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第11章 ふたりのルイスと魔王2
Grazie. Siate felici. 1565年 尾張国
しおりを挟む〈雪沙、チェーザレ・ボルジア、織田信長、市、ルイス・デ・アルメイダ、策彦周良〉
アルメイダが大和国(現在の奈良県)で高山氏に歓待されている頃、尾張の庵では雪沙が寝付いていた。堺で偶々ともに養生していた二人だったが、その後は別々の道を辿っている。
旅の疲れがあったにしても、雪沙の体調は芳しくない。行きの旅を伴にした二人も頻繁に見舞いに訪れるが、言葉は発せられるもののどんどん衰弱していくのが傍目にも明らかだった。世話をする者が付いているし、医師も数日おきに訪れている。誰の見立ても同じだと知るにいたって、信長が自ら見舞いに赴いた。
外は快晴で川沿いの野には花が色とりどりに咲き、木々の緑が一年でいちばん鮮やかな色をして輝いている。つばめがスッと信長の目の前を横切っていく。
信長は馬を木につなぐと、見慣れた庵の小さな門をくぐって扉を開けた。娘が応対して、客を迎え入れる。
「眠っておられる時間が長くなりました。少し前に熱を出されていたのは落ち着いたのですが」
信長は黙ってうなずき、臥せっている老人の脇に進む。
雪沙は眠っている。
信長は胡座をかいて、しばらくその寝顔を見ていた。シワだらけの顔は、苦しそうには見られない。ただ、食事もあまり取らないということで頬はこけていた。
父の最期がふっと思い浮かんだ。病のあとは皆顔が痩せこけてしまい驚いたりもするのだが、雪沙ぐらいの年齢になると、頬の痩せこけたのも辿るべき自然の道だとも思える。
いかに長い、長い旅路だったろうか。
そのようなことを思いながら、雪沙の顔を見ていると、ふっとその目が開いた。
「まだ、生きている」
信長は苦笑した。
「だからここにおるのでや」
「ああ、だいぶ寝ていたようだ。寝ていることが多くなったので、時間の感覚も朧になっている。今は西洋の暦で何年か」
「うーむ、前に聞いたことがあった。数えよう‥‥‥一五六五年か」
「というと、生まれ月は秋だから、私は今満で八九歳ということになるな」
「滅多にない長寿でや」
「そうだ‥‥‥ただ、そろそろだな」
信長はふっとひとつ息を吐いてうつむく。
「何か、望むこと、伝えることはあるか」
単刀直入な質問だが、雪沙は特に動じることもなく天井を見ている。
「望むことは‥‥‥」
「雪沙の故国に知らせを出すか? いかようにすべきか皆目見当がつかぬが」
「そうだな、それは無理だろう。しかし、それを考えてくれるのならば、ひとつお願いしたい」
「何でや」
「私の遺体を荼毘(だび)に伏して、灰をひとりの宣教師に預けてほしい」
「宣教師?」
「ああ、今は京か堺にいるだろう。彼とは堺にいるときずいぶん話をしたので私の素性を知っている。そして、できるものなら、宣教師の誰かがいつかローマに戻るなら、あるいはローマに行く日本人がいるのなら、誰のものとも言わず灰を私の生まれた家に撒いてほしいのだ。
俗なことと笑うかもしれぬが」
信長は真剣な目をしている。
「生も死も、俗なもの。承知つかまつる。して、その宣教師の名は」
「ルイス・デ・アルメイダという。ルイスはかの地ではよくある名なので、アルメイダと覚えてもらうのがよいだろう」
「ああ、以前に聞いた。病人を治療する家を建てた元医師だな。それなら間違えようがない」
「さすが、よく覚えているものだな。さて、そうは言っても彼はポルトガル人なので、私の生家は皆目分かるまい。ローマの近く、スビアーコというところだ。そこでボルジアの屋敷といえば分かるはず」
「すびああこ、そこが雪沙の生まれた場所か」
雪沙はかすかにうなずく。
その会話が終わると、しばらく沈黙が流れる。外の鳥の声、翼をはためかせる音までよく聞こえてくる。春の喧騒はその沈黙を埋めるように絶えず響いている。信長にも雪沙にも言いたいことはいくらでもあった。しかし信長はどう話してよいのか分からず腕を組んで目を閉じ、むっつりとしている。
「初めて会ったとき、まるで自分のうつし身のように感じたのだ」と雪沙がぽつりといった。
信長がふっと顔を上げる。
「私がまだ若く、何でも思うままに叶える力を持っていると信じていた頃の自分だ。ただ、貴殿は方向が定めていないように思えたし、心を閉ざしているようにも見えた。家族のこともあったのだろうが」
信長はただ静かにうなずいている。
「それも自分に通ずるように思えた。かつて、私は弟をひとり手にかけ、妹から二度も夫を取り上げた。家族が私を大切にしていたにも関わらず自分の役割に不満を抱いたからだ。貴殿はそうではなかったが」
「そう、やらなければ、わしは今頃ここにおらんかった」
「‥‥‥それがここに長居した理由か。始めはそうではなかった」
雪沙はゆっくりとたどたどしく、時に沈黙をまじえて話を続けた。
欧州では虜囚か、身を隠してひっそりと生きていくしかない。実際にそうして暮らすうちに、恐ろしい勢いで時は過ぎ去ってしまった。何しろ「チェーザレ・ボルジア」という名はなかなか人の口の端からこぼれ落ちてくれないのだ。
そのうち名前が重荷になって、打ち捨てた。今の自分は雪沙でもあるし、セサル・アスピルクエタでもある。それより他はよほどのことがないと口にしたいと思わない。
16世紀という百年が折り返しになった頃には、世はすでに自分が「生きて」いた頃、いや、次の世代さえも越えようとしていた。メディチ家の教皇が二人出たのも遠い昔になった。ハプスブルグの皇帝カール5世がスペインを領し、カトリックはプロテスタントという大きな抵抗勢力と対峙する。それが「次の世代」といえるが、帝国の拡大を野心なく成し遂げた皇帝も、すでに人生の幕を下ろしてしまった。フランスとイングランドがどうなるのか、スペインとポルトガルがどうなるのか。ローマは? それはもうその場にいない私には分からない。あるいは、現地にいても分からないだろう。
かつて私が抱いた「イタリア半島の統一」の夢を実現するのはさらに難しくなったのだろう。
「わしの今の目あてはそれだ」
と信長が言葉を入れた。
「雪沙は出会った初めの頃、荒廃した京を見た話をしておったがや、自身のおった国土も分裂し他国に切り取られとると。雪沙、そのときははっきりした画ではなかったで、言うてはこんかった。言うてはこんかったが、それは明々白々の道理。この国を統一する。他国のいいようにさせん。いま、わしの根っこにある金科玉条なり」
「『文選(もんぜん)』か」と雪沙が微笑む。
「ああ、今逗留されとる策彦(さくげん)さまにもよう教わっとるでよ。中国の歴史はまことにええ学びの宝庫だぎゃ」
「ああ、最高の師もいるからなおいい」
信長はニヤリと笑みを浮かべたが、その目には涙が浮かんでいた。
「策彦さまを連れてきたのは雪沙だで、それが、策彦さまとともに来て、再訪されたら去っていってしまうんかや。わしゃまことさびしいで。雪沙が若くないのはよう知っとる。しかし、わしのことを、何も言わずともよう分かっとったのは貴殿だで、他にはおらん」
「嬉しいことを言ってくれる。こちらこそ、たいへん世話になった。厚く遇された。これまで四十年近く隠された身で過ごしたのを取り戻すような旅であり、収穫だった。ありがとう」
そこまで言うと、雪沙はひどく疲れたらしくうとうととして寝入ってしまった。もともと、老人に無理のない程度で切り上げるつもりだった信長だったが、意図せず感情を出してしまったことを少し反省した。
信長はそのまま退出し小牧山城に戻ったが、話をどこかで聞きつけた妹の市が、雪沙の側に付き添いたいと申し出てきた。あまり大仰に騒ぐのを信長は避けていたが、この期に及んでは仕方ないと考えた。侍女と警固も付けるようになると伝えると、市は兄の好意に感謝した。
「兄さまにお礼を。私は雪沙さまのこと、ずっとおじいさまのように思っていましたので、お許しいただけなかったらどうしようかと‥‥‥ありがとうございます」
信長は、可憐な少女がいつしか華やかな女性に成長しているのを見て、目をしばたいた。盛りになっている芍薬のような艶やかさだった。
不意に、
「妹の夫を二度も取り上げた」という雪沙のさきほどの言葉が、信長の頭の中で甦った。
市は近江の浅井長政のもとに嫁がせると概ね決めている。時期はまだ具体的になっていないが、市も十分に承知している。すぐに嫁げないのは美濃との決戦を控えていることと、畿内の情勢が安定していないのによる。この婚姻は政略結婚以外の何ものでもないのだが、信長もそれなりに人を見て妹の相手を決めた。彼女が妻として、女性として不幸になるのは望んでいない。
そこではたと雪沙の言葉が自分に向けたものであったことにも信長は気づく。
「二度夫を取り上げた」とはどのようなことだったのだろう。離縁させたか、追放したのか、あるいは‥‥‥敵として殺したのか。どれも状況しだいで起こりうるものだった。
妹を不幸にしてはいけない。
自分の轍を踏んではならない。
信長は、頭を下げて雪沙の庵へ向かう妹をちらりと見て、自室に引き上げた。
雪沙が息を引き取ったという報せは、翌々日に信長にもたらされた。市が付き添ったときにはもうこんこんと眠っていて、目を覚ますことはほとんどなかった。
「一度だけ、うっすら目を開かれましたので、『雪沙さま』と声をかけたのです。そうしますと、もうお目はよく見えないようでしたが、声でわたくしだとお判りくださったのです。お話も、もう口をぱくぱくとさせるだけでしたが、かすかにお声が聞こえました」
「何と?」
「ぐらちえ、しあってふぇりいち(Grazie. Siate felici.)とおっしゃっていました。いち、とはわたくしのことでしょうか」
信長はふっと苦笑した。
「それは西洋の言葉でや、市よ、その言葉はずっと覚えておいてくれまい。最期まで謎かけをされてもうたで」
「ええ、もちろんですわ。その言葉を告げられると、雪沙さまはまたお休みになりました。しばらく寝息が聞こえておりましたのですが、それがふっと止みましたので、わたくし急ぎ人を呼んだのです。そして、もう心の臓も音がしないと改められまして‥‥‥」
信長は市が雪沙の臨終に付いていたのは正しかったように思えた。春の盛りに逝った老人は可憐な花のような妹に、まっさきに会いに行くだろう。さっそく、政秀寺に逗留している策彦周良が呼ばれ、葬儀をすすめるよう話をした。それが済むと策彦は庵に赴き読経を始めた。
読経の声は夜の間じゅう付近に響いていた。
長い長い人生を生ききって、世界の姿を陽にも陰にも見てきた男は、静かに天に還っていった。
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