16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

カトリーヌは王の支持を得る 1537年 フォンテーヌブロー

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、フランス王フランソワ1世、エタンプ公爵夫人、ディアンヌ・ド・ポワティエ、王太子アンリ〉

 フォンテーヌブローの森の濃い緑をちらりと目に入れながら、カトリーヌは王の謁見の間に急ぐ。王フランソワ1世に謁見することがすぐに許されたのだ。

 いつもは夫のアンリと一緒なので、「何か尋常でない用向きか」と疑念を持たれはしないだろうかとカトリーヌは少し心配していた。だが、出迎えた王はにこやかにカトリーヌを出迎えた。その脇には王妃ならぬ愛人のエタンプ夫人が付いていた。

「カトリーヌ、このように会うのは久しぶりだ。相変わらず本は読んでいるのか」
「はい、陛下。最近はフランス語の書物もあるようなのですが、まだ読む方が慣れておりません。子どものように勉強中です」とカトリーヌは答える。
「いやいや、そなたはアンリよりはるかに知識を得ていると思う。私はそなたと話している方がよほどおもしろい。さて、今日はどのようなことか」と王は気さくに尋ねる。
 すると、側のエタンプ夫人が王を横目で見やっていう。
「陛下、女性にそのようにぶしつけに聞いてはいけませんわ。カトリーヌ、もし悩みがあるのなら同じ女性として私にも役に立てることがあると思うの。もし、私が外した方がよければそうするけれど……」

 カトリーヌはエタンプ夫人の姿を仰ぎ見る。
 アンヌ・ド・ピスルー・デイリー、それが彼女の名だ。1508年生まれで、あのディアンヌより9歳年下。カトリーヌは瞬時にそれをそらんじてみる。でも、エタンプ夫人にはディアンヌのように艶めいたところはない。目の前に座っているのは、少し痩せ気味の、それほど美人ともいえない、けれど今は心配そうに自分を見ている女性だ。
 カトリーヌは咄嗟に考える。
「エタンプ夫人、そのようにおっしゃっていただけて光栄です。どうか留まっていてくださいませ。そうなのです。私は夫の子を身ごもることができないので、とても悩んでおります」
 王とエタンプ夫人は大きくうなずく。
「私と陛下も気にかけていたの。子のことではないの。そなたがそれを気に病んでいるのではないかと」とエタンプ夫人はため息をつく。王もそれには同意する。
「確かに、フランソワ(王太子)が突然世を去って、そなたも子を産まなければならないという重圧がかかってしまっただろう。かわいそうに」と王は声をかける。
 カトリーヌは二人の言葉を聞くと、唇をかみしめて、それでもまっすぐに正面を向く。

「私はもう、離縁されてフィレンツェに戻されても仕方ないと思っております」

 それはカトリーヌが最も恐れていることだったし、かまびすしい王室周りの雀たちが噂していることでもあった。それをはっきりさせなければ、カトリーヌの不安が消えることはないのだ。問題の核心といってよい。

 フランソワ1世はこの言葉を聞いて、しばらく黙ったままでいる。エタンプ夫人は王の横顔をじっと見ている。そして、ゆっくりとカトリーヌに語りかける。

「私はそのようなことは一度も考えたことがない。そなたをこの国に迎えてから一度も、と言ってよい。前にも申したが、そなたは聡明で、王室に迎えるにふさわしい優雅さを身につけている。私はそなた以上の太子妃はいないと思った。なので、クレメンス7世がいくつかの約束を履行しないときも、怒りはしたが、そなたを手放そうとは思わなかった。それを、4年子どもができないからといって、帰れなどというはずはない。それに、姉のマルグリットがそなたをたいそう気に入っているのも知っているだろう」

 エタンプ夫人は王の長い言葉を、目を見張って聞いていた。彼女も、王がそれほどカトリーヌのことを買っているとは思っていなかったらしい。彼女は王の言葉が終わると、大きく何度もうなずいている。
「それに、そなたに子ができないのは、邪魔をしている者がいるためではないのですか。寝所をともにしなければ、子ができるはずもございません。かような思いをすることがどれほど辛いことか」
 エタンプ夫人の言葉に王は眉毛を動かした。
「アンリの方に問題があるのだ。それは私も承知している。身体ではなく、心にだ。カトリーヌ、子をなすのに根気が必要な場合もある。そなたにはどうか、もう少し辛抱してもらえないだろうか」

 カトリーヌは王とエタンプ夫人の言葉を聞いて、この二人が自分の側に付いている、取りあえず今はーーと確信できた。
 特にエタンプ夫人はディアンヌとは犬猿の仲なので、カトリーヌに付くのは自然なことである。
 それはカトリーヌを真底安心させる材料だった。
 いつまでも同じかは疑わしいけれど。

「陛下、公爵夫人、今の私には身に余るお言葉でございます。これまでアンリともこの話をすることができずにまいりました。でも今、お言葉をいただいて本当に救われました」とカトリーヌは深く頭を下げている。

 3人の時間は和やかに過ぎていった。

 この会談は効を奏したようである。王とエタンプ夫人がカトリーヌを支持したという話は王宮じゅうに知れ渡る。そして、ディアンヌも自身の振る舞いを当面控えなければならなくなった。いくら我が物顔でいても、王には逆らえない。そのようなことをしたら、陰謀罪やら反逆罪であり、どのような罰を与えられるか。
 ディアンヌはくるりと方向を変えて、カトリーヌへの態度は改めることにした。アンリを独占するのも控えることにしたようだ。カトリーヌに子が生まれないと、自分の責任になってしまう。ただ、この愛人はアンリの愛情はいささかも譲る気はないのだ。

 カトリーヌはディアンヌを忌々しい存在だと思っているが、それを表に出すことはない。この2人の女の関係は奇妙に形を変えながら長く続くことになるだろう。

 少し先のことになるが、カトリーヌは24歳に第一子を出産して以降、35歳まで毎年出産を繰り返すことになる。11人の子を産むのである。
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