上 下
307 / 476
第10章 ふたりのルイスと魔王1

一緒に乗ってもらえばよかった 1553年 マラッカ

しおりを挟む

《フランシスコ・ザビエル、アルヴァロ・デ・アタイデ、ドゥアルテ・ダ・ガマ、バルタザール・ガーゴ、ペトロ・デ・アルカソヴァ、ドゥアルテ・ダ・シルヴァ、ルイス・デ・アルメイダ》

 明の沿岸にある三洲島を発った船は招かれるようにすいすいと海峡に入り、マラッカ(現在はマレーシアの都市)の姿を望む。

 その位置は慣れた船乗りでなくとも一目瞭然だ。延々と続く壁の向こうに巨大な石の壁が目に入る。それが一帯には二つとないこの町の目印だった。
 この要塞都市はポルトガルが40年ほど前の1511年に築いたものだ。インドのゴアがポルトガルの最大の拠点で、マラッカはそれに次ぐ大きさを誇る。どちらもポルトガルの実質的な支配下にある。



 ひときわ目立つサンティアゴ門を中心に建つ4つの見張り塔。その内側は本国の王が任命したポルトガル人が統治している。彼らはこの域内においては王と同等の権力を持っている。
 この町には弾薬庫も、商人が仕入れた品を取引する場も、両替所も、病院も、学校も、聖堂も、あるいはもっと世俗的な場所もある。
 辺りはポルトガル人や在地の人々でごった返している。子どもの姿も多く見られる。ポルトガル人と在地の人の間に生まれた子どもたちだ。

 このような政治のあり方に疑問を持たなければ、
 1年中真夏のじりじりした太陽にさらされることに慣れれば、
 しばしばバケツをひっくり返したような雨がぶちまけられることに腹が立たなければ、
 何よりも故郷に帰りたいという病にかからなければ、
 この町はそれなりに楽しいようだった。

 明の三洲島(サンチャン、現在の広東省の沿岸になる)からやってきた船もここにたどりついた。航海はすべからく順調で2月のうちにマラッカにたどり着いた。
 フランシスコ・ザビエルのなきがらが眠る棺もマラッカの乾いた風に吹かれている。

 マラッカは1年中ほぼ同じように暑い。
 ただこの時期は降雨が少ない。もう一月もすれば、風向きも変わる。ゴアに向かう船はのんびりと停泊しているわけにはいかなかった。

 遥かな旅を終えたナヴァーラ(スペイン)生まれの宣教師、フランシスコ・ザビエルのなきがらものんびりとはしていられなかった。ほんの少しの間、マラッカの聖堂に安置されただけで、棺は再び船に運ばれることになったのだ。

 それには現地の副王(ポルトガル人の提督)の意向も影響していたと思われる。
 アタイデという提督はフランシスコ・ザビエルのことを疎み、王の信任を得て日本に渡航しようとする彼を大っぴらに妨害した。本国から海を隔てて遥かに離れた南国では、ポルトガル国王ジョアン3世の勅許も遵守されるものではなかった。
 アタイデの妨害、それがザビエルの進路に大きな影を落としたことは間違いなかった。ザビエルは甘んじてそれを受けたが、嘆かわしいことに、アタイデは当時の心をさほど変えてはいなかった。
 彼はザビエルの遺体を見ない。
 多くの人々が驚嘆し、「奇跡だ」という人々の声が要塞都市の壁にこだましても、アタイデは見なかった。フランシスコ・ザビエルを窮地に追いやった当事者として、気が引けたのだろうか。
 表向きはとてもそのようには見えない。

 内心は畏れていたのかもしれない。

 わずかな滞在を経て、棺は三洲島から付き添ってきたアントニオやクリストバルとともに、インドのゴアに旅立っていったのである。

 その船がマラッカを発ってしばらく後、また別の船がマラッカの港に入った。ポルトガル商人ドゥアルテ・ダ・ガマのガレオン船である。

 マラッカに入ったこの船はフランシスコ・ザビエルとは縁があるので少し説明しておきたい。(※1)



 ガマの船はザビエルが最後の航海の途中まで、つまりインドのコーチンからマラッカまで乗船した船なのである。船はザビエル一行も乗せるつもりでいたが、乗る人が途中で変更になり彼らを乗せずに日本に向かうことになった。
 宣教師はこのときふた手に分かれている。
 明への宣教を志すザビエル一行と、日本宣教に入るバルタザール・ガーゴ司祭、ペトロ・デ・アルカソヴァ修士、ドゥアルテ・ダ・シルヴァ修士である。日本に行く人がガマの船に乗り、明を目指すザビエル一行と別れたのである。
 ガマの船は明の沿岸にあるランカパウ島に寄港して生糸や絹などの荷を積み込むと、一路肥前の平戸を目指した。
 平戸から関門海峡をくぐり抜け、山口の津に至るとようやく一行は船を下りてしばらく逗留することができた。
 日本宣教の一行はそこから新たな土地を耕すことになる。すでに日本に滞在しているコスメ・デ・トーレス司祭、ファン・フェルナンデス修士と合流して今後の活動をすすめるのだ。

 船で親しく付き合ったこともあって、商人のガーマは彼らの真摯さに強く打たれていた。この航海の途中でガーゴ司祭に亡き愛娘のためにミサを行ってもらったこともある。ガマは貿易取引で得た利益の少なくない額を宣教師らの属するイエズス会に寄進すると誓い、実際その通りにした。
 ガマの他にも、宣教師の活動に目を見張る青年がいた。同じ船に乗り、商人としての一歩を踏み出したばかりのリスボン生まれの青年、ルイス・デ・アルメイダだった。彼はリスボンの王立医学校で医師の免許を得たが、訳あってインド航路の船に乗り、はるばる日本までたどり着いたのだ。(※2)
 その話はまた追ってすることにしよう。


 そのような縁のあるガマの船が日本での商取引を済ませてマラッカに入った頃、かの地ではフランシスコ・ザビエルのなきがらの話が大きな話題になっていた。
 まるで生きているようであった。
 今にも目を覚ますかと思われた。
 あれほどの状態でなきがらが数ヵ月も保たれるはずはない。
 奇跡だ。

 ガマとアルメイダはその話を聞いて驚愕した。
 彼は、フランシスコ・ザビエルはマラッカまでではあるが一緒に旅をした人なのだ。彼が話し、動き、皆の姿を温かく見つめていたのをはっきりと覚えているのだ。つい最近のことだ。奇跡ではない。彼は生きていたのだ。自身の使命を果たそうとひたすら務めていたのだ。奇跡よりも彼がもうこの世を去ったことの方が彼らには信じられなかったのである。
 もちろん、マラッカでアタイデが執拗にザビエルを妨害したのも彼らは聞いた。それにしても、彼をマラッカに連れてきたのは自分たちの船なのだ……。

「無理にでもガーゴ司祭とともに再度日本に行ってもらうことができたかもしれない……誰も明の大陸に首尾よく入った試しはないのに、ザビエル司祭が入るのは無理だった。それどころか、あの島で病に倒れられるとは……冬のあの島にはなにもない。そんなところで最期を迎えなければならないとは。ああ、神よ、私は何というひどいことをしてしまったのでしょう。あの方を行かせるべきではなかった。そうするべきではなかった」

 ガマの嘆きをアルメイダは呆然と見つめることしかできなかった。そのような嘆きの言葉も出ないほど、衝撃を受けていたのである。

 自分のすべてをかけて、命さえかけて、故郷を遠く離れて、そこに戻ることもできないのに、地の果てほど遠いまで旅をする。そして願い叶わずあの方は倒れた。
 それほどまでにあの方を突き動かしたのは、あの方をひたすら前に進めたのは……。

 そのとき、アルメイダの脳裏にリスボンで見た光景がふっと浮かんだ。
 子どもの頃の鮮明な記憶。
 キリスト教徒であるのにユダヤ教徒であると密告されて、知り合いの一家が引き連れられていく。
 その表情は不安と悲しみに染められていた。
 王の肝煎りで設置された異端審問所に引き連れられていく。

 アルメイダはうつむいて、唇を噛みしめた。

※1と2 第7章に記載があります。
※3 第2章と第5章に記載があります。


しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻

初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。 1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。 霧深き北海で戦艦や空母が激突する! 「寒いのは苦手だよ」 「小説家になろう」と同時公開。 第四巻全23話

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

厄介叔父、山岡銀次郎捕物帳

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。

小童、宮本武蔵

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。 備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。 その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。 宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。 だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く! 備考 宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助) 父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。 本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。

霧衣物語

水戸けい
歴史・時代
 竹井田晴信は、霧衣の国主であり父親の孝信の悪政を、民から訴えられた。家臣らからも勧められ、父を姉婿のいる茅野へと追放する。  父親が国内の里の郷士から人質を取っていたと知り、そこまでしなければ離反をされかねないほど、酷い事をしていたのかと胸を痛める。  人質は全て帰すと決めた晴信に、共に育った牟鍋克頼が、村杉の里の人質、栄は残せと進言する。村杉の里は、隣国の紀和と通じ、謀反を起こそうとしている気配があるからと。  国政に苦しむ民を助けるために逃がしているなら良いではないかと、晴信は思う、克頼が頑なに「帰してはならない」と言うので、晴信は栄と会う事にする。

処理中です...