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第10章 ふたりのルイスと魔王1

夕暮れに揺れている 1560年 尾張国

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〈雪沙、織田信長、果心居士〉

 里の庵に淡い光を与えている陽もわずかに暮れてきた。庵には年老いた学僧と尾張清洲城主が向かい合って座している。
 もうずいぶん長くふたりは話し込んでいる。

「そう、画期的な試みだったが獣の乳を飲ませるのは呪術の類いだと非難する声が多く、乳児院はやむなく中断したらしい。病院の方も漢方医が倒れたので、なかなか厳しいようだ」
 静かに話す老人に信長はフン、と鼻を鳴らす。

「どうせ、焦る坊主どもがあら探しをしてあれこれケチをつけるのでや。乳児院だの病院というのは西洋では古来よりあるのだろう。良き心からの行いではないか。それならば医術を学び会得してやろうと思う方が余程民のためだで、火縄銃のようにな」

 雪沙がトーレス司祭からの手紙を見て知ったことを信長に話している。豊後で宣教師が病院を建てた件については、信長も興味を惹かれたようだった。僧侶という存在をあまり好んでいない様子は以前から変わらない。そう、父の葬儀で抹香を投げつけた頃からなのだろう。雪沙も公には学僧なので苦笑いするしかない。
 学僧はわずかに沈黙したのちに言った。

「いや、僧ばかりのことではない。良心であれ何であれ、何か新しいものがなされるとき、それを拒む人々が現れるのは洋の東西を問わない。禍々しいという思い込みで人を殺めたりもする。特にこの国が悪いということではないのだ。ただ、病院を建てるというのは誰にでもできるわけではない。願わくは続けてほしいものだな」

 雪沙は病院を建てたルイス・デ・アルメイダやバルタザール・ガーゴ司祭を知らない。雪沙が堺でフランシスコ・ザビエルと別れたのは1551年のことだった。その後、フランシスコはいったんインドに戻り、中国に宣教するため再度海に出た。その時に二人と懇意になったとトーレス司祭は書いている。
 フランシスコの見立てならば間違いないだろう。雪沙はそう考えていたので今回の病院の件も違和感を持たない。どのような容貌の人だろうと思いを馳せても見る。ただ、トーレスの手紙の様子からみて、当分九州から出られそうもない。すると、京やこちらの方に来ることはないだろう。トーレスも九州に落ち着けたようだ。
 遠い。
 ローマからここまで、ずいぶんと長い旅をしてきた。
 しかし、今の自分は九州ですら果てしなく遠くなった。

 そのような思案に耽っていると、信長が不意に雪沙の目を見て尋ねる。
「雪沙、まことに身体は大丈夫でや? わしの城に来てもええのだで」

 雪沙は目を見開いて軽く驚いている。そして合点が行く。
 今川義元を討った勢いで、いつ美濃攻めに出てもおかしくない。そのような時期にしばしば庵を訪ねてくる。美濃攻めの下調べにしては道草を食いすぎている。尾張をほぼ手中にしたといってもよいこの男は、どうやら老人の身体を気にかけているらしい。信長は話を続ける。
「実は、城に怪しげな男が来た」
 その男は行者のような風体で年の頃は50を過ぎたぐらい。ギョロリと強く光る眼ばかりが目立つ。その男は単刀直入に城で対面した信長に問いを投げた。
「ローマから来た老人はこちらにおられるか」
 もちろん城下で、信長以外の誰も雪沙を知らない。帰蝶は知っていたが、もう信長の許を去って美濃に引っ込んでしまった。それ以前に「羅馬(ローマ)」という言葉さえまだ知られていないのだ。当然「いない」というしかない。
 少なくとも清洲にいないというのは事実なのだ。
 雪沙はすぐにはたと気づいた。
「ああ、それは10年以上前にネガパタンからサン・トメ(インド)に向かう船で出合った男だ。行者で眼光が鋭いといえば、思い当たるふしが他にない。どうも日本で破門され、インドで宗教の修練を積んだようだが、どこで学んだのやら。達観した人はあのように邪なギラギラした光は放つまいよ」
 信長がふむとうなづく。
「そうか、懇意の者ではないか。その怪しい行者がなにゆえ雪沙を探しているのでや」
「わからん。私から奪えるものはもうほとんどないと思うが」
 そういうと、雪沙は立ち上がりろうそくに火を点ける。外がだいぶ暗くなってきたのだ。炎はほどよく強く、辺りをぱあっと照らしだす。

「その男が雪沙を狙っておるということはあるまいな?」と信長が尋ねる。
 雪沙はふっと笑う。
「貴殿を狙うならまだしも、私のような老人を討ち果たしても何の得にもならないだろう」
 信長はふっと、庵の片隅にポンと置いてある刀を見る。
「あれは使っとるのきゃ」
 雪沙は思い出したようにそれの方を向いて、手に取った。そして問いに答える前に、刀をもらったときの話を始めた。
「この刀は荒波というそうだ。
山口を訪れたとき、フランシスコが太守の大内義隆と会見した。そのときにフランシスコが大内殿の衆道趣味を諌めたのだ。稚児を公然と侍らせていたからな。キリスト教でそれは禁忌だ。それで会見は不首尾に終わったのだが、家老の内藤興盛殿が感銘を受けたようだ。そのあと、われわれが宣教できるよう力を尽くしてくれもした。われわれにとって、たいへんな恩人といって相違ない。そして私たちが京に向けて発つときに、この刀をくれた」

 そして雪沙は刀を信長に渡す。信長はその刀を抜いてみる。そして刀身をじっくりと眺めて、刃に現れる荒波のごとき姿に「ほう」と感心する。
「荒波か、その名の通り素晴らしく剛毅な刀だで」
「ああ、実に見事だ。だがこれは一度しか抜いていない。道中賊に襲われたときだけだ……ああ、そういえばあのときも怪しい行者に遭ったな」と雪沙は思い出したようにつぶやく。
「それならば、知り合いではないか」
「いや、真っ平だ」と雪沙がすぐさま否定する。
「では、その男の名は何という?」
「果心居士」(かしんこじ)と雪沙は静かな声でいう。
「果心居士か……」と信長はつぶやく。

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