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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
コジモの初めての戦い 1537年 フィレンツェ
しおりを挟む〈コジモ・ディ・メディチ、マリア・サルヴィアーティ〉
フランスでカトリーヌが国王フランソワ1世になぐさめれていたのと相前後して、彼女の故郷フィレンツェでも騒ぎが起こっていた。
アレッサンドロ亡き後、メディチ家の当主として立てられることになった時、コジモはフィレンツェから少し離れたトレッピオの別荘に滞在し、日々狩猟に明け暮れていた。この別荘は彼の父親、「黒隊のジョヴァンニ」の所有していた建物である。
彼はアレッサンドロの跡を継ぐことになったという一報を受けて、フィレンツェに戻る仕度を始めた。そこにさらなる一報が届く。アレッサンドロが世を去ったことで、いっとき公爵空位のうちにフィレンツェの実権を奪取しようと、ストロッツィ、アルヴィッツィなど亡命していた貴族が蜂起したというのである。
「さっそくお越しなさった」とコジモはつぶやくと、すぐにフィレンツェに駐留している神聖ローマ皇帝軍に召集をかけた。もちろん、同時に事態の急を当の神聖ローマ皇帝カール5世に伝え軍の指揮を取る許可を願い出る。戦闘態勢に入ることに、少しのためらいもなかった。
父親と祖母の家系のコンドッティアーレ(傭兵隊長、選り抜きの軍人)の血だろうか、この青年は生まれながらにして生え抜きの軍人、いや、司令官になる資質を持っているようだった。
1537年の7月、モンテムルロでフィレンツェ貴族の蜂起軍とコジモ軍は激突する。しかし、コジモ率いる皇帝軍は完全に統制が取れており、蜂起軍はまったくなすすべもない。味方があっという間にバサバサと倒されていくのを見たストロッツィらはすぐに力の差に気がついた。降伏するのに時間はかからなかった。
コジモは自分が何をすべきか、重々承知していた。捕虜の蜂起軍を縄で繋いで引き連れ、悠々とフィレンツェに凱旋した。これはフィレンツェ公の華々しい登場の場面として人々の目に映った。それだけではない。彼は蜂起の首謀者を市中じゅう引き回し、アレッサンドロの要塞のひとつ、フォルテッツァ・ダ・パッソで処刑したのだ。
これまでしばしば見られたように、広場で処刑しなかったのはわけがある。まだ正式に皇帝からの承認のないうちに「君主」然として振る舞い、戦いに勝った勢いで処刑を命じるなど、決して人々から暴挙と謗られることがあってはならない。これはアレッサンドロ亡き後のフィレンツェの騒乱の芽を摘み取っただけーーそれが堂々とした彼の大義名分であった。
このとき18歳になったばかりの青年は恐ろしく例利な政治家の片鱗を現している。
「見事なお手際だこと。自分の息子だとは思えないほどだわ」
メディチ邸でコジモを出迎えたマリアはいつもの静かな口調でそう告げた。コジモは甲冑姿を解いた姿で、堂々と母親の前に立っていた。
「母上がこちらにいると聞いたので、まっしぐらに馬を駆ってきました」
「そうね……もうマンマではないわね……とにかく、あなたが無事でよかった……」とマリアはつぶやく。
コジモがよくよく見ると、彼女のヴェールは小刻みに揺れている。
泣いているのだ。
コジモは優しい顔になる。そして母親に尋ねる。
「母上、父上はこのようなとき、どうされたでしょう」
マリアは赤い目でコジモを見上げて微笑む。
「ジョヴァンニもこうしたと思うわ。いえ、あの人の方が剛毅だったかしら」
「それならば、まだ僕には鍛練が必要だということですね」
母親は微笑んだままだ。
アレッサンドロの遺児ふたりはメディチの縁者に預けられている。マリアが唯一気にかけているのは、このふたりをコジモが亡きものにしないかということだった。対立しうる係累がいれば、のちに争いの種になるのは珍しくない。まだ年端もいかない子どものうちに、消えてもらったほうがいいと考えても不思議はないのだ。
マリアは下の子どもの養育係を勤めていた。母親は愛人なので早々に追い出され、父親も殺されてしまった。マリアは子どもが不憫で仕方なかったのだ。
マリアがおそるおそるコジモに告げるとコジモは即座にそれを否定した。
「ああ、母上ならばそうおっしゃると思っていました。最近まで育てていた子なのですから。
もちろん、子どもたちに、身内に手をかけるようなことはしませんよ。メディチ家の歴代でもそのような当主はいなかったでしょう。アレッサンドロとイッポーリトだって、教皇が関わってこなければ……僕にはその影響が及ばなかったので幸いでした」と言ってうつむく。
マリアは安堵している。
「ありがとう、コジモ。さて、あなたはこれからどこに住むのかしら」
「しばらくはここに住みます。別荘の荷物を引き上げなければ」とコジモは微笑む。
少し経つと、メディチ邸には次々とコジモの荷物が運び込まれた。立派な駿馬と馬具、武具などこれまでのメディチ家には少々そぐわないものも含まれている。
「本当にあなたは、根っからの軍人なのね」とマリアは半ば呆れ顔で言う。
「いや、書物もありますよ」とコジモは手にしたものをマリアに渡す。
「ああ、ニッコロ・マキアヴェッリの『君主論』ね」
「はい、僕の愛読書ですよ」とコジモは笑う。
「あら、知らなかったわ」とマリアは驚く。
「僕が気に入っている文章は……あ、ここだ」
マリアはそれを読む。
「民衆からヴァレンティーノ公と呼ばれたチェーザレ・ボルジアは、父親の運命によって政体を獲得し、同じものによってそれを失ったが、彼としては他者の軍備や運命によって譲り受けたあの政体のなかで、自分の根っ子を張るために、賢明で有能な人物がなすべき一切の事柄を行ない、手立てのかぎりを尽くしたのではあった。なぜならば、先に述べたように、前もって土台を築いていない者であっても、大きな力量の持主であれば、後になってこれを固めることができないわけではないから。ただし、建築家のほうはひどい苦労をし、建造物には危険を伴ってしまうが。したがって、もし公の歩んだ来歴をつぶさに熟慮してみるならば、彼が将来の権勢のために大きな土台を築いていたのが看て取れるであろう。これを論ずるのが余計なことである、と私は判断しない。なぜならば、彼の行動の実例以上に、新しい君主にとってすぐれた規範を示してくれるものを私は知らないから。そして、彼の行動様式が実益をもたらさなかったとしても、それは彼の罪ではなかったのである。なぜならば、それは甚だしく極端な運命の悪意が生み出したものであったから」
(引用 「君主論」マキアヴェッリ著 河島英昭訳 岩波文庫)
「大きな力量の持主であれば、後になってこれを固めることができないわけではないからーと、ここの部分が特に気に入っているんだ。どうしてかな、公爵を継ぐことになったら、やたらとこの本を思い出すんだ。それに…」
「それに?」とマリアが尋ねる。
「カトリーヌが、ぼくに教えてくれたんだ」
「カトリーヌが?」
「この書物は小さいロレンツォ、カトリーヌの父親に捧げられているんだ。メディチ家の当主に。彼女はね、あるときアレッサンドロにこの書物を渡そうとしたそうだ。でも彼は書物にまったく興味がなかったらしく、手に渡らずじまいさ。それで終わり。もったいないことだ。これは『当主』のためのものだというのにね」
マリアはうなずいて、書物をパタンと閉じて、コジモに返す。
「それで、興味深いところはあったかしら」
「ええ、僕はチェーザレ・ボルジアに学ぼうと思っているんだ」
マリアはその名前を聞くのが久しぶりだったので、少し驚いていた。
「チェーザレ……」
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