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第10章 ふたりのルイスと魔王1

目的はひとつしかない(桶狭間の戦い2) 1560年

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〈織田信長、今川義元、松平元康〉

 永禄三年(一五六〇)五月十九日、押し寄せてきた今川勢と織田信長の戦いは、信長方が劣勢で推移していた。
 いや、劣勢というのは控えめな表現かもしれない。
 対する今川義元軍はもうほとんど勝利が見えたと考えていた。なぜならば、大高城の防御にと信長勢が築いた丸根・鷲津砦があっけなく落ちてしまったからだ。両砦に控えていた信長の兵の多くはもう一方の鳴海城周辺に築いた要害、砦に逃げていった。
 鳴海城周辺を囲むように集まったのが信長の兵のすべてだろうと今川側では考えていた。総数はせいぜい二千弱、今川勢はその五倍は下らない、いや後世には十倍ともいわれている。大高城と鳴海城に兵力がいくつも分散してしまうと大人数では返って機動性が下がるが、一ヶ所に集めてしまえば総攻撃をかけるだけだ。鳴海城周辺の複数の砦をどう攻め落とすかというのがこのときの主題だった。



 ただ、今川勢が詳細には知らないこともあった。
 近江の六角氏から援軍が出されていたことである。それで二千が三千になったわけではないが、近江からも援軍が来ているという事実が大切だった。本当ならば、援軍が出ているというのは大っぴらに知らせるのが常である。自軍はそれだけ磐石な態勢なのだと見せつけて、敵の士気を削ぐのだ。
 しかし、信長は六角氏からの援軍を鳴海城の守備隊の中に組み込んで、表に立てるつもりはないようだった。まるで、自軍しかいないかのように振る舞っていたともいえる。
 まるで脆弱だといわんばかりに。

 いずれにしても、もう勝ったも同然だと考えている今川義元は拠点にしていた沓掛城(くつかけじょう)から桶狭間という地点に移動していた。ここは丘陵の文字通り狭間にあたり、背後の丘陵に上がれば見通しも悪くない。

 一方、大高城寄りの砦が陥落した後で信長はようやく重い腰を上げて移動を始めた。ようやく信長が動いたことで、鳴海城を囲む砦の守備をしている一同は気勢を上げる。南方の中島砦を担っていた佐々政次、千秋四郎ら五十人ほどの一隊は持ち場から騎馬で飛び出し、ぞろぞろ前進していた今川の先頭隊にかかっていった。しかし、先頭隊は万全に構えており、五十人余りでは歯が立たなかった。佐々ら中島砦の部隊はここで潰える。
 なお、佐々政次の弟が佐々成政である。

 今川の先頭隊はすでに鳴海に至っているが、大将の今川義元はまだ桶狭間にいる。この辺りは谷間の窪地であり、大勢の兵を控えさせておくのに好都合だったのだ。そして、大高城にも鳴海にも出て行ける。
 大将である今川義元のところには中島砦の信長勢三十人ほどを討ち果たしたという報告が飛び込んでくる。義元は喜びを抑えられない。
「それで、追撃の手は寄せてこないのか」
「はい、わが勢の頑強さに恐れをなして出てこられなかったのでしょう。お屋形さまの矛先には天魔、鬼神もかないませぬ」と側近が大仰に誉めそやす。

 これほど簡単な相手だとは思ってもいなかった。聞く話によればもっと戦巧者だと聞いていたが、買いかぶりだったようだ。所詮は田舎の青二才、わしが出てくるまでもなかったか。

 油断はしていなかったはずだ。しかし、これで敗れるはずがないとは思っていただろう。
 それが桶狭間にいる今川勢の一致した見解だった。
 桶狭間ではそうだった。
 視点を変えるとまた違うものが見えてくる。
 今川方が大高城の砦を落としたとき、兵糧を入れたことはさきにも書いた。そして、今川方の先陣を切って兵糧を入れた集団の中に松平元康という人がいた。彼らは大高城の押さえとして、城にとどまっている。一同は半ば休憩している状態になっているが、元康は朱塗りの武具を身につけたままでたびたび外を見やって、戦況が分からないかと目を凝らしている。目前に見えるのは落とした砦がふたつ、すでに火を放って久しいので煙が燻るほどになっている。風向きが変わると、その煙が大高城に流れ込んでくるのでその都度口をサラシで覆い目をしばたかねばならなかった。

「こりゃあ燻されとるもんで、いかんでや」と元康はつぶやく。
 この地点は概ね十三間ほど(約二三m)の高さになるので見晴らしはよい。ただ今川勢は窪地に集まっているようでよく見えない。さきに落とした砦のある丘が邪魔しているのだ。主戦場になるであろう鳴海城のほうも、距離があるのではっきりと見えない。
「この城はあまり要害としての役目は果たせぬな」と元康はつぶやく。
 そのうち、元康は時折砦の方にやってくる人影をしばしば見つけるようになる。兵ではないようだ。一人やってきてすぐ去り、もう一人やってきてはすぐ去り、それの繰り返しだった。
 斥候なのだろうと元康は思う。ただそれが今川の手か織田の手かまでは判別できない。元康はどちらなのだろうかとふと思う。ただ、どちらか判別できたとしても、大勢に影響はないだろうと考えた。いずれにしても、必要があればすぐにお呼びがかかるはずだと。元康はまだ何か引っ掛かっていたが、そこで考えを止めた。

「おお、一雨来そうだで、皆しばし休息だがや」

 実は、この視点が今川勢に最も必要なものだった。もし、斥候が織田勢の者ならばなぜ燃え落ちた砦にやって来るのか。
 何を見ようとしているのか。
 鳴海城の様子か、それとも……。

 織田信長は鳴海城の東、善照寺砦から南の中島砦に移動していた。中島砦が敵に最も近い地点になる。
 未の刻になる頃だろうか、空がみるみるうちに灰色の雲に覆われ、大粒の雨が降ってきた。一同は一端そのまま留まる。その時、斥候がすでに濡れ鼠の体になり走って信長に寄ってくる。そして、何事かを主に告げた。それを聞いた信長はわが意を得たりとばかり手を打つ。
「よし、好機到来でや! 雨が上がり次第、敵に総攻撃をかけるっ。皆支度せいやっ!」

 一同はギョッとする。これまでどちらかといえば、様子見のように進んできたのと大違いだからである。家老衆は信長が乱心したのかと思い、信長にすがり、もっと熟考するように訴えた。家老衆を見ながら信長はよく通る声で、周囲にも聞こえるように言った。
「皆、よく聞けや。今川の衆は宵に腹ごしらえをしたきり、行軍を続けとる。大高に兵糧を入れ、丸根・鷲津を打ち払い、疲労困憊しとるはずだで。それに比してわれらは疲れとらん者が大半。寡勢だからと大勢を恐るるに足らず。勝敗の運は天にあり。敵が掛かってきたら退き、退かれたら追うのでや。何としても敵を打ち払い、追い崩す。たやすいこと。敵の鑓刀を分捕ることなどせず、捨てておけ。戦に勝てば、家の名誉、末代までの高名これあり。ひたすら進み、励め」

 こうして両者は豪雨の中、距離を置いて対峙する。
 空が晴れた。
 信長は鑓を手に取り、一同に大号令を発した。
「そりゃあ、掛かれ! 掛かれええっ!」
 皆が猪の群れのごとく突進していく。信長勢が黒煙を上げて襲ってくるのを目にした今川勢は勢いに押されて、後ろに下がる。いや、後ろにひっくり返る者もいた。人、馬、弓、鑓、鉄砲、幟、差物が入り雑じり大混乱となった。先ほどまで降っていた雨によって谷間の地はぬかるみ、思うように動きも取れない。
 信長は冷静に見ていた。
 今川義元がいる位置を冷静に見ていた。
 大混乱の中、義元が乗せられていた朱塗りの輿も放り出されている。そして、輿の主は鑓を手に応戦しようとしている。
「大将の旗本はあちらでやっ!掛かれええっ!」
 信長の命に周辺の者が寄せてくる。
 義元を守ろうと三百ほどの兵が盾になって応戦する。激しい戦いになった。そして、兵力を義元に集中させた信長の策がはまり、義元を守備する兵の数は櫛の歯を引くように減っていった。この段で信長も馬を下りて、義元の元に駆ける。ここで信長の馬廻り衆、小姓らも次々と倒れる。
 それでも信長は周りの者を皆義元に差し向けた。

 ついに、毛利良勝が義元を切り伏せて、すぐさまその首を取った。毛利も無傷ではない。憤怒の義元に指を噛み切られたという。

 駿河・遠江の太守はここで倒れた。
 主の首が切られるのを目にした今川勢は蜘蛛の子を散らすように逃げまどう。信長勢がそれを追撃し、次々と討ち果たして首を取る。この段階でもう勝敗は決した。後の記録になるが、今川方の犠牲は二千七百五十三名、織田方は九百九十名余りだったという。織田勢のうち、近江の六角氏援軍の犠牲は二百七十二名だったといわれる。

 この戦で信長が勝ったことに関してはさまざまな説があるが、どのような戦法にせよ、信長は大将首を取ることだけに目的を定めていた。いかに大将を手前に引っ張り出すか、いかに素早くその首を取るか、それ以外は遂行するための手段だった。

 松平元康にもう少し戦の経験があれば、そのことに気がついたかもしれない。
 松平元康は、のちの徳川家康である。

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