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第11章 ふたりのルイスと魔王2
天国よりも遠いふるさと 1563年 小牧
しおりを挟む〈雪沙、織田信長〉
ところは同じ永禄の頃の尾張小牧に戻る。
陽光は春を越えて、初夏のきらめきを湛えている。冬はいくらか寒かったが、氷柱がほうぼうに下りるような厳しさはなかった。もちろん、氷柱を武器にするようなこともない。
町から外れたところにある雪沙の庵を織田信長が訪問したのは、よく晴れた5月初めのことだった。小牧城を築造した織田信長はなかなかに忙しい。城だけではなく、自身の衆の家も新たな町も引っ張ってきたのだから、それなりの時間がかかるのだ。そのため、雪沙の庵を訪問するのもずいぶん久しぶりだった。だからといって、知らぬ風で放っておいたわけではなく、家中の者にまめに様子伺いをさせていた。
なぜなら、過ぎた冬の間に雪沙は体調を崩していたのだ。「具合が悪い」と他に告げるようなことはなかったが、庵から終日出ないことがめっきり増え、様子伺いの者がおそるおそる戸を開けて覗いてみると臥せっているのが認められた。さっそく医師が差し向けられたが、「相当なお齢です。自然なことでしょう。特段痛みを感じるところもないということですので、その方が奇特に感じます」という見立てだった。小牧城に移らないかという打診もしたが、雪沙は固辞した。
そのようないきさつがあって信長がひとり、出向いてみたのである。
馬を繋いで歩き出すと、見たことのある、いや今や懐かしささえ覚える老人が道端の花を眺めていた。信長は思わずつかつかという調子で、老人のもとへまっしぐらに歩く。ついでに言葉も出た。
「雪沙、外に出て差し障りはないのかや」
その声に老人はふっと振り向く。
「おう、上総どの。春になったら具合もよくなってきたので、少しずつ近隣を歩いている。寝込んでいるうちに、体力もずいぶん落ちたようで、まこと少し、少しだが。これから庵に戻るがともに茶でも喫するか」
信長はうなずいて、老人とともに歩きだした。
どこかの枝で鳥が啼く声が聴こえる。信長は声の主を探してすぐに認める。
「ヒバリか」
雪沙はうなずいて同じように声の主の方を見る。
「うむ。妻と話でもしているのだろう。いつもよりいくらかおしゃべりな様子だ」
「妻か」と信長はふっと笑う。
庵に戻ると雪沙は手際よく湯を沸かし、茶の葉を挽いて粉にしたものを椀に加え湯を注いでかき混ぜた。信長はそれを感心して見ている。
「器用なものだで」
「いや、堺の日比屋了珪(ひびやりょうけい)の屋敷で見たものを真似しているだけだ」と雪沙は答え、信長の許に椀を静かに置く。信長は椀を片手で取ると、喉が乾いていたせいか一気に茶を飲み干したが、すぐに雪沙に向かって大きくうなずいた。
「うみゃあ、こりゃあ絶品だで」
茶を喫しつつ二人は会話を重ねた。もちろん、雪沙の体調を気遣いながらゆっくりした調子で信長は話をする。
ようやく整った小牧山城の普請のこと、尾張の敵対勢力を一掃できそうな情勢だということ、美濃の斎藤義龍との決戦をじきに迎えること、近江の六角氏に続いて浅井(あざい)氏と同盟を組む手はずを整えていること、その向こうにある大和国(奈良県)、そして畿内に勢力を伸ばしている摂津の三好長慶とも対峙することになるーーなど信長の今後の戦略も含めての話だった。端的に話をする人だが、これだけの内容である。一刻は優にかかった。
「お市さまはどちらに嫁がせる? 」と雪沙は不意に信長に尋ねる。
「ああ、今思案しとる。近江の浅井に尋ねているが、まだまとまっとらんで」
「そうか……できるだけお市さまの意に添うようにしてやってほしい。まことに思いやりのある女性だ。貴殿は兄なのでよく分かっているだろう」
「ああ、分かっとるで。いっそ、ずっと側にいてもらってもいいが……」と信長は顎を撫でる。
「私も……堺だけでなく長い旅をしようか」
雪沙の言葉に信長は目を丸くした。そのようなことは体調を崩す前によく言っていたが、周囲の人はもう無理だろうと考えていた。それはそうだろう。彼は満で88歳になろうとしている。この時代にそこまで生をまっとうするというのは稀有なことだった。中には80、90、100まで生きる人もわずかにいるが平均寿命は50から60歳ぐらいだったのではないかと思われる。
「ローマに戻るか」と信長はつぶやく。
雪沙はかかかと笑う。
「そこは私には天国よりずっと遠い。薩摩の武士の子であるベルナルドがローマに着いたという報を聞いたときは、身体が震えるほど感動した。ベルナルドが私の代わりに行ってくれたとさえ思える。そして彼はコインブラで亡くなった。私が長い間身を偽って隠れ住んでいたところだ。時と人の綾と言おうか、何とも不思議なものだと思う」
そこからしばらく、雪沙は自分が行きたいと望んだ場所について淡々と語った。ポルトガルの有名な聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラに行きたいと強く望み、その近隣にも暮らしたが隠れ住んでいたために行くことができなかった。
その聖地を目指す人は『星の巡礼』と呼ばれたことも。
「ローマはカトリックの中心地で聖地でもある。そこで20代まで過ごして、私はそれを当然のこととして過ごした。そこから永遠に離れることになって初めて、私はそこに自分が置かれた意味について、持っていた権力も領地も奪われたことについて、そして自身にとっての神について深く考えるようになったのだ」
「雪沙のいう権力というのは、ローマ帝王のことか」と信長はつぶやくように聞いた。
「ああ、そうだ」と雪沙は答える。
「それは、神への信仰で取って変わるほどのものか」と信長はさらに問いかけた。
雪沙はしばらく黙って考え込んでいたが、ようやく口を開いた。
「貴殿が今の道を進んでいけば、じきに何かしらの答えを見つけるだろう。それはもしかしたら、私とは違う答えかもしれない。ただひとつ、自身の権力などとは異なる目的が私にはあった。私のいたイタリア半島は、いにしえのローマ帝国以後、一度も統一されたことがなく、常に不安定で大国の干渉を受け、各地の小国家が小競り合いをしていた。それがよりいっそう大国の干渉を招く。統一されているならば、そのようなこともない。それが行動の大きな理由のひとつだ。イタリア戦争という争いがしばらく前に終わったが、それが何年続いたか。私がまだ10代の頃からだ。何とそら恐ろしいことだろう。
今のこの国を見ても、同じような感慨を私は覚える。この国もまた、統一される必要がある」
今度は信長が黙る番だった。彼があまりにも長くむっつりしているので、老人は穏やかな口調でつぶやいた。
「私が戻りたい場所があるとすれば、それは私の生まれた家だな。ローマの郊外、スビアーコという小さな町にある古い、とても古い家だ」
信長が帰るのを見送り別れてから、雪沙はまた歩きはじめた。それほど遠くない小川のほとりに紫色の群れが見えたのでそこまで歩こうと思ったのだ。
離れたところからもよく見える紫色の群れは、よく見ると小さいマメ科の花が垂れて流れるような集まりだった。その花を雪沙はどこかで見たことがあるように思ったが、西ヨーロッパにはなかった。懸命に思い出そうと腕組みをしていると、通りがかりの人が話しかけてきた。
「お坊さま、お加減がよくないのでございましょうや」
「いや、この花は……何というのだったか」
通りがかりの人ーーおそらくは野良仕事の帰りなようだがーーは雪沙が高齢なのを見て、ぼけているのだと解釈したようだった。
「お坊さま、こちらは藤ですよ、フジ。源平藤橘のトウですよ。この川べりにも近年植えられたのか、たいへん増えました。強い花木でございますね」
雪沙はうん、うんとうなずき、丁重に礼を言った。
風に藤の花が揺れている。
雪沙を異国人だと思う人もいなくなった。
ゆらゆらと揺れながら、強靭な枝を張る。
風に藤の花が揺れている。
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