16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第11章 ふたりのルイスと魔王2

桐の箱のなかに 1565年 堺

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〈ルイス・デ・アルメイダ、小桃、ルイス・フロイス、日比屋了珪〉

 小桃は病人の世話をするうちに、彼の複雑な経歴について興味を持つようになった。医師の資格を得たのに、はるか遠くに向かう船に乗り、それから医師をやめて貿易商になった。ついには貿易商をやめて、宣教師になる。彼、ルイス・デ・アルメイダがさらりと語った経歴は小桃を驚かせるのに十分な内容だったのである。

 小桃は商家の生まれで、父の日比屋了珪は堺の他の商家と同じように貿易も手がけている。この町には毎日、たくさんの人と物が出入りし、たくさんの金子も入ってくる。商家は禁裏や寺社、将軍はじめ高名な武士ともやりとりをし、自由横断的な存在である。もちろん、町の運営が自由放埒だったわけではない。特に有力な豪商が会合衆(えごうしゅう)として、堺の自治を取り仕切る役目をし、さらにそこから大きな納屋(倉庫)を持つ納屋衆(なやしゅう、納屋貸衆とも)が派生した。今井宗久(そうきゅう)や納屋助左衛門、小西隆佐などが有名である。また文化的な面では武野紹鴎(じょうおう)や千利休、津田宗及らが茶の湯を普及させる役割を果たした。
 彼らは武力ではなく、経済という堂々たる力を誇っていたが、この町に自治が許されているのは彼らの「統治」がうまく機能していたことにもよるだろう。

 ポルトガル人は堺を「東洋のヴェネツィア」と評していたが、水の都という意味ではそうかもしれない。ただ、ヴェネツィアも商都ではあるが、堺の場合自治のありようはフィレンツェに近いと思われる。薬業から金融業へ転身しフィレンツェの実効的な支配者とよばれるまでになったメディチ家を筆頭に、職業別組合(アルテ)の代表が議会を構成する。いわゆる市民による共和制である。
 このときはすでに統治の形が変わっているが、それは別の章に譲ろう。(※1)
 イタリア半島の例を出したが、堺の町の様子はこの町に来るポルトガル商人や宣教師によって、詳細に伝えられるようになった。

 小桃は思う。

 お医者様から貿易商にならはるというんもあまり聞かへんし、まだお若いのに貿易商をやめて出家しはるんも不思議やわ。ああ、お坊さまと違う。宣教師になるいうんはどんなものに当てはまるんかな。うちらは異国のお人やいうだけで珍しがって、もっと聞きたいとは思わへんのが常や。せやけど、どの人もここに来るまでにぎょうさん難儀してはるんやと思う。雪沙さまは「もう忘れた」とお茶を濁して逃げはるけど、アルメイダさまが「でうす神」のもとに出家しはったんも……。

 そして、小桃は半死半生の状態で担ぎ込まれてきたアルメイダの姿を思い出す。
あのまま亡くなってしまったら、話を聞くことは永遠に叶わなかった。

 半死半生だった人は半月ほど経ってようやく起き上がれるようになる。しかし、体力も筋力もすっかりなくなってしまったので、少しづつ身体を動かすようになった。部屋の中で寝たまま手足を動かすのから始まって、腰をねじってみるほどのことだったが、衰弱しきっていてそれ以上のことができなかったのである。
 障子がスッと開く。
「アルメイダさま、あまりはなから無理してはあきません」とあるじの日比屋了珪が正座の姿勢で声をかけ、立ち上がって部屋に入る。アルメイダは慌ててあるじと同じ体勢を取ろうとする。
「せやから、ええんですよって、そのまま、そのまま」
「ああ、本当に恐れ入ります。こげん寝付いて世話んなってしもうて……」と言いかけてアルメイダはハッとする。日比屋はそれを聞くと、興味深そうに言う。
「アルメイダさまは根っから商人ですな。いや、今は違いますが。言葉をようわきまえてはる。私どもも京に行くときは言葉をいくらか変えますし、各国のご領主さまでも調子を合わせたりしとるのや。その辺りのさじ加減は肝要、さような意味でございます」
「相手のことをきちんと知りたいという気持ちだけなのです。商いはもうしていませんから」とアルメイダは恐縮したように言う。
「大いに結構、ただここにいてはる間はどうぞお気遣いはなしにしておくれやす。お身体本復のことだけ考えて下さいまし。また、調子がよろしゅうなったら、でうす様じぇず様の教えについてお話しを聞かせて下さいまし。ただなあ……」
 アルメイダは首をかしげて、「ただ?」と聞き返す。
「娘がどうにも、アルメイダさまとお話ししたい言うんですわ。まあ、あまりお疲れにならんぐらいで、お話してやってもらえますやろか」
「はい、ただお世話になっているばかりなのも申し訳ないですので、ぜひおっしゃってください」
 アルメイダが快く応じたことに安堵しつつ、日比屋はパン!と手を打つ。
「そうそう、フロイスさまは無事に京に至り、ヴィレラさまとともにほうぼう回っておられるそうです」
「そうですか、私も早く行かねばならないのですが」とアルメイダはうつむく。
「まあ、そう焦らんと。京の寒さはこちらの比ではございません。よう歩けるようになられたら、堺の町をゆっくり巡って下さいまし、ここにも話を聞きたい人はようさんおりますよって」
「ありがとうございます」
 日比屋の温かい言葉に、アルメイダは心から感謝の言葉を述べた。

 そういえば、堺の町の景色をまったく見ていない……とアルメイダは思う。ほとんど意識のない状態で船から下ろされ、どのように日比屋家のこの部屋まで来たのかもまったく覚えていない。フロイスが京に出発する日にあいさつに来たのも、おぼろげにしか覚えていない。
 彼はゆっくり横になって天井から室内を眺めた。九州にいるときには見られなかったような、白く立派な天井板が眩しい。梁も柱も同じ木材だろうか、美しく据えられている。

 私は見事なほど、何も見ていないのだな。
 見ていたといえば……。

 アルメイダが思い出せるのは日比屋と小桃と使用人のはつと、あとは下の世話をしてくれた男性の使用人ぐらいだった。アルメイダはさらに記憶を振り絞ってみる。粥椀、白湯の吸口、柄杓、飯櫃など見事に食事絡みだった。彼は苦笑して、部屋の隅にある桐の衣装箱を見る。何が入っているのだろうと思いつつ、身体をゆっくり起こす。這うようにしてそこまで進む。これまたゆっくりと座り直し、桐の箱を開けてみる。
 そこにはアルメイダの着ていた黒の僧衣など一式がきれいに洗濯され、きちんと畳まれて入っていた。その上に十字架を珠で繋いだ鎖が置いてあるのを見る。

 アルメイダは座ったまま、十字架の前で目を閉じて祈り始めた。

※1 第8~9章に記述があります。
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