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第10章 ふたりのルイスと魔王1
少女の姿に妹の面影 1557年 清洲城
しおりを挟む〈織田信長、帰蝶、雪沙、お市〉
信勝の一件の後、彼の庇護下にあった土田御前をはじめ織田の一族が清洲城に移ってきた。信長の家族である。そのお付きの者まで含めれば結構な人数であるが、十分広大な城郭だったので手狭になるようなことはなかった。ただ、それまでのやや武張った雰囲気はいくらか変化したようだ。
この頃の城は櫓(やぐら)を備えていたが、今日見られるような大きな天守が一般的になるのは少し後のことである。本丸といくつかの別棟に分かれる構造は変わらない。
この城に老人が訪問してきたのは、よく晴れているものの木枯らしが冷たく吹きすさぶ頃だった。
清洲の城主は小牧政秀寺の近くに住む老人のもとをしばしば訪れていたが、老人の方から赴くことは珍しかった。老人には数人の供を連れていたが、驚いたことに馬に乗ってきた。乗り降りに人の助けが必要になったのは致し方ないが、手綱を操るのに苦はないようだった。老人は背中も腰もさほど曲がっていない。短めに刈った頭髪と髭が真っ白でなければ、歳よりはるかに若く見えるに違いない。
老人は城に迎え入れられ、信長の妻である帰蝶と対面する。彼女がこのところ少し体調を崩していると聞き、老人は見舞いに訪れたのである。かくしゃくとした老人よりも帰蝶のほうが生気がないように見えるのは、小袖の色が蒼いからだろうか。
「雪沙どのが足をお運びくださるとは、何やら申し訳なく」
「いや、たまには遠出しなければ身体がなまってしまいます。昔は百里を馬で一気に走ったこともありましたから」
帰蝶は目を丸くして聞き返す。
「百里、百里と言ったら、尾張からどれぐらい遠くへ行けるのか」
雪沙はしばらく考え込む。
「尾張からでしたら、須磨は優に越えるでしょうなあ。備中ぐらいまでは行くのではないでしょうか。私は船で移動してきたので、定かではないのですが」
帰蝶は微笑んでうなずく。
「雪沙どのの話にはいつも興味を惹かれます。どこまでも果てなく広い。わたくしなど、空を見渡してもせいぜい美濃までしか思い浮かべられませぬ。播磨も備中もわたくしには遠い場所です」
雪沙は帰蝶の青白い顔を見ながら、ふと思う。
洋の東西を問わず女性は移動することが少ないのかもしれない。もちろん、移動する女性がいないということではないが、それをなしうるのは限られた一部だったし、必ずしも本人の意に沿うものとはいえなかった。
自分の意思で移動できた女性。
雪沙の記憶に残る人物ではカテリーナ・スフォルツァだろうか。あるいはイザベッラ・デステ、自ら意図して移動するという意味では彼女が上手かもしれない。
そして彼は、愛して止まない妹、ルクレツィア・ボルジアの顔を思い出す。彼女がローマからフェラーラのアルフォンソ・デステに再嫁するとき、兄として付き添って旅をしたのだ。
思えば、ルクレツィアとともに旅をしたのはあれが最初で最後だった。
アルフォンソ・デステは武骨だが実のある男だった。そのような男と見込んだからこそ、ルクレツィアを任せることに決めたのだ。それは正しかったはずだ。実際、その後父と私が没落したときにアルフォンソは楯となり妹を守ってくれた。きっとルクレツィアはたくさん子どもを産んで、幸せに暮らしたのだろう。
ルクレツィア……。
「伯母上、また毬を作ってみましたの」
襖を開けてお下げ頭の少女がひょいと顔を出した。そして老人の姿を見つけると、肩をすくめる。
「あ、お客様がいらしたのですね。ご免なさい」
去って行こうとする少女を帰蝶が引き留める。
「ああ、いつも様子を見に来てくれてありがとう。いいからお入りなさいな。このおじいさまにごあいさつしてくださいな」
おそるおそる、少女は部屋に入り雪沙の前で頭を下げる。
「お初にお目もじいたします。織田信長の妹の市と申します」
「おいくつですか」と雪沙が尋ねる。
「こたび11歳になりましてございます」
雪沙がおだやかに、にこやかに尋ねるのを見て帰蝶は少し驚いている。数年前、初めて対面したときに感じた鋭い空気をまったく感じられなかったからである。
見舞いの品である毬を手渡すと市はすぐに退出したが、雪沙はにこやかに少女を見送った。そして、少なからず驚いている帰蝶の視線にぶつかるとふっと苦笑した。
「いや、私にはかつて妹がいたのです。幼い頃はずっと一緒に過ごしていて、可愛くて仕方ありませんでした」
帰蝶は合点がいったようにうなずく。
「あなたさまにも、そのような愛らしいお話があるのですなあ」
「私もただの人でございますよ。帰蝶さま」
帰蝶はしばらく黙っていた。そして、毬をなでながらポツリとつぶやいた。
「雪沙どの、あなたさまの鋭い目の光を見たとき、わたくしはただごとではないと感じました。龍がいたのかどうかは今もって分かりませぬが、ただの人で在ることを、どこかで打ち捨てたのだと思いました。あなたさまにはお分かりになるのでしょう。わが夫は、あなたのようになっていくのでしょうや」
今度は雪沙が黙る番だった。
彼は皺の目立つ手をぎゅっと握りしめてからゆっくりと開き、じっと開いた手を見つめていた。そして、また手を握りしめる。
「……さよう、ただの人ではなくなっていくのかもしれませぬ。ですが、上総介さまには私と同じ道を辿ってほしくないと思いますし、そうならないだろうとも信じております」
「そうならない?」
「上総介さまは、まだ情というものがございます。私は父母と妹、そして一番の側近以外を信じたことがございませんでした。それ以外に情はございません。ですので邪魔になると判断すれば、どのような酷いこともできました。
情があれば、私のようにはなりますまい」
帰蝶は目を伏せている。
「もし、その情がなくなったら?」
雪沙はその問いには答えられなかった。
そこに信長が入ってきたからである。さすがに昔日の裸同然の格好はしていない。これだけの所帯を構える城主ならば自然なことだろうと雪沙は思う。そして、なぜ帰蝶がさきほどの問いを投げかけたのか合点がいったのだ。
信長はつかつかと雪沙の前に来て、どかっと腰を下ろした。
「雪沙がわざわざ出向いてくれて、帰蝶もさぞかし気が晴れただろう」
「ええ」と帰蝶は微笑む。
雪沙は信長をまっすぐに見て、彼に伝えるべきことを話す。
「策彦周良師が駿河から甲斐に入ったそうです」
策彦周良は京都・天龍寺の住持で遣明使を正・副2度務めたこともある高僧である。この頃は駿河の今川義元のもとに招かれしばらく逗留し、次に武田信玄に招かれ甲斐に向かった。甲斐では恵林寺の住持として迎えられている。
「ああ、まだやりとりをしとったんでや」と信長が感心したように言う。
雪沙はうなずいて、話を続ける。
「今川は近く大軍で尾張に攻め寄せてくる」
「ああ、そうだろうな」
「そして、甲斐もこちら方面を狙っているようだ」
「おお、そこまでは考えとらんかったで、今川とはいかように結んでおるかも分かるか」
「ああ」と雪沙が答える。
新たな敵の姿もおぼろげに見えている。
武田はこれからどう動いてくるのだろうか。
あとはどれほど先手を取れるかが信長にとっての最も重要なことだった。
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