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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア
反逆 チェーザレの来た道7 1502年 イーモラ
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<チェーザレ・ボルジア、ニッコロ・マキアヴェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ドロテア、ヴィテロッツォ・ヴィテッリら傭兵隊長、ベンティヴォーリオ、ウルビーノ公グイドバルド、ドン・ミケロットら側近>
1502年秋、フランス王ルイ12世との会談をとりあえず、つつがなく終えたチェーザレである。レオナルド・ダ・ヴィンチはイーモラで新しい首都の設計図を作ることに没頭している。
イーモラに滞在するチェーザレのもとに早馬の使者がやって来たのは10月6日のことだった。
チェーザレ軍の傭兵隊長らが反旗を翻した。
その内容だけ伝えると使者はこと切れた。
チェーザレは胸にズンと重く響く衝撃と怒りを腹で受け止めながら、しばらく黙りこんだ。しかし、すぐさま反乱勢力と自軍の現有兵力を頭に描きはじめた。
ほどなくフィレンツェからニッコロ・マキアヴェッリが息せき切って駆けつけてきた。反乱の報を掴んでフィレンツェの、今度は主席大使としてやってきたのだ。反乱が燎原の火のごとく広がれば、フィレンツェも無傷ではいられないからである。
反乱が起こった時点でここはすでに戦場の最前線である。書記官マキアヴェッリでなければ、わざわざ寄越さなかっただろうし、あるいは来なかっただろう。
これが、のちにマッジョーネの乱と呼ばれることになる。マッジョーネの地で9月末に蜂起が決められたことによる。
首謀者はチェーザレ軍の精鋭、傭兵隊長のヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ロマーニャの領主からチェーザレに付いたオルシーニ一族のパオロならびにグラヴィーナ公、フェルモの領主オリヴェロット・ダ・フェルモ、ペルージャの領主ジャンパオロ・バリオーニ、シエナ領主の名代バンドルフォ・ダ・ヴェナフロ、ボローニャの領主名代のエルメス・ベンティヴォーリオ、そしてウルビーノ公グイドバルドの甥オッタヴィアーノ・フレゴーゾ、カメリーノの生き残りジャンマリーア・ダ・ヴァラーノである。
それぞれ領地を持っているチェーザレの傭兵隊長である。それに加えて攻略されたか、あるいは攻略されそうな地の領主たちが、バッティスタ・オルシーニ枢機卿の城に会合を持ち、チェーザレに反旗を翻したのだ。主導はオルシーニ、ヴィテロッツォ、オリヴェロット、バリオーニら傭兵隊長である。その総勢は一万にのぼる。
彼らは早速行動に移る。10月7日にはウルビーノ、11日にはカーリを陥落させる。チェーザレ側の兵は逃げ出さざるを得なかった。
対するチェーザレはどうだろうか。イーモラの城塞にいる兵力は自身の親衛隊ら600人しかいない。ドン・ミケロットをはじめ、レミーロ・デ・ロルカ、ウーゴ・モンカーダらスペイン人の腹心、側近も部隊を指揮して別の場所にいる。彼らに即時集結を呼び掛け、反乱部隊がどのように攻めてくるのか、自身がどう動くべきか、チェーザレは考えた。
しかし戦いは先手を打った方が有利である。15日に両軍はカルマッツオで激突する。そこでウーゴ・モンカーダはオルシーニ勢に捕えられ、ミケロットは負傷してしまう。かろうじてレミーロ・デ・ロルカだけが逃げ出すことに成功した。
この戦いでチェーザレの側近率いる軍勢は敗北する。
傭兵が反乱を起こした理由はいくつか考えられる。チェーザレの凄まじい行軍に恐れをなした周辺地域の領主が働きかけたであろうし、チェーザレの真の狙いが分からない傭兵隊長が自身の身の保証があるのか危ぶんだこともあるだろう。
しかし、その根底には、チェーザレひいてはボルジア家への根本的な、「不信」があったように思う。
権力者への妬み、嫉み(そねみ)に加えて、ボルジアはイタリア半島の人間ではないというのが、一同の根底にあったのではないか。いや、それがチェーザレについて回る、最も大きな障害だったのではないか。
これをチェーザレに言うと怒られるかもしれない。彼は生粋の、「ローマの子」である。ただ、回りはそうは思っていない。
フランスと教皇庁の威を借りた「スペイン人」である。
チェーザレはイーモラで孤立状態になった。
誰もが劣勢だと感じ始める中で、イーモラに迫る反乱軍を前に、チェーザレは冷静に次の手を打つ。
イーモラにはレオナルド・ダ・ヴィンチが滞在している。彼はこの危険な情勢の中でもイーモラを出なかった。雇い主が敗れることはないと考えただろうし、この都市計画事業に心底情熱を傾けていたのだろう。粛々と作業に取り組んでいる。愛人のドロテアも、フィレンツェの特使マキアヴェッリもいる。
兵力がほぼない状態のチェーザレだったが、全く兵力にならないこの3人がいることは心強いことだったに違いない。危機を共にしながら癒してくれる人間、理想を共有する人間、自身を理解しようとする人間である。
どこの出身かということは全くの埓外である。
マキアヴェッリはここでチェーザレのやり方を逐一間近で見ることになる。「見る」ことが中心だった。チェーザレはマキアヴェッリにペラペラと情勢や作戦を語ることはない。時には何時間も会談を持つこともあった。趣旨のはっきりした言葉だが、終わってみると核心には触れておらず、はぐらかされたようになる――そうマキアヴェッリは述懐している。会談というよりは談義に近いものだったかもしれない。マキアヴェッリが唯一、チェーザレの状況や心情をひっくるめて要約したものとして聞いたのは、以下の言葉だった。
「あらゆることに気を配りながら、私は自分の時が来るのを待っている」
思い返せば、チェーザレは待つことをすでに学んでいた。枢機卿時代はすべてが「待ち」だったのだ。剣を握って以降はひたすら行動してきたが、それも待って、考えた結果なのである。
チェーザレは反乱軍に対抗するための「味方」を迅速に固めた。その筆頭は言わずもがな、父教皇アレクサンデル6世である。チェーザレは「教会軍総司令官」なのだから真っ当なことだった。そして、先日新たに同盟関係を再確認したフランスである。ルイ12世はチェーザレを牽制(けんせい)したいとは思っているが、持ち駒としてまだまだ使えると考えている。チェーザレはまだヴァランス公、彼の臣下なのだ。
チェーザレは、イーモラに迫る反乱軍の気配を背に、この「味方」を最大限に活用する。まずは時間を稼ぐ。待つ。
教会軍総司令官に対する反乱は、すなわち教皇庁に刃を向けることと同じである。
父は息子を救うため、あらゆる手を打っている。枢機卿団を通じて、各国大使を通じて、教会軍への反逆に立ち向かうよう命令を出している。
フランスからは援軍を送ると、すでに連絡を受けている。ミラノを押さえているフランスの意向を受ければ、北の大国ヴェネツィアはまず動かない。フィレンツェはチェーザレの侵攻を怖れてはいるが、反乱軍に蹂躙(じゅうりん)されてはもっと困る。
重ねて言えば、フェラーラにはルクレツィアがおり、マントヴァにはルクレツィアの義姉がいる。さきにマントヴァ公爵の息子とチェーザレの娘ルイーズをすでに婚約させていたこともある。ヴェネツィアが動かなければ、この2国は敵に回らない。
イーモラに籠りながら、チェーザレは秘かに、自身の伝令を次々と出しながら援軍を集め、周辺国の情勢を確認した。彼の力は軍事力だけではない。強大な後ろ盾がいくつもあるのだ。
一方の反乱軍にそこまでの力はなかった。また、ヴィテロッツォなど即時チェーザレを攻めるべきだという主戦派に対して、講和を探るべきだというベンティヴォーリオらの慎重派もおり、一枚岩ではない。少し前にフィレンツェ周辺を荒らしまくった猛将ヴィテロッツォも足並みが揃わなければ動きようがない。
それでも、逃亡したグイドバルドはウルビーノに戻り、カメリーノにも旧領主が復帰していた。
一方のイーモラには続々と援軍が到着しはじめていた。フランスの支配下にあるミラノから1800の槍騎兵が到着し、ロマーニャの部隊も少しずつ入りはじめている。フランスの援軍本隊も動き始めた。チェーザレは彼らを閲兵し、各地に使節を走らせていた。
フランスが援軍を出す、その事実さえあれば事態は変わるとチェーザレは考えていただろう。しかし、このときはまだ誰も総司令官の考えを知る者はいなかった。
マキアヴェッリもフィレンツェに律儀に報告書を書きながら、チェーザレの動きを見守るばかりだった。その数は54通にものぼる。情勢の良し悪しに関わらず、チェーザレが敗れることはないと確信していたのかもしれない。
そして事態は動いた。
かねてから、チェーザレが反乱軍に対する使者としていたオルシーニ一族のロベルトが説得した結果、まずオルシーニが反乱軍の代表として、直接講和のためチェーザレに面会したいと申し出てきたのである。ロベルトはオルシーニ一族の中で唯一、反乱勃発時にチェーザレの側にいたのである。
この流れに反乱軍の穏健派も乗った。チェーザレと会談を個々に持ちたいと申し出てきたのである。
10月25日、チェーザレはイーモラの城門の内側に立っている。
そこにパオロ・オルシーニがためらいがちに入ってきた。失敗をしたなどというものではない。反旗を翻したのである。チェーザレがどのような反応をするのか、落ち着かないのも無理はない。
チェーザレは両手を広げて彼を迎え入れた。にこやかに笑みを浮かべて。
子供を迎える母親のように。
パオロ・オルシーニは思わず膝まづいていた。ここに来るまでは、対等な立場の代表として、毅然と自身らの要求を交渉のテーブルに乗せようとしていたのだが、チェーザレの「寛容」な態度に屈してしまったのだ。
加えて、チェーザレは足を運んできた代表者に贈り物まで用意していた。
チェーザレの方が上手であった。
3日後の11月28日、チェーザレがあらかじめ用意していたと思われる講和のための条文がオルシーニに示された。
一、オルシーニ家の二人の枢機卿はその罪を許され、名誉、所有地、財産は永久に保証される。
二、ウルビーノ公、反乱を起こした旧臣たちは罰せられず、ウルビーノ公はどこでも自由に住む権利が与えられる。
三、チェーザレ旧配下の傭兵隊長も許され、以前と同じ領地と地位を保証される。チェーザレの下で働き続ける場合には、これまで傭兵料の保証、あるいは値上げも考慮に入れる。もちろんチェーザレの下を去ることも自由である。
四、彼らがこれまで奪ったロマーニャ地域、カメリーノ、ウルビーノはチェーザレに返還する。
五、チェーザレが望んだ場合には、彼らの嫡子を一人、人質に出すこと
パオロ・オルシーニはとにもかくにも、この案をはかるために馳せ戻ることになった。猶予は1ヶ月だったと思われる。
反乱勢に寛大な猶予を与えたように見せかけてはいたが、その実はチェーザレの時間稼ぎだった。
反乱勢からすれば、優勢な立場に立っているにも関わらず、従前の立場を保証することだけがうたわれた内容のこの案は納得がいかないものだっただろう。寛容な表現ではあるが、オルシーニの持ち帰った講和案に主戦派最先鋒のヴィテロッツォはもちろん承服しなかった。しかし、チェーザレ支援軍が着々とイーモラに入ってくる。精神的に追い詰められるのは反乱勢となった。
本当にチェーザレを倒すつもりならば、時を待たずにイーモラに総攻撃を掛けるべきだった。敵を知っているなら、時間を与えてはならなかった。
そうしなかった時点で結果は決まった。
1502年11月27日にパオロ・オルシーニはチェーザレの元にマッジョーネで蜂起を企てた者全員の署名の入った講和文書を持参した。
また、ボローニャのベンティヴォーリオとは個別に文書を交わし、フィレンツェの時と同様、チェーザレを傭兵隊長に任せることなどを約束させた。ルイ12世との取り決めもある。ボローニャはもうチェーザレの手中に半ばおさまったようなものである。
12月、全てが2か月前の状態に戻った。
カメリーノはチェーザレに返還され、グイドバルドは再びウルビーノを出ていった。いや、イーモラには新たな援軍が続々と集結しているのだから、チェーザレからすればよりよい体制が整ったといえる。
寒さが肌身に染みるようになった。
12月初旬、イーモラのチェーザレはひとりで部屋に閉じ籠ることが増えた。フィレンツェとの交渉再開をはかろうとするマキアヴェッリにも会おうとはしなかった。レオナレルド・ダ・ヴィンチは変わらずに作業を進めていたし、ドロテアは寝室でチェーザレのために身繕いを整えていた。
チェーザレは考えていた。これまでのことをじっくりと振り返りながら、自身の採るべき方法を。
1502年秋、フランス王ルイ12世との会談をとりあえず、つつがなく終えたチェーザレである。レオナルド・ダ・ヴィンチはイーモラで新しい首都の設計図を作ることに没頭している。
イーモラに滞在するチェーザレのもとに早馬の使者がやって来たのは10月6日のことだった。
チェーザレ軍の傭兵隊長らが反旗を翻した。
その内容だけ伝えると使者はこと切れた。
チェーザレは胸にズンと重く響く衝撃と怒りを腹で受け止めながら、しばらく黙りこんだ。しかし、すぐさま反乱勢力と自軍の現有兵力を頭に描きはじめた。
ほどなくフィレンツェからニッコロ・マキアヴェッリが息せき切って駆けつけてきた。反乱の報を掴んでフィレンツェの、今度は主席大使としてやってきたのだ。反乱が燎原の火のごとく広がれば、フィレンツェも無傷ではいられないからである。
反乱が起こった時点でここはすでに戦場の最前線である。書記官マキアヴェッリでなければ、わざわざ寄越さなかっただろうし、あるいは来なかっただろう。
これが、のちにマッジョーネの乱と呼ばれることになる。マッジョーネの地で9月末に蜂起が決められたことによる。
首謀者はチェーザレ軍の精鋭、傭兵隊長のヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ロマーニャの領主からチェーザレに付いたオルシーニ一族のパオロならびにグラヴィーナ公、フェルモの領主オリヴェロット・ダ・フェルモ、ペルージャの領主ジャンパオロ・バリオーニ、シエナ領主の名代バンドルフォ・ダ・ヴェナフロ、ボローニャの領主名代のエルメス・ベンティヴォーリオ、そしてウルビーノ公グイドバルドの甥オッタヴィアーノ・フレゴーゾ、カメリーノの生き残りジャンマリーア・ダ・ヴァラーノである。
それぞれ領地を持っているチェーザレの傭兵隊長である。それに加えて攻略されたか、あるいは攻略されそうな地の領主たちが、バッティスタ・オルシーニ枢機卿の城に会合を持ち、チェーザレに反旗を翻したのだ。主導はオルシーニ、ヴィテロッツォ、オリヴェロット、バリオーニら傭兵隊長である。その総勢は一万にのぼる。
彼らは早速行動に移る。10月7日にはウルビーノ、11日にはカーリを陥落させる。チェーザレ側の兵は逃げ出さざるを得なかった。
対するチェーザレはどうだろうか。イーモラの城塞にいる兵力は自身の親衛隊ら600人しかいない。ドン・ミケロットをはじめ、レミーロ・デ・ロルカ、ウーゴ・モンカーダらスペイン人の腹心、側近も部隊を指揮して別の場所にいる。彼らに即時集結を呼び掛け、反乱部隊がどのように攻めてくるのか、自身がどう動くべきか、チェーザレは考えた。
しかし戦いは先手を打った方が有利である。15日に両軍はカルマッツオで激突する。そこでウーゴ・モンカーダはオルシーニ勢に捕えられ、ミケロットは負傷してしまう。かろうじてレミーロ・デ・ロルカだけが逃げ出すことに成功した。
この戦いでチェーザレの側近率いる軍勢は敗北する。
傭兵が反乱を起こした理由はいくつか考えられる。チェーザレの凄まじい行軍に恐れをなした周辺地域の領主が働きかけたであろうし、チェーザレの真の狙いが分からない傭兵隊長が自身の身の保証があるのか危ぶんだこともあるだろう。
しかし、その根底には、チェーザレひいてはボルジア家への根本的な、「不信」があったように思う。
権力者への妬み、嫉み(そねみ)に加えて、ボルジアはイタリア半島の人間ではないというのが、一同の根底にあったのではないか。いや、それがチェーザレについて回る、最も大きな障害だったのではないか。
これをチェーザレに言うと怒られるかもしれない。彼は生粋の、「ローマの子」である。ただ、回りはそうは思っていない。
フランスと教皇庁の威を借りた「スペイン人」である。
チェーザレはイーモラで孤立状態になった。
誰もが劣勢だと感じ始める中で、イーモラに迫る反乱軍を前に、チェーザレは冷静に次の手を打つ。
イーモラにはレオナルド・ダ・ヴィンチが滞在している。彼はこの危険な情勢の中でもイーモラを出なかった。雇い主が敗れることはないと考えただろうし、この都市計画事業に心底情熱を傾けていたのだろう。粛々と作業に取り組んでいる。愛人のドロテアも、フィレンツェの特使マキアヴェッリもいる。
兵力がほぼない状態のチェーザレだったが、全く兵力にならないこの3人がいることは心強いことだったに違いない。危機を共にしながら癒してくれる人間、理想を共有する人間、自身を理解しようとする人間である。
どこの出身かということは全くの埓外である。
マキアヴェッリはここでチェーザレのやり方を逐一間近で見ることになる。「見る」ことが中心だった。チェーザレはマキアヴェッリにペラペラと情勢や作戦を語ることはない。時には何時間も会談を持つこともあった。趣旨のはっきりした言葉だが、終わってみると核心には触れておらず、はぐらかされたようになる――そうマキアヴェッリは述懐している。会談というよりは談義に近いものだったかもしれない。マキアヴェッリが唯一、チェーザレの状況や心情をひっくるめて要約したものとして聞いたのは、以下の言葉だった。
「あらゆることに気を配りながら、私は自分の時が来るのを待っている」
思い返せば、チェーザレは待つことをすでに学んでいた。枢機卿時代はすべてが「待ち」だったのだ。剣を握って以降はひたすら行動してきたが、それも待って、考えた結果なのである。
チェーザレは反乱軍に対抗するための「味方」を迅速に固めた。その筆頭は言わずもがな、父教皇アレクサンデル6世である。チェーザレは「教会軍総司令官」なのだから真っ当なことだった。そして、先日新たに同盟関係を再確認したフランスである。ルイ12世はチェーザレを牽制(けんせい)したいとは思っているが、持ち駒としてまだまだ使えると考えている。チェーザレはまだヴァランス公、彼の臣下なのだ。
チェーザレは、イーモラに迫る反乱軍の気配を背に、この「味方」を最大限に活用する。まずは時間を稼ぐ。待つ。
教会軍総司令官に対する反乱は、すなわち教皇庁に刃を向けることと同じである。
父は息子を救うため、あらゆる手を打っている。枢機卿団を通じて、各国大使を通じて、教会軍への反逆に立ち向かうよう命令を出している。
フランスからは援軍を送ると、すでに連絡を受けている。ミラノを押さえているフランスの意向を受ければ、北の大国ヴェネツィアはまず動かない。フィレンツェはチェーザレの侵攻を怖れてはいるが、反乱軍に蹂躙(じゅうりん)されてはもっと困る。
重ねて言えば、フェラーラにはルクレツィアがおり、マントヴァにはルクレツィアの義姉がいる。さきにマントヴァ公爵の息子とチェーザレの娘ルイーズをすでに婚約させていたこともある。ヴェネツィアが動かなければ、この2国は敵に回らない。
イーモラに籠りながら、チェーザレは秘かに、自身の伝令を次々と出しながら援軍を集め、周辺国の情勢を確認した。彼の力は軍事力だけではない。強大な後ろ盾がいくつもあるのだ。
一方の反乱軍にそこまでの力はなかった。また、ヴィテロッツォなど即時チェーザレを攻めるべきだという主戦派に対して、講和を探るべきだというベンティヴォーリオらの慎重派もおり、一枚岩ではない。少し前にフィレンツェ周辺を荒らしまくった猛将ヴィテロッツォも足並みが揃わなければ動きようがない。
それでも、逃亡したグイドバルドはウルビーノに戻り、カメリーノにも旧領主が復帰していた。
一方のイーモラには続々と援軍が到着しはじめていた。フランスの支配下にあるミラノから1800の槍騎兵が到着し、ロマーニャの部隊も少しずつ入りはじめている。フランスの援軍本隊も動き始めた。チェーザレは彼らを閲兵し、各地に使節を走らせていた。
フランスが援軍を出す、その事実さえあれば事態は変わるとチェーザレは考えていただろう。しかし、このときはまだ誰も総司令官の考えを知る者はいなかった。
マキアヴェッリもフィレンツェに律儀に報告書を書きながら、チェーザレの動きを見守るばかりだった。その数は54通にものぼる。情勢の良し悪しに関わらず、チェーザレが敗れることはないと確信していたのかもしれない。
そして事態は動いた。
かねてから、チェーザレが反乱軍に対する使者としていたオルシーニ一族のロベルトが説得した結果、まずオルシーニが反乱軍の代表として、直接講和のためチェーザレに面会したいと申し出てきたのである。ロベルトはオルシーニ一族の中で唯一、反乱勃発時にチェーザレの側にいたのである。
この流れに反乱軍の穏健派も乗った。チェーザレと会談を個々に持ちたいと申し出てきたのである。
10月25日、チェーザレはイーモラの城門の内側に立っている。
そこにパオロ・オルシーニがためらいがちに入ってきた。失敗をしたなどというものではない。反旗を翻したのである。チェーザレがどのような反応をするのか、落ち着かないのも無理はない。
チェーザレは両手を広げて彼を迎え入れた。にこやかに笑みを浮かべて。
子供を迎える母親のように。
パオロ・オルシーニは思わず膝まづいていた。ここに来るまでは、対等な立場の代表として、毅然と自身らの要求を交渉のテーブルに乗せようとしていたのだが、チェーザレの「寛容」な態度に屈してしまったのだ。
加えて、チェーザレは足を運んできた代表者に贈り物まで用意していた。
チェーザレの方が上手であった。
3日後の11月28日、チェーザレがあらかじめ用意していたと思われる講和のための条文がオルシーニに示された。
一、オルシーニ家の二人の枢機卿はその罪を許され、名誉、所有地、財産は永久に保証される。
二、ウルビーノ公、反乱を起こした旧臣たちは罰せられず、ウルビーノ公はどこでも自由に住む権利が与えられる。
三、チェーザレ旧配下の傭兵隊長も許され、以前と同じ領地と地位を保証される。チェーザレの下で働き続ける場合には、これまで傭兵料の保証、あるいは値上げも考慮に入れる。もちろんチェーザレの下を去ることも自由である。
四、彼らがこれまで奪ったロマーニャ地域、カメリーノ、ウルビーノはチェーザレに返還する。
五、チェーザレが望んだ場合には、彼らの嫡子を一人、人質に出すこと
パオロ・オルシーニはとにもかくにも、この案をはかるために馳せ戻ることになった。猶予は1ヶ月だったと思われる。
反乱勢に寛大な猶予を与えたように見せかけてはいたが、その実はチェーザレの時間稼ぎだった。
反乱勢からすれば、優勢な立場に立っているにも関わらず、従前の立場を保証することだけがうたわれた内容のこの案は納得がいかないものだっただろう。寛容な表現ではあるが、オルシーニの持ち帰った講和案に主戦派最先鋒のヴィテロッツォはもちろん承服しなかった。しかし、チェーザレ支援軍が着々とイーモラに入ってくる。精神的に追い詰められるのは反乱勢となった。
本当にチェーザレを倒すつもりならば、時を待たずにイーモラに総攻撃を掛けるべきだった。敵を知っているなら、時間を与えてはならなかった。
そうしなかった時点で結果は決まった。
1502年11月27日にパオロ・オルシーニはチェーザレの元にマッジョーネで蜂起を企てた者全員の署名の入った講和文書を持参した。
また、ボローニャのベンティヴォーリオとは個別に文書を交わし、フィレンツェの時と同様、チェーザレを傭兵隊長に任せることなどを約束させた。ルイ12世との取り決めもある。ボローニャはもうチェーザレの手中に半ばおさまったようなものである。
12月、全てが2か月前の状態に戻った。
カメリーノはチェーザレに返還され、グイドバルドは再びウルビーノを出ていった。いや、イーモラには新たな援軍が続々と集結しているのだから、チェーザレからすればよりよい体制が整ったといえる。
寒さが肌身に染みるようになった。
12月初旬、イーモラのチェーザレはひとりで部屋に閉じ籠ることが増えた。フィレンツェとの交渉再開をはかろうとするマキアヴェッリにも会おうとはしなかった。レオナレルド・ダ・ヴィンチは変わらずに作業を進めていたし、ドロテアは寝室でチェーザレのために身繕いを整えていた。
チェーザレは考えていた。これまでのことをじっくりと振り返りながら、自身の採るべき方法を。
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