16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

通りで疫病と戦う医師

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【本節には16世紀のペストの記述があります。ご了承の上で閲覧をお願いします】

 ここではフランス王妃が宮廷でふと目に留めた本『1553年の暦と占い』の著者の来し方について記しておこう。

 それはフォンテーヌブローにいたラブレーの続きの部分にもなるだろうと思う(第9章45節)。修道士兼著述家のフランソワ・ラブレー、『パンタグリュエル物語』を書いた人である。ギリシア語に長けエラスムスに傾倒する碩学のユマニスト(人文主義者)ともいえるし、破戒僧すれすれのピカレスク(悪童)でもあった。人は一面のみで評価できないものだが、彼の場合は両極端をうまく飼い慣らす術を身につけていたようだ。カトリックから見た異端に鋭く目を光らせている国にあって、王宮と伝手を持つようになったのだから。
 彼が手紙を書いていたのはモンペリエ大学で交誼を持った、いや、酒を飲ませて酔い潰していた後輩だった。その後輩、ミシェル・ノートルダムは手紙を出してもなしのつぶてだったので、ラブレーもそのことをすっかり忘れてしまった。それは仕方のないことだ。ミシェルは手紙を出した場所にはいなかったのだから届くはずがない。

 医師の資格を持つミシェルは、旅とも放浪ともいえない移動をずっと続けていた。妻子を亡くしたのちの足跡を辿ってみれば、カルカッソンヌ、ボルドーに行き、ストラスブールなどのフランスの東端や、さらに越境して神聖ローマ帝国の一部であるザールラントの方まで足を伸ばしたとも考えられる。
 彼は医師なのでどの地域でも引く手あまただった。報酬を十分に支払うことができる豊かさを持つ層の人々は喜んで彼を招いた。たいていは貴族である。そして時には医師の仕事以外の依頼も受けるようになった。平たくいえば占星術による悩み相談である。医師のほうが暇なときは「副業」がずいぶん役に立った。
 どのように占うのかといえば、まず相談者の出生時点のホロスコープを作成する。生まれた時点で太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星などの惑星が黄道十二宮のどこにあったかを書き出していく。そして、それぞれの持つ象意を読み解いて、出生時点、占う時点の星の配置を見ながら相談の中身に答えるのである。多分に相対的な要素が濃いので、誰でも簡単にできるものではなかった。この時代は自身の足下の自転公転が勘定に入っていなかったが、惑星が動いているさまは見ることができたので、周期は観察や書物でも知ることができたのである。

 そのうち、ミシェルはさらに学を究めたいと考えたのだろう。しばらく神聖ローマ帝国領内に滞在することとなった。ルクセンブルグにシトー会オリヴァル修道院というのがあるが、彼はそこに通いオリヴァリウスという人の書いた『オリヴァルの予言書』という蔵書を読み耽っていた。ラテン語で書かれたものだが、ミシェルにとって非常に示唆に富む本だった。
 予言書という内容の本はいくつか目にしたことがある。スイスのパラケルススという医師(錬金術師ともいわれる)が著した『予測の書』というのも目にしたことがある。ただそれらは天体の運行に寄せた科学の本としてのもので、予言という言葉の持つ神秘性に欠けていた。もっとも、教会から異端だと言われないように配慮した内容だったともいえる。それと比して、『オリヴァルの予言書』は四行詩の体裁であり、内容も幻想的・抽象的で隠喩に満ちみちていた。ミシェルは夢中になってその本を読み耽り書写し、暗誦できるほど繰り返し口ずさんだ。
 昂じて、自身も同様に四行詩でものを書き起こすに至った。
 何かの啓示があったかは分からない。啓示というのは本人にしか現れないものである。
 ただ、ルクセンブルグの滞在がミシェルの今後に決定的な影響を与えたと言えるかもしれない。

 彼が旅であるとか放浪の類いを続けるのはそのような理由が一番だったが、人類共通のしぶとい敵がまだところどころで顔を出していたことも忘れてはならない。彼の旅のいくつかはその敵と戦うためでもあった。
 ペストである。
 この恐ろしい疫病が最も大流行したのは十四世紀だったが、根絶することなく、十六世紀になっても散発的に小規模な流行を繰り返していた。それは十八世紀まで続きヨーロッパの人口の三分の一が亡くなったと言われている。

 思えば、ミシェルとペストは腐れ縁の付き合いだった。
 初めに入学したアヴィニョン大学がペストの流行で閉学となりミシェルはモンペリエに入り直さざるを得なかった。そして、自身が不在の間に妻子をペストで失ってしまった。ミシェルは医師として何度もペストの現場に出向き、診察や治療をしてきた。そして自身が罹ることなく生き延びてきた。それなのに妻子が自分のいない間にあっけなく倒れてしまった。家族なのに、何の手も施せなかった。
 彼は徹底的に打ちのめされ後の人生は大きく曲がってしまった。四十を越えても放浪するばかりになったのは、結局ペストのせいだったかもしれない。

 それはまだ続く。
 一五四四年、ルクセンブルグにいたミシェルはペストが発生したマルセイユに向かう。そこではルイ・セールという医師が陣頭指揮を取って患者の治療にあたっていた。ミシェルは合流し医師団の一員として現場で治療や隔離など必要な作業に携わった。
 ラブレーが手紙を出したのはこの頃である。宛先にいないのは当然で、運良く手紙を見たとしても返事は出せなかっただろう。
 マルセイユのペスト流行が一段落した後、一五四六年、今度はエクサン・プロヴァンスでペストの流行が始まった。マルセイユより状況はひどく、手のつけようがないほどだった。本人がそれを書いている。

〈ペストの流行は五月の末から始まって丸九ヵ月続いた。老いも若きも、食べながら、また飲みながら、今までと比較にならないほどに死んでいった。墓地がいっぱいになったので、もう人を埋葬する聖なる場所は残っていなかった。……多くの者が二日目には狂乱状態に陥った。狂乱の発作を起こす者には斑点が見られず、斑点が現れた者はすぐに死んだ。……死んだ後には例外なく黒い斑点で覆われていた。感染が激しく、悪性なので、患者に五歩のところまで近づいた者はやられた。体の前にも後ろにも癰(よう)ができた者もいて、六日ともたなかった。刺絡や強心剤は効果がなかった。町中を回って患者をすべて市外に隔離しても、次の日にはもう前より多くの患者が出ていた。……死ぬのがあまりにも早かったので親も子供のことを構わなくなった。斑点が出ると自分で井戸に飛び込んだり窓から身を投げる者もいた。肩の後ろと胸に癰ができた者は鼻から出血して、死ぬまで止まらなかった。金や銀を手にしながら一杯の水が飲めずに死ぬ者もいた。……感嘆すべき光景も見られた。私を窓から呼び止めたある女は自分で自分の屍衣を足の方から縫って体にまとっていた。私は埋葬人を連れてきて家に入ったが、女は自分で半分縫い閉じた屍衣を着たまま家の真ん中で死んでいた〉
(ミシェル・ノストラダムス『化粧品とジャム論』所収の『ペスト治療法』より※)

 彼が後に刊行する著書にはペストの薬の処方も書かれているが、それが特効薬になったかどうかは定かでない。ただ、十四世紀以降の経験の積み重ねがあるので、患者の症状の見分け方に始まり、消毒方法、患者の隔離方法、埋葬の方法などは分かっていただろう。それを日々徹底することで患者は減っていった。
 ミシェルの奮闘は称えられた。
 エクサン・プロヴァンスでは彼に謝意を表して終身年金を授与した。そして、サロン・ド・プロヴァンス、続いてリヨンにも招かれた。ペストの対処法について指南するためである。当時、医師になれる人が限られていて、村に必ずいる存在ではなかった。ましてや、ペストへの対応ができる医師はさらに少なかった。
 対処法を知っていれば急な事態に備えられる。
 ミシェルも喜んで協力することとした。

 ちなみに、マルセイユからエクサン・プロヴァンスは約三三kmの距離、エクサン・プロヴァンスからサロン・ド・プロヴァンスまでは約四〇kmの距離である。そして、サロン・ド・プロヴァンスから三四kmの所にはミシェルの故郷サン・レミ・ド・プロヴァンスがある。
 ごくごく簡単にいえば、彼は出身のプロヴァンスで一躍名士となったのだ。

 さて、彼が本を書くようになるのはもう少し後なので続きはまたにするが、ひとつだけ補足しておきたい。
 ペストの治療に赴くのはたとえ医師であれ何であれ、進んで行きたいとは思わないものだ。罹ったら高確率で、一週間ほどで死ぬのだ。その危険の割に医師は高い報酬を受けるわけではない。無報酬ということはないし、後でなにがしか大きな身入りはあるかもしれないが。原動力は「ペストと戦い一人でも多くの人を救う」という意思であり、自分の責任で行うものである。ボランティアという言葉の語源はラテン語の『Voluntus』で、「自発的に喜んで行う」ことを指すが、この場合はその通りである。
 
 そして、エクサン・プロヴァンスの苦闘が、ミシェルの運命の輪を再びくるりと回したのである。

※出典『ノストラダムスの生涯』竹下節子(朝日新聞社)
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