315 / 476
第10章 ふたりのルイスと魔王1
守護が攻められ自害する 1554年 小牧・清洲
しおりを挟む〈織田信長、雪沙、斯波義統、岩龍丸〉
尾張・小牧山の麓、政秀寺に来訪した織田信長と老学僧の雪沙は話をしている。というより、雪沙が信長の相談に乗るような形になっていた。このふたりは60近く年齢が離れている。普通であれば逢うはずのない、信長から見れば曾祖父ほどの年齢になる。
それだけではない。雪沙の生まれた国とここ日本は果てしなく離れている。実際、雪沙の国の人が公式にこの国に来るのは、まだまだ後のことである。
その人にも信長は会うだろう。
「いよいよか」と雪沙がつぶやく。
尾張の守護である斯波氏がそろそろ追われるだろうと信長が言ったのに返した言葉である。
「ああ、もう守護というのは名目しかないで、清洲織田家に囲われとる」
清洲の織田家(大和守家)は長く守護代を務めていて、守護の斯波義統は囲われるかのようにそこに邸宅を構えている。守護がいることで、尾張の中心が清洲であると広く知らしめることができる。斯波氏も身の安全を確保できる。持ちつ持たれつであった。
織田家はほかに岩倉が拠点の伊勢守家があり、信安が頭領を担っている。信長は立場としていえば清洲織田家の奉行(弾正忠家)ということになる。
実際はより混沌としている。
清洲織田家が斯波氏を討とうとしている。斯波氏が清洲の専横に不満を持ち、反旗を翻そうとしているーーというのが討つ理由である。確かに、力を押さえ込まれていた守護がそのように思っても不思議はないのだが、実際に反乱を企てる段階までには至っていなかった。
そのきっかけがあった。
清洲では織田信長の暗殺を計画していた。
斯波義統はその企てを密かに信長に知らせた。もちろん、それによって信長を味方につけようと考えたからだ。義統はさきの村木砦の戦いのさまを見て、信長軍の強さを改めて知った。それならば信長に付いて、守護としての自分の位置を確保する方が得策ではないかと考えた。
そのことは秘されていたのだが、細作らがそこらじゅうに潜んでいる時世である。清洲の大和守家頭領、織田信友がそれに気づいたのである。信長暗殺の計画は一端置かれ、裏切った斯波義統に狙いが定められた。
「安心して眠れるものではないな。この辺りは人がたやすく忍び込める」と雪沙はつぶやく。
「ああ、気は抜かん。それで、清洲では守護が余計なことを言わぬよう、潰す気らしい。わしは、この機に清洲に攻め込もうと思うとる」
「守護を守るという名目か。好都合ではあるな」と雪沙が信長の目を見る。
「然り」
雪沙は目を瞑る。そして、そのまま静かに告げる。
「先に動くな」
信長は目を丸くして雪沙に言葉を投げる。
「されど、このままでは」
「守護殿には密かに味方すると知らせてやればよい。確かに先手なり奇襲で上手くいくこともある。そうでない場合もある。こたびは得策ではない。ここで貴殿が先に出ていくと、要らぬ敵まで呼び込むだろう。まあ、私がいうまでもない」
雪沙の言葉に信長は静かにうなずいた。
「雪沙は兵法をよう承知しとるのきゃ」
「ああ、孫子は読み解いておった。だてに策彦(さくげん)師に付いてはおらぬ。漢語というのは絵のようで面白いが、私にはたいそう難物だった。師は漢籍に通暁すること比類なきお方、最低の弟子に最高の教師だ」と雪沙は微笑む。
「ほう、貴殿が最低とは思わぬ。わしも学んどったが、よほど浅いもんでいかん」
信長は自身の師である宗恩に聞こえなければよいが、とおもんばかりつつ、つぶやく。
「うむ、しかし実戦に勝る学びはない。どう攻めたらよいか、どう退いたらいかというのは指南書通りにいくものではない。常に最少の犠牲で、最大の成果を得ることに注力する。そのためには入念に支度もする。考えなしに勢いだけで進んではどこかでつまづく」
「支度とは、調略か」
「ああ、あとは金集めに兵や武器や食糧の調達、城下の整備、より強い力を持つもの、宗教者とのつながり……もろもろだ」
「ああ、そのいくつかはまだ、わしの手に負えないもんがあるみゃあ」と信長はバタンと大の字になって寝転ぶ。
雪沙はそれを表情を変えずに見やっている。
「貴殿の戦いは、まだ始まったばかり。それならばまず、よく様子を見ることだ。その間に必要なものを支度していったらいい。こたびの守護殿を巡るいさかいはそのようなものだ」
20歳の青年は寝っ転がって、天井の木目をぼんやりと眺めていた。
雪沙は自身のことをペラペラとは話さない。ただ、一言ひとことが深い学びと数多の経験に基づいたものであることは疑いようもなかった。この老人は、いったいどれほどの修羅場を潜り抜けて、ここに座すことになったのだろうか。
信長はそれを知りたかったが、「まだ話すに値するほどの信頼を得ていないだろう」と考えている。
雪沙は立ち上がるとき右側に重心を傾ける癖がある。その様子を見た信長が尋ねる。
「左腕にケガをしたのか」
「ああ、高い塔から飛び降りた。そうだな……十間(約18m)は優にあったが、二十間はないぐらいか。それで左半身をしたたかに打った。腕も折った」
「それは……十中八九、死ぬでや」と信長が驚く。
「そうだな。
私はなぜ生かされているのだろう。
それはずっと考えている」
「わしに逢うためだぎゃ」と信長がひょうげる。
雪沙は目を丸くしたが、黙って微笑む。
信長はまた勢いよく馬を駆って那古野城に帰っていった。蹄の音が遠くなるのを聞きながら、雪沙は草の香りを鼻からいっぱいに吸い込む。
陽は遠くなだらかに続く山の端にそろそろかかろうとしていた。
太陽が沈むのはいつでも西だ、と雪沙は考える。
太陽の沈む方角には京都があるのかと思うが、もっともっと西にひたすら歩いたらどこへ行くのか。船乗りたちの地図を見れば分かることだが、ここはマラッカやゴアよりも少し北なのだろう。
イェルサレム。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ。
そして、ローマ。
雪沙はキリスト教の3つの聖地を、来しかたを思い浮かべて気が遠くなるような心地を覚える。それはぼんやりとしていて、それが現実にあるのかどうかも判然としない。
それ以上のことを考えるのは空しいことのように思えるので、雪沙は去っていった若者のことを考える。
うつけと言われるあの頭領は、初めて会ったときより素直になったようだ、と雪沙は思う。あれがうつけならば、私もそうだっただろう。もっといえば、アレクサンドロス大王もそうだったはずだ。
それはひとつの型だ。
型破りという、ひとつの型だ。
そのような者には偉大な父親、教師なり、忠実な友が付く。アレクサンドロス大王にはアリストテレスがいたし、私には父のアレクサンデル6世(教皇)やミケロットがいた。
信長はどうだろう。
雪沙は風に吹かれながら、しばらく考えていた。
◆
変事はそのあと、起こるべくして起こった。
天文23年(1554)7月12日、守護・斯波義統の子、岩龍丸は供を連れて川漁に出かけた。屈強な若武者がずらりと付いている。若者が大勢で暑い日に水浴びをしに行ったという方がより分かりやすいだろう。
清洲城に接する斯波邸に残っているのはあるじの義統、最低限の家臣郎党や使用人だけだった。この隙を見て、清洲城から坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位ら家老の指揮する軍勢が一気に斯波邸に押し寄せたのである。
びっしりと包囲された斯波邸の守備は、残っている人数からすれば信じられないほど強固だった。
表を張って清洲勢をなぎ払っていたのは、同朋衆の一人だった。謡の名手であるが、「阿弥」と付く名だったので時宗の僧か僧兵なのか、仁王立ちから鑓を構える。目をかっと見開き、「ウオォォッ」と雄叫びをあげながら、自身に向かってくる清洲勢を遠慮なくバッサバッサとなぎ倒していく。しかし、寄せる軍勢に加え弓を四方から射掛けられ、ついには絶命した。
斯波家を守っていた森刑部丞兄弟も、軍勢が飛び込んでくる廊下側に立ち、刀を振り敵に立ち向かう。しかし多勢に無勢、二人はここで討ち死にする。裏口では柘花宗花という家臣が必死に守っていたが、討たれた。
万事休すである。
人が押し寄せ、矢はひゅうひゅう雨のように降り注ぐ。
邸内に残る尾張国守護・斯波義統をはじめ家臣・使用人は覚悟を決めた。屋敷に火が放たれ、皆次々と刺し違えて倒れた。いくらかの使用人は唯一の逃げ口である水路に飛び込んだが、渡りきって生き残った者もいるが、溺れた者も少なくなかった。
一方、川漁に出ていた岩龍丸一行は急使の報せに慌てて、湯浴み着のまま那古野の織田信長のもとへ一目散に逃げ、そのまま保護された。
このように、尾張の守護はあっけなく自害に追いやられたのだが、少なくとも当の本人は覚悟の上だったように思える。子に若い衆を付けて川漁に出したのも、家の存続と子の安寧を願う親心とも取れる。
いずれにせよここから、尾張国は織田大和守・弾正忠家が主導権を争う場と転じていくのである。
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
小童、宮本武蔵
雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。
備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。
その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。
宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。
だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く!
備考
宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助)
父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。
本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる