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第10章 ふたりのルイスと魔王1

哀しみの恋人たち リスボンからインド航路

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〈ルイス・デ・アルメイダ〉

 ルイス・デ・アルメイダは故国ポルトガルを遠く離れて、弘治元年(1555年)には豊後府内(現在の大分市)にいる。

 彼はこの話にたびたび登場している。
 ポルトガルのリスボン、アルファマ地区に住む少年時代。長じて船医としてインドのゴアにたどり着き、マラッカから中国沿岸や日本を行き来する商人になったことについても触れている。

 その彼が豊後に至る道筋を改めて振り返ってみる。



 彼は1525年にリスボンで生まれた。
 父親は小麦の取引を生業にしている。大金持ちではないが裕福な家庭であった。

 この頃のポルトガルはインド航路沿岸の都市に大小の拠点を築いて貿易を盛んに行なっていた。大きな拠点には副王(総督)を置いて要塞を築き、軍備を十分に整えていた。
 じきに銃も立派な貿易品になる。

 15世紀末にスペイン国王の支援を受けたクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)はインドに行こうとして中米にたどり着き、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマの航海でそのルートを確定した。
 16世紀に入ると、マゼラン率いる船団がアメリカから回ってきてフィリピンにたどり着いた。マゼランはそこで殺される。そして彼の船はアフリカを回って初めて世界一周をすることになる。
 その船がスペインのカディスに戻ったのが1522年、ルイスが生まれる少し前のことだった。

 現在ならば地中海からスエズ運河を抜けて、アラビア半島沿岸沿いにインドに進むルートが最も距離が短い。アフリカ大陸を大回りしたり、地球を半周してアメリカ大陸経由でインドに向かうのは、たいへんな冒険でもあった。

 それでも人々はこの航路を移動し続けた。

 この時期のインド航路はポルトガルの独壇場である。乗り遅れたスペインは主にアメリカ大陸に進出していく。



 インド航路における貿易の範囲はどんどん広がっていた。拠点は現在の国名でいえば西サハラ、ガーナ、モザンビーク、ケニア、ソマリア、ソコトラ島、インド、マレーシア、中国沿岸、そして日本などである。特にインドのゴアとマレーシアのマラッカは貿易の一大集約地であった。ここで胡椒をはじめとする香辛料から各地で得られる金銀宝石、彼らから見て珍重な品を求め、風とともに本国に運んだのである。

 当時のポルトガルで商人といえば、「羽振りがよい」というのと同義である。大きな船を駆って遠洋に出ていくわけではないが、ルイスの父も活気のある港町リスボンで商いにいそしんでいた。

 ルイスは温和な性格で、病気がちだった母親の助けをすすんでする子どもだった。少年は母の身体を気遣ううちに、医師になりたいという強い思いを抱くようになる。
 ルイスの父は商人だったが、アルメイダ家は代々医師を務めていた。祖父はポルトガル国王の典医を務めていたという。ルイスの父が商人の道を選んだのには理由があったと思われるが、一人息子を代々の家業である医師に就かせるのにためらいはなかった。ルイスはよく学び、当時の最先端だったイスラム医学を修め、トードス・オス・サントス病院での研修を終えた。
 トードス・オス・サントスは「諸聖人」という意味になるが、この言葉は後で再び出てくるだろう。



 順風満帆で医師になるための学をすべて修めたルイスだったが、その直後にルイスは大きな2つのつまづきを経験することになる。

 ひとつは病弱だった母が天に召されたことである。医師になるかならないかという時期のルイスにとってはたいへんな衝撃だった。

「母をもっとよく診ていればよかった、側にずっと付いてやればよかった」という後悔は彼の心に長く残ることになる。

 さらに大きな打撃が彼を襲う。

 医学を学んでいた時に知り合ったジュリアという女性とルイスは恋に落ちた。ルイスは彼女に求婚し、結婚の許しを得るためにジュリアの親に面会した。ジュリアはアフォンソという伯爵家の娘である。貴族の家である。
 自身が商人の息子なので難色を示されるだろうか。いや、祖父が王の典医を務めたことを説明すれば咎められはしないだろう。
 多少の緊張感と大きな期待を抱いて、ルイスはアフォンソ伯爵の前に立った。
 しかし彼が自身の素性を説明する必要はなかった。アフォンソ伯爵はルイスの家についてすべて調べていたのである。

 そしてアフォンソ伯爵は、ルイスが生涯忘れられないほど衝撃的な言葉を告げるのである。

「ルイス、きみが大学で優秀な成績を修め医師の資格を得たことは知っている。前途洋々で素晴らしいことだ。ただ、ジュリアとの結婚の話は別だ。それは決して認められない」

 意味ありげなアフォンソ伯爵の言葉にルイスはそれまでの期待が吹き飛ぶほどの不安を覚えた。晴れ渡った空が突如として黒い雲に覆われていくような厳しい言葉である。

 何がいけないというのだろうか。家柄のことだろうかーーとルイスは考えを瞬時に巡らせる。

 確かに、家柄のことだった。

「私は王の命で異端審問官を務めている。その関係で、きみの家のことも調べさせてもらった。そして王の典医を務めていたというきみの祖父、その妻がマラーノの家系だということが分かったのだ」

 そのような話をルイスは聞いたことがなかった。聞いたことがないので反論もできない。彼はただ呆然と、罪人を裁く人のような口調で話す伯爵を見ているしかない。ルイスが衝撃を受けているのを見て、恋人のジュリアが代わりに父親に反駁する。
「そんな! ルイスはきちんと大学で学んだ、きちんとしたキリスト教徒だわ。おばあさまのことは分からないけれど、彼にやましいところなどひとつもない! お父さまはひどいことをおっしゃっているわ」
 アフォンソ伯爵は娘を鋭い目で見て、一喝した。
「黙れっ! この由緒正しいアフォンソ家に、マラーノの血が入るなど、断じてあってはならない。おまえがこの男と結婚することは許さんっ!」
 ジュリアはみるみるうちに顔面蒼白になる。そして、「あああっ」と小さく叫んでその場に力なく膝をついた。後は泣きじゃくるばかりだった。
「もう帰ってくれ」というアフォンソ伯爵の言葉に従うのだが、ルイスは激しい動揺を抑えきれずにジュリアを見つめる。
 ジュリアも泣きじゃくった顔でルイスを見つめる。
 二人は悲しい視線を交わして、そのまま別れることになった。

 伯爵家を出るとルイスは道端の木に拳をゴン、ゴンと打って、うつむいて悔し涙にくれた。

 帰宅してからルイスは父親に伯爵から聞かされた話をして、それが真実かどうか尋ねた。父は目を伏せて話を始めた。
 ルイスの祖母はスペインのグラナダでユダヤ人の居住区に住んでいた。しかし、追われてポルトガルに移ったのである。
 「マラーノ(あるいはムラーノ)」と呼ばれる人々に該当するというのだ。



 簡単にその背景を述べておく。



 スペインではイスラム勢力が進出し、その期間はおよそ800年間続いた。一例として、後ウマイヤ朝がコルドバに都市を築き繁栄したことが挙げられる。
 それに対抗するレコンキスタ(国土回復運動)は15世紀末に決着し、イスラム勢力はイベリア半島から去った。
 そして、カスティーリャのイザベラ女王とアラゴンのフェルナンド王夫妻が共同統治という形でスペインという国を築き、カトリックを基盤にした国作りを強力にすすめていったのだ。
 その重要な政策として、まずイスラム教徒が追放された。そして、ユダヤ人の居住区も解かれ、そこにいた人々は追放された。
 彼らはアフリカやポルトガル、あるいは他のどこかに流れていくしかない。

 レコンキスタが終わるまで、イスラム教徒もユダヤ人も居住区住まいではあったがスペインの各地で普通に生活していた。またユダヤ人の中にはキリスト教に改宗し、居住区を出て医師や裁判官になる人もいて、コンベルソと呼ばれた(改宗しない人はマラーノと呼ばれる)。

 生活の場が奪われる。

 イスラム教徒については、すでに隆盛を誇っていたオスマン・トルコという受け皿もあっただろう。ただし、ユダヤ人(ユダヤ教徒)にそれはない。離散していくほかないのである。
 この「離散」は後世までディアスポラと呼ばれている。

 アルメイダの祖母はそのようないきさつでグラナダからやってきた人の一人だったのだ。

 アフォンソ伯爵は「異端審問官」だとルイスに告げていた。
 スペインで起こったユダヤ教徒追放の動きは年を経て、比較的寛容だったポルトガルにも広がっている。それは追放から「異端審問」という制度のもとでの迫害に変わっていた。特に改宗がうわべだけのものではないかと厳しく調べられることになった。さきに述べたコンベルソでも安心して過ごすことができなくなったのである。

 ルイスが出くわしたのは、そのような時代ゆえの悲しいできごとだった。
 ルイスにとっては母の死に次いでの耐え難い苦しみである。恋人のジュリアと会うことはもう許されない。人づてに聞いた話ではジュリアは家で泣き暮らしており、修道院に入ると決めたのだという。

 ルイスが苦しんでいたのは、自分の成就しかけた愛が破れてしまったからだけではない。同じ苦しみを愛する人に味あわせていることが何よりも苦しかったのだ。それなのに、慰めの言葉ひとつもかけてやることができないのである。

 ひきとめる親の手を振りほどくように、ジュリアは修道院に入ってしまった。

 ルイスはもう、何もする気力がなく、ひたすら家にこもって悩み続けた。これからリスボンで開業医として働く自信も失くしていた。またいつ何どき、アフォンソ伯爵のように遠慮なくマラーノの末裔だと罵る人がいないとも限らない。

 ルイスは、異端審問所に召喚され、いや、連行される人を何人も、何家族も見ていた。当世の国王ジョアン3世肝煎りのこの特殊な裁判所では、当事者の言い分が通ることはまずない。「あの家はマラーノだ」と告発されてしまえば、ただごとでは済まない。
 ルイスの父親がその祖母のことを打ち明けずにきたのは、そのような状況があるからだった。祖父の代であれば、まだそのような詮議が厳しくなかったので、大きな問題にはならず典医を務めることが可能だったのだ。

 引きこもってしまったルイスに父親がおそるおそる一つの提案をした。

 インド航路の船に乗る気はないかというのである。
 船医として。

 ルイスの父親は自分が大切な事実を隠していた責任をいたく感じていた。まさか、結婚しようという女性の親に、ルイスの祖母のことまで追及されるとは思っていなかったのである。知っていても辛いことだが、知らなければ大きな精神的打撃を受けるだろう。
 「息子はこのままでいたら、心が壊れてしまう」と父親は心配していた。そこで知り合いの商人のつてをたよって、船医として乗船する口を探したのである。実際のところ、父親はさほど待たずに知り合いから返事をもらった。船医は船に必要な人材だが、なかなか乗船したいという人がいなかったのだ。

 それはそうだろう。初めて乗船した人は必ず1ヶ月ほど船酔いで使い物にならなくなるし、行ったきりで帰れなくなる場合もあるからだ。それならば、滅多に揺れない陸上で穏やかに過ごせる方がいい。

 ただ、ルイスにとってこの提案は文字通り渡りに船だった。
 愛するジュリアにもう会えないのならば、死んだ方がましだと思っていたからである。振られたとか別れたのであれば、傷心を癒すすべはあっただろう。しかし、愛し合う二人は生木を裂くように引き剥がされたのである。

 そして彼はインド航路の船に乗ることになった。

 リスボンの港の少し沖合に、大きなガレオン船(帆船)が停泊している光景はルイスにとって子供の頃から見慣れたものだった。

 ヨーロッパの最果てでは、夕陽は海に沈んでいく。

 太陽が海に触れる頃、大陸が途絶えたその先には果てしない大海原が輝く。空はといえば、水色、薄紫色を広げた中にカーネリアンのような濃いオレンジが横たわり、水平線は海と同じような赤で縁取られる。リスボンの街が夕焼けに染まるとき、ルイスは「美しい」と感じるのと同時に、猛烈な淋しさを感じることがあった。
 美しければ美しいほど、淋しさは大きくなるのである。

 船に乗ったらきっと、もっと激しい寂寥に襲われるのだろうか。
 いや、今自分が感じている以上の寂寥と悲嘆はこの先の人生がどれほど長かろうが、もうないのではないだろうか。
 あるいは、どこへ行っても誰と話しても、自分に絡み付いて離れないのではないだろうか。

 ルイスは旅立ちの仕度をするために、夕陽に照らされながらアルファマへの道を戻っていった。





 そのように故国のポルトガルを去って、ルイスがまっすぐ日本に来たわけではない。
 彼は多くのポルトガル人渡航者たちと同じように長い船旅をしてインドのゴアに向かった。

 モロッコに接するセウタの町をかすめて、
 かつて船乗りたちが怖れたボシャドール岬を越えて、
 西サハラ沖からエルミナ(ガーナ)の間でベタ凪に遭い、
 いわゆる喜望峰(南アフリカ)で大陸に沿って北上する。
 一同が人心地つくのはアフリカ東岸にあるモザンビークだろう。
 ここにはポルトガルの巨大な要塞都市があり、多くのポルトガル人も滞在している。航海の間に身体を壊した人はここで静養する。ルイスもアフリカ西岸では医師の看板を引っ込めたくなるほど体調を崩したが、船慣れした人に介抱されて回復することができた。

 ルイスはここで安息の時を過ごした、と言いたいところだが医者はここでは大忙しになるのだ。彼は船が泊まっている間、治療や診察で陸地の貴重な時間を費やすことになった。

 モザンビークの話からまた続けることにしよう。



※インド航路の船旅については第6章『海の巡礼路 東洋編』全編に記しています。

※ルイス・デ・アルメイダの少年期については第5章の『Si, Nicolás/Sim, Luís』以降に記しています(ニコラスは実在の人物ではありません)。

※同様にインドのゴアに着いて以降のエピソードを第6章『海の巡礼路 東洋編』でいくつか記しています。
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