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第11章 ふたりのルイスと魔王2

天下布武の思考 1567年 岐阜

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〈織田信長、斎藤龍興、美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就)〉

 永禄十年(1567)の夏までに、信長家臣の丹羽長秀は美濃の斎藤龍興の重臣をあらかた懐柔していた。すなわち、美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄(良道)、氏家卜全(直元)、安藤守就(もりなり)も信長に付くと応じたのだ。
 これは最高の好機だった。
 美濃に狙いを定めてどれぐらい経っただろうかと信長は思う。ずいぶん昔のように思えるが、実際は七年ほど経っただけだ。しかし、人生のうちの七年である。決して短い歳月というのではない。
 稲葉山城。
 急峻な山に築かれ威容を誇る城だ。
 
 それは信長の舅であった斎藤道三の城だった。道三は、かつてうつけ者としか思われていなかった信長の才覚を見抜き、娘の帰蝶を嫁がせたのである。道三は息子の義龍に討たれ、帰蝶はじきに子を産むことなく去ったが、今でも信長は道三への恩義は忘れていない。恩義というと少し硬いだろうか。共感にもとづく信頼とでもいうべきかもしれない。
 それに拠って考えるなら、美濃は信長が手にすべき遺産であった。父親を討った息子も、そのまた息子も父のような才覚を持ち合わせていない。その証拠に、稲葉山城はいったん家臣の竹中半兵衛に奪取されている。それはすぐに斎藤家に戻されたが、家臣の心が離れているのは誰の目から見ても明らかだった。

 このとき、信長は矢の的をどこに定めていたのだろうか。
 三好衆のように将軍を亡きものにして傀儡政治を行うか。それは早晩倒されるだろう。まっとうな手段を取らなければ反目する者は際限なく現れる。
 武士の長である将軍という職ももうかつてのような力を持っていない。そもそもになるが、武士における御恩と奉公という当初の仕組みも、あっという間に知行地が足りなくなって頓挫したのは誰でも知っている。
 これまでの例を踏襲していては駄目なのだ。

 例えば中国(明)のように広大な国ならばいいのだろうか。
 分け与える土地はいくらでもある。いや、策彦(さくげん)師に聞いた話によれば、そもそも中国は役人を置いて土地を統治させている。土地を分け与えてはいないのだ。それは広大だからだろうか。
 権力者の型が違うのだろう。中国において、皇帝という権力は絶対唯一のもので、そこにすべての力が集まる。
 この国では将軍と朝廷の調整が常に必要だが、その天秤も非常に不安定で均衡を保てない。帝(天皇)や将軍が追放されるのも珍しくない。
 この国にはもっと堅固な唯一の権力を持つ者が必要なのだ。ただし、そのような人は徳を持ち民を虐げるようなことがあってはならないと中国の書にも書いてある。皇帝になるよりも難しそうだが。

 今この国がこれほど混乱しているのは、何のためでや。

 この頃の信長の頭にはそのような考えが渦巻いていた。彼に、アレクサンドロス大王におけるアリストテレスのような師はいなかったが、政治学について学ぶ機会は十分にあったようだ。そして自分の目的に到達する手段を念入りに考えはじめたのだ。
 その目的は「天下布武」と称されることになるだろう。

 この年の八月、内応を約束した美濃三人衆がその証に人質を出すと知らせてきた。この連絡が合図のようなものだった。信長は村井貞勝と島田秀満を引き取り役として美濃に送った。そこで稲葉山を攻める段取りも打ち合わせたのだろう。人質を小牧山に入れるやいなや、織田勢は仕度を整え
小牧山城を発った。
 信長勢は稲葉山城の山と連なっている山(瑞龍寺山)に布陣した。その動きは城からもよく確認できたので、龍興は動きを注視し家臣に迎え撃つ態勢を取らせる。山の方に動きはない。それどころか、兵はどんどん減っているように思える。その晩にはさらに減ったので、稲葉山城主はなおさら安堵する。
 しかし、これまで何度も攻めあぐねてここまで来た敵があっさりと引き下がるはずはなかった。
夜陰に乗じて信長は稲葉山城の麓の井口に主力の兵を移し、背後まで兵を置きぐるりと周囲を取り囲んでいた。翌日は朝から風がことのほか強かった。信長は好機とばかり井口に火を放たせる。驚いたのが様子を伺っていた龍興である。敵は退却していくものだと思っていたのだから。しかも、信長勢は城の回りに鹿垣を築いている。
 龍興は一気に打って出ようとしたが、肝心の三人衆とその手勢が消えている。このありさまが完全に仕組まれたものだと気づいたときには、もう遅かった。
 八月十五日、稲葉山城を守っている家臣らが降伏して開場した。城主の龍興は包囲網をこっそり抜け出すのに苦労したようだ。何とか脱出して舟で長良川を下り伊勢長島方面へと脱出し、そこから京へと向かった。

 七年かけて狙いを定めていた城は、あっけなく落ちた。内応を決めた美濃三人衆は信長の家臣に迎えられることになった。
 そして、彼は城を移ることにした。
 もともと小牧山城は美濃攻略の拠点として築いた城である。その目的が成ったのだから、美濃に移るのは自然なことだ。これまでの那古野城、清須城でもいろいろなことがあった。そして小牧山については自身の差配で城下町まで築いたのだ。何の感慨もないといったら嘘になる。小牧には幼い頃の守役・平手政秀の居館があった場所で菩提寺もある。早くに逝ってしまった守役の墓前に報告したいとも思う。

 信長は小牧山城に戻ると、さっそく家中の者を集めて美濃に移る旨を告げる。それは予想できることなので一同あまり驚かなかったが、続く信長の言葉に皆はざわざわとし始めた。
「稲葉山城と城下町の名を新たに岐阜と呼ぶことにする。これからは皆、岐阜城と呼ぶように」
 そういって信長が示した一枚の紙には「岐阜」という文字が黒々と書かれていた。岐阜とは昔、中国・周の文王が八百年の天下泰平の世を築いた故事と諸葛孔明にゆかりのある岐山の「岐」と孔子が生まれた曲阜の「阜」から命名されたという。家臣の前でその講釈をしたかは定かでないが、中国の故事に由来するということだけは皆の意識にはっきりと刻まれたようだ。
 それがただ故事を借りてきただけでなく、それだけのものを目指すという決意表明でもあっただろう。
 今度はゼロから城を築く必要がないので、全員が引っ越しの仕度を始める。長い家臣は頻繁に城が変わるのですっかり慣れている。美濃の岐阜城が主の最後の住まいになるのだろうか。どうもそうはならないのではないか。きっと、大きな区切りが来たら城を変えるのだ。
 大きな区切りだった。
 織田信長は実質的に尾張と美濃の覇者になったのだから。

 彼は自室に置いてある小さな壺に向かって言う。
「安心してくれみゃあ。約束を果たすまでわしがでゃあじに持っておくでよう。これからもわしの道を見守ってくれまい」
 その中には雪沙の遺灰が入っていた。
 
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