさら怪しい。暗殺者はたいてい、多くを語らないものだからである。
城代が何を考えているか、決定的な結論を得られなかったのである。
警戒を解くことがなかなかできないチェーザレだった。
グラナダのナスル朝が滅びた後、そこに住んでいた人々の多くはイスラム勢力が支配するアフリカ北部に逃げ落ちていった。しかし捕虜として、のちには奴隷としてスペインに残らざるを得ない者もいた。
レコンキスタはすっぱりと時代と時代を切り離せたわけではない。アンダルシア地方にはイスラムの文化や習慣、そして血が色濃く残っている。イスラム勢力との関わりは800年に及ぶのだから、そう簡単に切れるはずはないのである。イスラム勢力とキリスト教勢力、ふたつは押したり引いたりを波のように繰り返し、文化や習慣を融合させるにいたった。その象徴として有名なのはアルハンブラ宮殿である。それは「融合」の美しい一面であるが、一方で戦乱や宗教・人種に対する差別・迫害が深い底流として横たわっているのである。
チェーザレはまだ知るよしもないが、この娘は混血でモーラという。
彼女は幼い頃のグラナダ陥落の際に両親を殺されていた。それから奴隷として生きてきたのである。その時の影響で口が利けなくなった。その後は貴族の家で下働きをして生きてきた。サファイアのような目も、丸くて愛らしい耳にも特段の問題はない。スペイン語も解することができる。ただ、ぽってりとして愛らしい唇から言葉を発することはなかった。
いささかの緊張はあったものの静かな日々が続いた。
チェーザレは食事が出るたびに毒が盛られているのではないかと疑っていたが、そんなことはなかった。娘は淡々とチェーザレの世話をしている。
彼女のサファイアのような蒼い目をじっと見つめることが増えていった。
チェーザレ・ボルジアは教皇アレクサンデル6世の死去以降、坂を転げ落ちるようにその力を奪われ、教皇宮の自邸に軟禁の身となってしまった。その後自由の身となり、ナポリでコルドーバ総督のもと再起をはかろうとしたのもつかの間、当の総督からも軟禁されてしまう。新教皇とヴェネツィア、そしてスペインで決定したことである。スペイン人の総督にはどうしようもないことだった。
そして、チェーザレは、スペインで実弟殺しの裁判を受けるという名目でイタリア半島から追放されることとなったのである。
彼はナポリからキャラベル船に乗ってイべリア半島の南岸、アリカンテに上陸した。1504年9月初旬のことである。風が弱いこともあって、2週間の船旅だった。マルセイユに向かったときのような国賓待遇ではなかったが、船長の厚意(総督の好意でもあるが)もあって、船の上では自由に過ごすことができた。
チェーザレはマヨルカ島を過ぎて現れたイベリア半島をぼんやりと眺めていた。それがイベリア半島だとわかっても何の感慨も抱かなかった。父の、ボルジア家の故郷だという思いが湧き上がることもなかった。目が覚めるような紺碧の海の先に、なだらかな海岸線が美しく弓なりになっている。美しく悠然としていた。船もナポリのようにごちゃごちゃと多くはない。いかに遠くまで来たことか。チェーザレがイベリア半島を見て思ったことだった。
もうイタリア半島は見えない。
チェーザレも探そうとはしなかった。そこにはまだ断ち切ることのできない思いが、それまでの人生がすべて詰まっているからである。彼はまだ、完全に諦めたわけではなかった。まだ29歳にしかならない若者に、人生を諦めろと誰が言えるものか。
しかしまだ、地中海はチェーザレのかすかな希望に優しい光を与えていた。この海はローマへの道でもあった。いやかつてのローマ帝国をこの海は抱いていたのではなかったか。それを知ってなぜかほっとしていた。彼は必ず帰るつもりだった。
ローマへ。
しかし、その道は実際の距離よりはるかに長く険しい。
彼にとっては完全な異国であるスペインで、自身がどのような扱いを受けるのかまったくわからないのだ。
馬に引かれたチェーザレは、ボルジア家、スペイン語で言えばボルハ家が勃興(ぼっこう)した地ヤティバを素通りした。チェーザレがそれと聞いたかは定かでない。それどころか、弟ホアン亡き後、甥のホアンが領主であるガンディアも素通りした。
さらに内陸に馬は進み、護送兵に囲まれたチェーザレがたどり着いたのは、アルバセーテ郊外にあるチンチーリャ城である。アリカンテを出て数日後のことだった。
チンチーリャ城、高さ約700メートルの岩山を利用して建てられたこの城塞は乾いた平原を見渡すようにそびえ立っている。周囲には堀が巡らされ、狭く細い連絡橋を渡らなければ城門をくぐれない。敵が突入しようとしたらこの橋は瞬時に断ち落とされるだろう。
逆に閉じ込められる立場から見れば、こっそりと脱出することは困難極まりない。人を捕えておくには最高の場所だった。スペインにはこのような城塞が多い。レコンキスタでイスラム教勢力との攻防戦が長く散発的に続いた影響である。城はたいてい、戦いの場となったので、ひたすら堅牢であることが求められた。
チェーザレ本人も期待してはいなかっただろうが、彼を捕囚の身として預かったアラゴン王フェルナンドは、チェーザレをガンディアやヤティバに戻すつもりはさらさらなかった。その一方、おおもとの召還理由である実弟ホアン殺害について裁判にかける話も宙に浮いていた。当面は殺さずに捕囚の身としておくという曖昧な扱いである。
それには事情があった。この頃、スペインではイザベラ女王が病で寝付いていた。それはマラリアではなく、腹痛だった。婦人科系の癌だったのではないかといわれている。彼女はスペイン中央部のメディナ・デル・カンポの宮殿でしばらく療養生活を送っていたが、癌だとすればそれを治す方法はこの時代にはない。症状は悪化するばかりだった。
彼女はスペインの大勢を占めるカスティーリャ女王である。彼女が亡くなれば結婚によってひとつになったスペインがまた動揺することになる。悲しむべきことに、アラゴン王フェルナンドとの間にもうけた長男と長女は早世していた。フェルナンドは妻の身を案じつつも善後策を考えておかねばならなかった。王位継承が戦争を起こす例はいくらでもある。さきのイタリア戦争もそうだった。これ幸いと、隣国フランスが攻めて来ないとも限らない。すでにナポリの争奪戦で苦杯を飲まされたフランスには、そうするだけの理由が十分にある。
最近、カタローニャ州は独立のための住民投票をしたことでニュースになったが、その根はこういった事柄も関係している。カタローニャ地方はかつてのアラゴン王国である。
そのようなこともあって、チェーザレの処遇は曖昧にされていたのである。
一方、チェーザレの弟、殺されたホアンの家族はこの頃ガンディアでどう過ごしていたのだろうか。
妻のマリア・エンリュクスは忘れ形見のホアン(父親と同じ名である)を領主に立てて、静かに暮らしていた。ホアンはまだ幼かったので、寡婦のマリアは彼を守ることだけを考えて生きている。ヤティバにいるボルハの血縁者の援助も受けて、誰かにその座を奪われる心配はしなくて済んだ。スペインではボルハ家の威光はヴァレンシアの太陽のように強かった。カトリックの国と言われるスペインで、教皇を二人に枢機卿も出しているのだから。それにはもちろん、チェーザレも含まれる。
マリア親子もその恩恵は受けている。先頃ホアンとスペイン王の娘の婚約話が出てきたところだった。
ホアンとマリアの夫婦関係はそれほど濃いものではなかった。結婚のときはもちろんガンディアにいたものの、その後首都マドリッドに赴いたホアンは享楽的な雰囲気を気に入り、田舎であるガンディアにはほとんど帰ってこなかった。チェーザレがその放蕩ぶりをたしなめる手紙を出したほどである。子はすぐにできたものの、妻はガンディアでひとりにされることがほとんどだったのである。ローマでは教皇の息子という立場上、あまり羽目が外せなかった反動かもしれないし、もともと享楽的な生活を好んでいたのかもしれない。
そのような夫婦だったせいか、遠く離れたローマで夫が死んだという知らせを受けてもマリアにはあまり悲しみの感情がわかなかった。しかし、息子は違う。息子のホアンはきちんと育てて立派なガンディア領主としなければならない。それだけがマリアを支える生きがいとなったのである。
そして夫の死から8年、チェーザレがローマでその立場を追われて囚われの身となったこと、それがホアンの殺害容疑であると知ったとき、マリアは叫んだ。
「何てこと! もうあの方との縁はないのです。一切関わりたくありません」
マリアがそう叫ぶのも無理のないことだった。今さらチェーザレを訴えることなど考えもしなかったからである。それどころか、ローマ教皇に疎んじられイタリア諸国・諸侯の援助もなく、あるいは届かず、同盟を結んでいたはずのフランスからも見放され、四面楚歌になってしまった義兄なのだ。そのような人間と関わってボルハ家に災いを為すことになったら。そう考えたマリアはチェーザレに関わること一切を拒否した。もちろん、訴訟を起こすという働きかけにも応じなかった。
チェーザレがスペインで裁判にかけられなかったのは、そのような事情もあった。
ただ、これまで登場したボルハ家の人物にはあまり見られなかったが、マリアは敬虔な市井のカトリック教徒であった。彼女は日曜日に限らずガンディア司祭のもとにおもむき、憐れな義兄のためにひたすらに祈りを捧げたのである。チェーザレがかつてガンディア司祭だったことを考えると、運命の皮肉としかいいようがないのだが。
面識のない義兄にこれだけのことをするのは、理由があった。
ルクレツィア・ボルジア(ボルハ)の手紙だった。
チェーザレがスペインに送られたと知ってから、ルクレツィアはフェルナンド王やイザベラ女王(もちろん見舞の言葉も添えて)、コルドーバ総督などスペインの有力者をはじめ、マリアにも手紙を書いていたのである。
マリアは面識のない義妹の手紙に心を打たれた。ルクレツィアがかつて父に教わったという、きれいなスペイン語の手紙を見て、チェーザレに対する深い愛情を知ったのである。マリアが伝え聞いていたチェーザレ・ボルジアと、ルクレツィアの書く兄が同一人物だとはなかなか思えなかったものの、マリア自身にも先入観があったのかもしれないと自省した。
マリアはただ、「彼が平穏な日々を取り戻すように祈ります」と返事を書くことしかできなかったが、それは真実の言葉だった。
祈ること、それがマリアのルクレツィア、そしてチェーザレに対する気持ちだった。
アルバセーテのチンチ―リャ城。チェーザレは自身がいる城の名を知らなかった。
ごつごつとした、少し離れれば岩山にしか見えない城塞。チェーザレは700メートルの岩山の上に立つ城塞の塔の上方に居室を与えられた。さらに25メートルほど上がることになる。その内部は外見ほど荒々しくなかった。簡素で装飾品などはないものの整えられている。装飾品は武器に変わることがあるから取り払われていたのだ。
チェーザレには続きの3部屋が与えられる。それぞれ部屋は広い。動き回るのが性分の、この囚われ人が歩きまわるのに十分とは言えないかもしれないが、不満を抱くほどではない。小さいながら窓があり、客用のベッドもある。
窓からは少しばかりの丘の他は少しばかりの灌木が生える乾いた大地とこじんまりとした街、そして街道を望むことができる。夜は灯りも与えられたが、無数の星が輝いている空を見ているほうがよほど気休めになりそうだった。呼べば人もすぐに来る。温かい食事が運ばれる。新しい衣類も与えられた。
悪い暮らしではない。
チェーザレ・ボルジアはここで客人と同様の扱いを受けていたのである。
ローマ、カスタル・サンタンジェロの地下牢で、拷問を受けていたミケロット、すなわちミケーレ・ダ・コレーリア、タッデオ・デッラ・ヴォルペとは天地の差である。2人はチェーザレの不利になるようなことは何一つ口にしなかった。いや、まったく黙秘した。当然相当の暴力を受けただろう。タッデオ・デッラ・ヴォルペはチェーザレがイタリア半島を去った後しばらくして、解放された。
しかしミケーレはチェーザレに尽くしすぎたのだ。彼は裁判にかけられた。数々の殺人罪である。確かに、これまで書いただけでも彼が手を下した人間は相当数に上る。裁判になる前からその悪名は実際以上に誇張され、「殺人鬼」だの「死神」呼ばわりされていた。
それでもミケーレはすべて黙秘を貫いた。そして何年もカスタル・サンタンジェロ地下牢の住人となるのである。
それに較べれば、という程度の問題であるが、チェーザレは室外に出さえしなければ、仲間、あるいはそれに通じる者と連絡を取りさえしなければ、自由だった。もちろん、それは自由とは言えない。警固は当然ながら厳しく、常に槍を構えた兵が重いドアの外で番をしていた。
ものものしい護衛付きの城代、ガブリエル・デ・グスマンが様子を見に来たとき、チェーザレは何も話さなかった。からかい気味に、「もう父祖の言葉は忘れたか」と告げられたときも、城代に冷たい一瞥を与えただけだった。
チェーザレはイタリアから付いている従者にもほとんど喋らずに、すべての時間を考えることに使っていた。数ヶ月前のナポリの夏はすでに遠い昔のこととなり、城塞の外には
冷たい風が吹いていた。もう冬がやってこようとしている。
チェーザレはただ、考えていた。
どうしたらこの境遇から脱することができるか。
フランスはまだチェーザレ・ボルジアに手を伸ばす気があるだろうか。
スペインは自分をどうしようと考えているのか。
イタリア半島のいずれかの国と手を組む方法はないのか。ヴェネツィアは駄目だが、フランスが付けばミラノは手を組めるだろう。フェラーラやマントヴァも付くだろう。フランスが自分を支持すれば北部から中部に進路を取ることもできる。スペインの風向きが変われば、ナポリから反転攻勢に出ることは可能かもしれないが……。
チェーザレは日がなそのようなことを考えて過ごしていた。外の情報はまったく伝わってこない。
せめて、ミケロットが側にいてくれたら。
チェーザレの思考は堂々巡りを繰り返し、時間ばかりが過ぎていく。
その頃、メディナ・デル・カンポで療養していたイザベラ女王が亡くなった。1504年11月26日のことだった。享年53歳であった。
彼女の跡を二女のファナが継ぐことになる。それがスペインの波乱を呼び、チェーザレの行く末にも混沌を引き起こすことになるのである。
チェーザレは女王の死を知るすべもない。
この頃、彼の世話をするためにムーア人の少女が付くようになった。
まだ幼さが残るように見えるが、17~8歳というところか。ほどよく丸みを帯びた身体はもう大人である。褐色の肌に青い瞳がサファイヤのように輝いている。もう少し生まれるのが早ければ、レコンキスタの前ならば、スルタンの後宮に入れられていたかもしれない。
チェーザレは褐色の肌をした人間を珍しくは思っていない。ムーア人の女性はナポリにもヴェネツィアにもいる。イタリア半島の貴族の間で、ムーア人の女性奴隷を持つというのが流行っていたからである。きっとこの娘も奴隷なのだろう。しかし、チェーザレは想像するしかなかった。
彼女は言葉を発しなかったからである。
そして、チェーザレも言葉を発さない。意思疎通をはかる手段は目だけだった。
チェーザレは娘の美しさには目を見張った。だからこそ警戒していた。なぜ突然、ムーア人の奴隷が世話をするようになったのか。城代が考えたことだろう。ただの世話女か、それとも夜伽をさせようというのか。ドアの外には武装した兵が立っているというのに。いや、そんな好意尽くしの話があるはずはない。油断させて、寝物語に何か話を聞き出そうというのか。それならまだいい。心臓に短刀を突き立てられればそれで終わりだ。ものを喋らないのはなおさら怪しい。暗殺者はたいてい、多くを語らないものだからである。
城代が何を考えているか、決定的な結論を得られなかったのである。
警戒を解くことがなかなかできないチェーザレだった。
グラナダのナスル朝が滅びた後、そこに住んでいた人々の多くはイスラム勢力が支配するアフリカ北部に逃げ落ちていった。しかし捕虜として、のちには奴隷としてスペインに残らざるを得ない者もいた。
レコンキスタはすっぱりと時代と時代を切り離せたわけではない。アンダルシア地方にはイスラムの文化や習慣、そして血が色濃く残っている。イスラム勢力との関わりは800年に及ぶのだから、そう簡単に切れるはずはないのである。イスラム勢力とキリスト教勢力、ふたつは押したり引いたりを波のように繰り返し、文化や習慣を融合させるにいたった。その象徴として有名なのはアルハンブラ宮殿である。それは「融合」の美しい一面であるが、一方で戦乱や宗教・人種に対する差別・迫害が深い底流として横たわっているのである。
チェーザレはまだ知るよしもないが、この娘は混血でモーラという。
彼女は幼い頃のグラナダ陥落の際に両親を殺されていた。それから奴隷として生きてきたのである。その時の影響で口が利けなくなった。その後は貴族の家で下働きをして生きてきた。サファイアのような目も、丸くて愛らしい耳にも特段の問題はない。スペイン語も解することができる。ただ、ぽってりとして愛らしい唇から言葉を発することはなかった。
いささかの緊張はあったものの静かな日々が続いた。
チェーザレは食事が出るたびに毒が盛られているのではないかと疑っていたが、そんなことはなかった。娘は淡々とチェーザレの世話をしている。
彼女のサファイアのような蒼い目をじっと見つめることが増えていった。
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楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
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