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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア
フランスの侵攻 チェーザレの来た道2 1494年~ ローマ
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<チェーザレ・ボルジア、アレクサンデル6世、フランス王シャルル8世>
シャルル8世はフランスのグルノーブルに軍を招集し、ヨーロッパ各国に親書を出した。
「ナポリ王国征服の目的は、異教徒の下にある聖地イェルサレムを奪還するための十字軍遠征の基地とするためである」
聖なる戦いである、というわけである。
その文言をそのまま受け取る者はまずいなかった。この頃フィレンツェを席巻していた修道僧サヴォナローラの一派を除いては。
彼はカトリック教会の腐敗、メディチ家支配の欠陥をフィレンツェの街頭で強く訴え、多くの民衆の支持を得た。しだいに彼は反乱の指導者のようになりメディチ家を追い詰めるほどの力を持つようになる。サヴォナローラの訴えとシャルル8世の文言は、中身はともかく、表面上はぴったりと合致したのである。
このようなフィレンツェの弱体化とミラノの影響力によって、イタリア北部はフランスを容認する形となり、進軍の門は大きく開かれた。
<1494年>
8月23日 シャルル8世グルノーブル出発
9月 3日 サヴォイア公国領に入る
9月 5日 トリノに入城
9月18日 オスティア城にフランス国旗が掲げられる。ナポリへの道が遮断される
9月末 アスティに入城、ローヴェレ枢機卿が交渉役となるためシャルルに合流
10月14日 パヴィアに入城
10月18日 ビアチェンツァに入城、教皇の特使と会見、ナポリ侵攻について翻意するよう教皇側が求めるが決裂
11月9日 シャルル8世ピサに入城、サヴォナローラと会見する
11月17日 フィレンツェに入城、民衆の歓迎を受ける
11月22日 シャルル8世、全キリスト教徒にあてた宣言を発する
「ナポリ征服後に十字軍遠征を行う。法王として適当でないボルジアを退位させ新教皇を選出するための宗教会議開催を約束する」
12月2日 シエナに入城
12月10日 ローマ防衛のためのナポリ軍がローマに到着するが5000の歩兵と1100の騎兵と寡勢、迫り来るフランス軍を前にしてローマは非常事態となる
12月17日 フランス軍、チヴィタヴェッキアに入城
12月24日 教皇、フランスに譲歩を申し出るためにナポリ軍を撤退させる。シャルル8世の使節が教皇に決断を迫る。軍勢はローマのほど近くにいたる
12月31日 シャルル8世、ローマに入城する
シャルル8世の進軍の模様を列記した。
ナポリ軍と対峙したほか、この時点でフランス軍はほとんど交戦していないといってよい。
フランス軍は総勢9万、スイス人、ドイツ人などの傭兵が入り混じってはいても、組織化された大軍である。この地域に対抗できるだけの勢力がイタリア半島の諸国にはなかった。逆にフランス軍を歓迎し通過させる諸侯が大半であった。
フランスがローマに進軍してくる一部始終をチェーザレはただ分析していた。
シャルル8世はさしたる抵抗も受けずに、というよりは凱旋するかのようにローマへの道を進んだのだ。
各国諸侯がどのような考えでその道を助けたのか、誰と誰がつながって容易にイタリア半島への侵攻を許したのか、北のミラノ、様子見のヴェネツィア、動揺するばかりのフィレンツェ、半島中部ロマーニャ地方を実質的に支配しているオルシーニの一党、そして自軍だけでは防衛もままならないナポリ。もちろん、強固な軍隊を持たない教皇領も。
それが、10万にも届こうかという大軍に対抗できるはずがない。
これらはチェーザレにとってイタリア半島がいかに危ういバランスの上に立っているのかを思い知らせる絶好の機会だった。
年末、フランスが容易にローマに入城した後、交渉のテーブルでどれほどの譲歩を引き出せるか、それしか生き残る手段は残っていなかった。チェーザレにとっては幸運なことだったのかもしれないが、彼は教皇の特使としてフランス王と同じテーブルにつくことになった。
この交渉は実に危険な綱渡りだった。
教皇庁の要塞であるカスタル・サンタンジェロに砲口が何門も向けられる中、教皇とローマに残った枢機卿らが立て籠もり、籠城戦のようになる場面すらあった。それでも、もう若くないアレクサンデル6世は粘りに粘った。彼は全き善人とはいえないかもしれないが、ローマから逃げることはついぞしなかった。そして、あきらめずにシャルル8世に訴えかけた。
彼は教皇である。表現は悪いが、ローマ・カトリック教会のベテランであった。シャルルもその点には敬意を表さざるを得ない。
歴史上、一国の王が教皇を殺したことはないからである(捕囚したことはある)。
王はこの交渉期間、民衆の支持を保つためにミサに出かけ、ユダヤ人居住区のシナゴーグを焼き討ちした。それはどちらも神の意思に添うものだと思ったらしい。
その間もチェーザレは特使として王の様子をつぶさに見ていた。
1月15日、フランス王と教皇の間に協定が結ばれることになった。前年の長い行軍を考えれば、ローマ入城から1カ月足らずの間にこの地点に至るのは驚異的な早さであると考えてよいだろう。翌日、教皇と王は「神の代理人と敬虔なキリスト教徒」として厳かな空気に包まれ、初対面を果たした。
数日前には大砲を向けていたにもかかわらずである。
この改悛は教皇アレクサンデル6世の政治的配慮による部分が大きい。
このとき、ナポリのアルフォンソ2世は逃亡し、王位を譲られた子のフェランディノも逃亡していた。そのおかげでシャルル8世はナポリを悠々と手中にする目処がたったのである。シャルル8世にとって最高の好機であったが、いろいろ目に見えない魔法が使われたに違いない。
すなわち、教皇庁と引き換えにナポリを与えるよう算段したということである。
しかし、それで終わらないのが現教皇であった。
意趣返しはすぐさま形になって現れた。
シャルル8世がナポリの太陽の下で放埓な生活を楽しんでいるその頃、教皇は神聖同盟軍を編成していた。これにはイタリア半島のすべての国が加わった。この地がひとつにまとまること自体、たいへん珍しいことである。それに加えて、スペインのフェルナンド王に神聖ローマ皇帝も加わって大軍勢を編成することになった。まさに十字軍の体(てい)である。
4月12日、神聖同盟軍が正式に発足した。
驚いたのはシャルル8世である。自らが十字軍の先頭に立つと主張していたのが、ひっくり返されてしまった。今度はフランス王が教皇に釈明する番である。しかし、教皇は逃げの一手で正式な交渉の場を持とうとしなかった。
結果的に6月、フランス軍は全軍を撤退させるにいたるのである。
このフランスのローマ入城はアレクサンデル6世の策略が後半効を奏し、勝利を得るにいたった。このことが教皇と、なによりチェーザレに与えた教訓は計り知れないほど大きかった。ローマを守る軍の脆弱さ、そしてイタリア半島諸国の不安定さである。
この二つのことから導かれる結論は、教皇軍を十分過ぎるほど配置すること、どんな時も受身であってはならないということである。そして、イタリア半島を一枚岩にしていくことの重要性、そしてイタリア半島以外の大国とどのように結びついていくか、ということだろう。
チェーザレはこのあと、フランスに接近していくのだが、それも諸事をつぶさに検討し考えた末の結論だった。
彼はその後、誰の指図も受けず、自身が決めた道をひたすら進むことになる。
フランス軍撤退の後、チェーザレの神経を逆撫でするようなできごとがあった。
フランスがイタリア半島から撤退してしばらく後、教皇はローマの妨げになるものを排除することに着手した。具体的にはローマ北部を実質的に支配している豪族オルシーニの一党の討伐である。そして、教皇は自身の子ホアンをローマに呼び戻した。教会軍総司令官として迎えるためである。
ホアンは亡き長兄ペドロ・ルイスの跡を継いで、ガンディア公としてスペインにいた。その2年ほどの間に、妻マリア・エンリュクスとの間にふたりの子供をもうけている。しかし、ホアンはガンディアの田舎よりも首都マドリッドを好んだ。享楽的な都会の空気がホアンの肌に合っていたのである。したがって、妻と過ごす時間が十分に取れたとは言えなかったようだ。
弟が教会軍総指令官を任される。
フランス侵攻が現実となって一年弱、父の側でつぶさに戦況を把握し特使にまでなっていた自身はこれまでと変わらぬ立場であるのに、スペインで享楽的な生活を送っていた弟が教皇軍の総司令官になる。
チェーザレには納得できなかったかもしれない。
さらに、弟は父の期待に叶うような働きができなかった。弟が指揮を取った軍勢はたびたび敗走したからである。何の苦もなくボルジアの直系としてスペインの貴族になり、さらに今度は教会軍まで任されたのにこの体たらく……というように考えたくなるところではある。しかし、それはあくまでも推測でしかない。
チェーザレが本当はどう思っていたのか、それは霧の中である。
導火線に火がついたのは1497年のことだった。
ボルジア家を悲劇が襲った。
チェーザレのひとつ下の弟、ホアン・ボルジアの死去である。
ホアンの死の顛末についてはフェラーラのルクレツィアの項にも書いたが、ガンディア公ボルジアの本筋を継いだホアンが殺害されたことは、誰よりも父親のアレクサンデル6世を打ちのめした。
捜査が途中で打ち切られたのは、チェーザレ本人が父親に告白したからであろう。
自身が命じて殺害した。
本人が告白しなければ、アレクサンデル6世は信じようとはしなかったに違いない。まさか、と思っても親は最後まで子供を信じたいものである。殺されたのもまた子供なのだから。チェーザレがどんなふうに告白したかは興味深く推測するところだが、どのようにしたとしても父親が心底賛同するはずがない。告白者もそれはよくわかっていただろう。単なる身内の不祥事ではない。殺人なのだ。
この時点で、チェーザレは父から離れるつもりだったかもしれない。
実の弟を殺す、あるいは殺すように命じる。それを実行する前に周到に準備していただろう。それならば破門という与えられうる最大の罰を受けることも覚悟の上、父との縁も切るつもりでいただろう。
それとあわせて、彼はかねてから思っていた自分の野心を大まかにでも父に伝えたはずである。
身内を犠牲にしてでも自身が成し遂げたいことを。
その準備は周到にすすめられた。
1498年7月17日、枢機卿会議が開催された。
そこで、チェーザレ・ボルジア枢機卿は自身の地位を返上し、ヴァレンシア大司教の座も退任する決意を告げたのである。還俗(げんぞく)するということである。
前代未聞の事態だった。
老齢や病気で枢機卿を退任した例はないわけではない。しかしボルジア枢機卿はまだ22歳である。一身上の都合で辞めるなどというのはありえないことだった。さらにありえないことに、枢機卿全員がそれに賛成票を投じたのである。もちろん事前に十分準備がなされたゆえの賛成票であろう。
「私の心は、この緋の衣を身につけていながらも、常に現世だけを見つめて来ました。ただ教皇猊下のご希望だけが、その私を、今まで聖職に引きとめていたのです」
この文言はきれいに表現されているし、簡潔で嘘がない。
父教皇とはこの時点にいたるまで、よく話し合った。弟に手をかけた兄に父親が完全な信頼を寄せていたかはわからない。ただ、チェーザレの進みたい道について、教皇はそれを理解し、自身への忠誠を果たすならば阻まずに支援すると約束した。
父教皇がその後、チェーザレの道を危惧することはあっても阻むことはなかった。アレクサンデル6世は、老獪(ろうかい)で駆け引きに長けた人間であったが、むきだしの部分では子供を愛する一人の父親だった。
こうして、若き枢機卿は学びながら自分の道を決める段階を終えて緋色の衣を脱いだのである。
あとは実行するしかなかった。
■今回の「 」内の文言は引用です。出典「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」塩野七生(新潮文庫)
シャルル8世はフランスのグルノーブルに軍を招集し、ヨーロッパ各国に親書を出した。
「ナポリ王国征服の目的は、異教徒の下にある聖地イェルサレムを奪還するための十字軍遠征の基地とするためである」
聖なる戦いである、というわけである。
その文言をそのまま受け取る者はまずいなかった。この頃フィレンツェを席巻していた修道僧サヴォナローラの一派を除いては。
彼はカトリック教会の腐敗、メディチ家支配の欠陥をフィレンツェの街頭で強く訴え、多くの民衆の支持を得た。しだいに彼は反乱の指導者のようになりメディチ家を追い詰めるほどの力を持つようになる。サヴォナローラの訴えとシャルル8世の文言は、中身はともかく、表面上はぴったりと合致したのである。
このようなフィレンツェの弱体化とミラノの影響力によって、イタリア北部はフランスを容認する形となり、進軍の門は大きく開かれた。
<1494年>
8月23日 シャルル8世グルノーブル出発
9月 3日 サヴォイア公国領に入る
9月 5日 トリノに入城
9月18日 オスティア城にフランス国旗が掲げられる。ナポリへの道が遮断される
9月末 アスティに入城、ローヴェレ枢機卿が交渉役となるためシャルルに合流
10月14日 パヴィアに入城
10月18日 ビアチェンツァに入城、教皇の特使と会見、ナポリ侵攻について翻意するよう教皇側が求めるが決裂
11月9日 シャルル8世ピサに入城、サヴォナローラと会見する
11月17日 フィレンツェに入城、民衆の歓迎を受ける
11月22日 シャルル8世、全キリスト教徒にあてた宣言を発する
「ナポリ征服後に十字軍遠征を行う。法王として適当でないボルジアを退位させ新教皇を選出するための宗教会議開催を約束する」
12月2日 シエナに入城
12月10日 ローマ防衛のためのナポリ軍がローマに到着するが5000の歩兵と1100の騎兵と寡勢、迫り来るフランス軍を前にしてローマは非常事態となる
12月17日 フランス軍、チヴィタヴェッキアに入城
12月24日 教皇、フランスに譲歩を申し出るためにナポリ軍を撤退させる。シャルル8世の使節が教皇に決断を迫る。軍勢はローマのほど近くにいたる
12月31日 シャルル8世、ローマに入城する
シャルル8世の進軍の模様を列記した。
ナポリ軍と対峙したほか、この時点でフランス軍はほとんど交戦していないといってよい。
フランス軍は総勢9万、スイス人、ドイツ人などの傭兵が入り混じってはいても、組織化された大軍である。この地域に対抗できるだけの勢力がイタリア半島の諸国にはなかった。逆にフランス軍を歓迎し通過させる諸侯が大半であった。
フランスがローマに進軍してくる一部始終をチェーザレはただ分析していた。
シャルル8世はさしたる抵抗も受けずに、というよりは凱旋するかのようにローマへの道を進んだのだ。
各国諸侯がどのような考えでその道を助けたのか、誰と誰がつながって容易にイタリア半島への侵攻を許したのか、北のミラノ、様子見のヴェネツィア、動揺するばかりのフィレンツェ、半島中部ロマーニャ地方を実質的に支配しているオルシーニの一党、そして自軍だけでは防衛もままならないナポリ。もちろん、強固な軍隊を持たない教皇領も。
それが、10万にも届こうかという大軍に対抗できるはずがない。
これらはチェーザレにとってイタリア半島がいかに危ういバランスの上に立っているのかを思い知らせる絶好の機会だった。
年末、フランスが容易にローマに入城した後、交渉のテーブルでどれほどの譲歩を引き出せるか、それしか生き残る手段は残っていなかった。チェーザレにとっては幸運なことだったのかもしれないが、彼は教皇の特使としてフランス王と同じテーブルにつくことになった。
この交渉は実に危険な綱渡りだった。
教皇庁の要塞であるカスタル・サンタンジェロに砲口が何門も向けられる中、教皇とローマに残った枢機卿らが立て籠もり、籠城戦のようになる場面すらあった。それでも、もう若くないアレクサンデル6世は粘りに粘った。彼は全き善人とはいえないかもしれないが、ローマから逃げることはついぞしなかった。そして、あきらめずにシャルル8世に訴えかけた。
彼は教皇である。表現は悪いが、ローマ・カトリック教会のベテランであった。シャルルもその点には敬意を表さざるを得ない。
歴史上、一国の王が教皇を殺したことはないからである(捕囚したことはある)。
王はこの交渉期間、民衆の支持を保つためにミサに出かけ、ユダヤ人居住区のシナゴーグを焼き討ちした。それはどちらも神の意思に添うものだと思ったらしい。
その間もチェーザレは特使として王の様子をつぶさに見ていた。
1月15日、フランス王と教皇の間に協定が結ばれることになった。前年の長い行軍を考えれば、ローマ入城から1カ月足らずの間にこの地点に至るのは驚異的な早さであると考えてよいだろう。翌日、教皇と王は「神の代理人と敬虔なキリスト教徒」として厳かな空気に包まれ、初対面を果たした。
数日前には大砲を向けていたにもかかわらずである。
この改悛は教皇アレクサンデル6世の政治的配慮による部分が大きい。
このとき、ナポリのアルフォンソ2世は逃亡し、王位を譲られた子のフェランディノも逃亡していた。そのおかげでシャルル8世はナポリを悠々と手中にする目処がたったのである。シャルル8世にとって最高の好機であったが、いろいろ目に見えない魔法が使われたに違いない。
すなわち、教皇庁と引き換えにナポリを与えるよう算段したということである。
しかし、それで終わらないのが現教皇であった。
意趣返しはすぐさま形になって現れた。
シャルル8世がナポリの太陽の下で放埓な生活を楽しんでいるその頃、教皇は神聖同盟軍を編成していた。これにはイタリア半島のすべての国が加わった。この地がひとつにまとまること自体、たいへん珍しいことである。それに加えて、スペインのフェルナンド王に神聖ローマ皇帝も加わって大軍勢を編成することになった。まさに十字軍の体(てい)である。
4月12日、神聖同盟軍が正式に発足した。
驚いたのはシャルル8世である。自らが十字軍の先頭に立つと主張していたのが、ひっくり返されてしまった。今度はフランス王が教皇に釈明する番である。しかし、教皇は逃げの一手で正式な交渉の場を持とうとしなかった。
結果的に6月、フランス軍は全軍を撤退させるにいたるのである。
このフランスのローマ入城はアレクサンデル6世の策略が後半効を奏し、勝利を得るにいたった。このことが教皇と、なによりチェーザレに与えた教訓は計り知れないほど大きかった。ローマを守る軍の脆弱さ、そしてイタリア半島諸国の不安定さである。
この二つのことから導かれる結論は、教皇軍を十分過ぎるほど配置すること、どんな時も受身であってはならないということである。そして、イタリア半島を一枚岩にしていくことの重要性、そしてイタリア半島以外の大国とどのように結びついていくか、ということだろう。
チェーザレはこのあと、フランスに接近していくのだが、それも諸事をつぶさに検討し考えた末の結論だった。
彼はその後、誰の指図も受けず、自身が決めた道をひたすら進むことになる。
フランス軍撤退の後、チェーザレの神経を逆撫でするようなできごとがあった。
フランスがイタリア半島から撤退してしばらく後、教皇はローマの妨げになるものを排除することに着手した。具体的にはローマ北部を実質的に支配している豪族オルシーニの一党の討伐である。そして、教皇は自身の子ホアンをローマに呼び戻した。教会軍総司令官として迎えるためである。
ホアンは亡き長兄ペドロ・ルイスの跡を継いで、ガンディア公としてスペインにいた。その2年ほどの間に、妻マリア・エンリュクスとの間にふたりの子供をもうけている。しかし、ホアンはガンディアの田舎よりも首都マドリッドを好んだ。享楽的な都会の空気がホアンの肌に合っていたのである。したがって、妻と過ごす時間が十分に取れたとは言えなかったようだ。
弟が教会軍総指令官を任される。
フランス侵攻が現実となって一年弱、父の側でつぶさに戦況を把握し特使にまでなっていた自身はこれまでと変わらぬ立場であるのに、スペインで享楽的な生活を送っていた弟が教皇軍の総司令官になる。
チェーザレには納得できなかったかもしれない。
さらに、弟は父の期待に叶うような働きができなかった。弟が指揮を取った軍勢はたびたび敗走したからである。何の苦もなくボルジアの直系としてスペインの貴族になり、さらに今度は教会軍まで任されたのにこの体たらく……というように考えたくなるところではある。しかし、それはあくまでも推測でしかない。
チェーザレが本当はどう思っていたのか、それは霧の中である。
導火線に火がついたのは1497年のことだった。
ボルジア家を悲劇が襲った。
チェーザレのひとつ下の弟、ホアン・ボルジアの死去である。
ホアンの死の顛末についてはフェラーラのルクレツィアの項にも書いたが、ガンディア公ボルジアの本筋を継いだホアンが殺害されたことは、誰よりも父親のアレクサンデル6世を打ちのめした。
捜査が途中で打ち切られたのは、チェーザレ本人が父親に告白したからであろう。
自身が命じて殺害した。
本人が告白しなければ、アレクサンデル6世は信じようとはしなかったに違いない。まさか、と思っても親は最後まで子供を信じたいものである。殺されたのもまた子供なのだから。チェーザレがどんなふうに告白したかは興味深く推測するところだが、どのようにしたとしても父親が心底賛同するはずがない。告白者もそれはよくわかっていただろう。単なる身内の不祥事ではない。殺人なのだ。
この時点で、チェーザレは父から離れるつもりだったかもしれない。
実の弟を殺す、あるいは殺すように命じる。それを実行する前に周到に準備していただろう。それならば破門という与えられうる最大の罰を受けることも覚悟の上、父との縁も切るつもりでいただろう。
それとあわせて、彼はかねてから思っていた自分の野心を大まかにでも父に伝えたはずである。
身内を犠牲にしてでも自身が成し遂げたいことを。
その準備は周到にすすめられた。
1498年7月17日、枢機卿会議が開催された。
そこで、チェーザレ・ボルジア枢機卿は自身の地位を返上し、ヴァレンシア大司教の座も退任する決意を告げたのである。還俗(げんぞく)するということである。
前代未聞の事態だった。
老齢や病気で枢機卿を退任した例はないわけではない。しかしボルジア枢機卿はまだ22歳である。一身上の都合で辞めるなどというのはありえないことだった。さらにありえないことに、枢機卿全員がそれに賛成票を投じたのである。もちろん事前に十分準備がなされたゆえの賛成票であろう。
「私の心は、この緋の衣を身につけていながらも、常に現世だけを見つめて来ました。ただ教皇猊下のご希望だけが、その私を、今まで聖職に引きとめていたのです」
この文言はきれいに表現されているし、簡潔で嘘がない。
父教皇とはこの時点にいたるまで、よく話し合った。弟に手をかけた兄に父親が完全な信頼を寄せていたかはわからない。ただ、チェーザレの進みたい道について、教皇はそれを理解し、自身への忠誠を果たすならば阻まずに支援すると約束した。
父教皇がその後、チェーザレの道を危惧することはあっても阻むことはなかった。アレクサンデル6世は、老獪(ろうかい)で駆け引きに長けた人間であったが、むきだしの部分では子供を愛する一人の父親だった。
こうして、若き枢機卿は学びながら自分の道を決める段階を終えて緋色の衣を脱いだのである。
あとは実行するしかなかった。
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