16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第10章 ふたりのルイスと魔王1

龍の血脈 1556年 尾張国

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〈織田信長、雪沙〉

 稲生での戦いを終えて、その後始末も終わった。信長は反旗を翻した信勝勢を許すという寛大さを見せたが、ふたりの息子の母である土田御前の仲立ちが結局は信長の決定を左右したといえる。これは兄弟喧嘩などという程度のものでは決してない。弟は兄を攻めてきたのだ。双方には多くの犠牲も出た。この結果を見てなお、「よく言い聞かせますので許してあげておくれ」という母の言葉に信長はいらいらした。

 本当にそう思うならば、戦仕度に入る前に止めて当然だろう。もし戦でわしが倒れていたら、そのまま喜んで信勝に祝いの言葉をかけていただろうに。

 その心根に信長はぞっとし、内心では嘆き悲しんでいた。母が子らにかける愛情には多寡がいくらかあるかもしれないが、一方が他方に殺されるのを容認するのは行き過ぎだろう。それほどまでに自分を憎んでいたのかと思うにつけ、信長は真っ暗な淵に立っている心地になるのだ。

「家臣がこぞって母御を説き伏せにかかれば、うなずくしかないだろう。ましてや鑓刀で戦うことがなければ、夢うつつほどにしかわかるまいよ。母御の心が見えるわけではない。わからないことは、いろいろな見方ができるのだから、考えぬほうがいい」
 信長は、老学僧の声をおとなしく聞いている。
 そして、彼がどう生きてきたのかという興味を募らせるのだ。

「雪沙の母はどのような方なのか」
 雪沙は白いあごひげを撫でながらその問いに答える。
「もの静かで優しい人だ。しかし、もうとっくに亡くなったし、大昔のことでだいぶ記憶も薄れた」
「ふむ、やはり城で暮らしておったのか」
「城ではない」と言いながら、雪沙はぽつりぽつりと話した。

 生まれたのがローマ近郊のスビアーコという小さな町であること。母と暮らしていたのはよくある石造りのそれなりに大きい館だったが、城などという代物ではない。父は他のところに住んでいてきょうだいと暮らしていた……云々。
 信長にしてみれば、皆目わからない。
 ローマとはどこか、それからしてわからない。日本で石造りというと石垣しか思い浮かばない。この国では石造りの家にしたら通気が悪いし、よくやってくる地震で一気に崩れてしまうだろう。父と子が離れて暮らすのだけはわかる。日本でも武士の家ならばしばしばあることだ。それぐらいしか納得できるところがなかった。それでも、それだからこそ、雪沙への興味が尽きることなく湧いてくるのだ。

「ローマはどこにある」と信長は雪沙に問うた。
 雪沙は、「話ではよくわからないだろう」と言って、文箱から紙と筆を取り、墨を擦った中に筆を浸してから一気呵成に地図を描いた。
「実際の距離を模して描いたらとんでもないことになるので見やすくしたものだ。これがヨーロッパ、ローマはこの辺りだ。左に下ってアフリカ、アフリカの南端をくぐり抜けて、アラビア半島、そしてインド、突きだした島々のマラッカと海峡、上の陸地はほとんどが明国。そして、アフリカのもっと西、日本のもっと東に新大陸がある。もっとも、新大陸というのはわれわれが勝手にそう言っているだけで、もともとあったものだ」
「世界というのは、つながっておるのか」と信長は尋ねる。
「ああ、世界は円球なのだ」
「何と!」と思わず信長は感嘆の声をあげる。そして手書きの地図をずっと見ている。
「それで、日本はどの辺りでや」
「ああ、もちろん描き忘れてはおらぬぞ、ここだ」
 雪沙が指差した小さな島々を見て、信長は驚く。
「これほどまでに小さいのか?」
「そうだな、小さいな。あと、日本の東が新大陸というのは、大海原を回ってきたトーレス司祭に聞いただけだ。私もそれほどよく知っているわけではない」と雪沙は微笑む。
 本当はこの世紀の初め、本初子午線を定めるのに関わったのは雪沙の父親なのだが、そのようなことは言わない。
 
「そのトーレス司祭とやらの話も聞きたい」
「ああ、今は周防にいるはずだ」
「何と、日本におるのか」と信長は驚く。

 信長は目を輝かせて「世界」の話を聞いている。雪沙はそれを子の親のように見ていた。
 身内でいさかいが続く上に、実母に見放されたと悲観している。彼の心には相応の重しが乗っているようだ。だがおそらく、彼はこれからも戦い続けなければならない。この国の様子を見ればそうなるのは火を見るより明らかだ。それならば憂鬱な内側より、まだ知らない外の話でもして気分を上げてやりたいと思ったのだ。
 確かにそれは効を奏したようだ。雪沙ももう少し話したい気分になった。
「世界の歴史ではこれまでにいくつか大きな『帝国』が築かれたことがある。今もあるが」
 そして彼はアレクサンドロス大王の開いた帝国から、古代ローマ帝国、中国の秦、漢、元王朝。そして当代のオスマン・トルコや神聖ローマ帝国。それらを地図の上で指差し囲みながら語り続けた。日本がいくつも入るほどのその領域に、信長は驚くばかりだった。

「わしゃどえりゃあちっぽけなもんだぎゃ」と思わず尾張の青年はつぶやく。
 雪沙は笑う。
「どのような皇帝も王も、その人自体はごくごく小さいものに過ぎない。そうだな、そのような帝国の主になるのにはーー持って生まれた才能・環境、人を束ねて勝ち進むだけの力量、あとは運を持つのが必要だろうか」

「運? 南蛮でも運が大事なのきゃ?」と信長はすっとんきょうな声を上げる。
「ああ、大事だ。私には運がなかったからな」と雪沙はつぶやくように返す。
 信長は彼の琴線に触れたのかと感じて話を変えようと思ったが、さらなる好奇心に駆られて言葉を繋げた。
「雪沙も、帝国の主になりたいと……」
 その言葉を耳にした途端、雪沙の、白い眉毛の下にある鳶色の瞳が強く光ったように信長には思えた。初めて出会ったときと同じような、強い光だった。
「ああ、私は古代ローマ帝国の再興を成し遂げたかったのだ。まあ、それは私の側近かつ親友である男しか知らなかったが、吹聴するのはその程度で十分だろう。
 ただ、私には運というものがなかった。
 本当の第一歩を踏み出そうとしたときに、私と、後ろ楯だった父が同時に熱病にかかったのだ。父はそれで世を去り、私も1カ月半ほど使い物にならなかった。その1カ月半ですべては暗転した。父の座にとって替わった人間があらゆる手を使って、私を追い落としにかかった。そして私は囚われの身となった。
 しばらくは捲土重来を期して手を尽くそうとした。しかし、幽閉生活が長くなるにつれ、その望みも消えていった。私の側近、親友の男もしばらくして暗殺された……そして、母も妹も死んだ。幽閉されていた私にはそれを知るすべはなかったが、後でそれを知ったときの衝撃ははかりしれないものだった。
 一方の私といえば、あの病以降はいつ死んでも不思議ではなかった。何度も生命の危機に瀕した。例えば、高い塔から飛び降りたときに従者は死んだが、私は腕の骨を折っただけだった。そのようなことばかりだ。以降も長く仮の姿で潜んで暮らしたが、結局命を失うことはなかった。
 上総殿、私はいくつになると思う?
 もう、81歳なのだ。
 なぜ、私は生きているのだ。
 若い内に夢破れ、出会った人々は皆先に逝ってしまう。日本まで一緒に来たフランシスコも、私より30も若いのに逝ってしまった。
 ずっと私のうちに渦巻いているのはそのような感情だ。
 しかし、この国にたどり着いたことを私は後悔していない。なぜなら、ここでは私の素性を知らないままで……いや、知らないからかもしれないが、篤く世話をしてくれる人々がいる。そして何より、貴殿に会えたことがとても嬉しかった。これまで旅をしてきた中で私の若い頃によく似ていると思えたのは貴殿だけだ。
 それに気づいてからは、もう、この地を終の棲みかにしてもいいと思うようになった。そして、貴殿がなぜか私を慕ってわざわざ清洲から来てくれるのも嬉しい。
 私はもう人生をやり直すことはできない。
 ローマ帝国の再興もはるか遠い夢だ。
 今は……この戦乱の国の行く末を見たいと思う。私が踏み出そうとしてつまずいた第一歩ーーそれは生まれ育ったイタリア半島の統一だったがーー統一がこの国で実現するならたいへん素晴らしいと思う。戦がいつまでも終わらないのは、それを統べる人がいないからだ。今の足利将軍には到底できないことだろう。
 もし、そのような人が現れたら……」

 そこまで言って雪沙は話を止めた。
 信長は以後もたびたび雪沙と話をすることになるが、このときの長い告白を忘れることはなかった。なぜ、雪沙がそれを彼に話したのか、その真意がよく理解できたからである。おそらくは誰にでも通じる話ではない。信長だからこそ話したのだ。

 それは、老いた龍が若き青龍にその血脈を受け継ぐ儀式のようなものだった。

 
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