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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

夫の初めての子が生まれる 1537年 フォンテーヌブロー

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〈カトリーヌ・ディ・メディシス、コジモ・デ・メディチ、王太子アンリ、ディアンヌ・ド・ポワティエ、国王フランソワ1世、フランシスコ・ボルハ〉

 自身が「王太子の毒殺を狙っていた」とあらぬ噂を立てられる悶着はあったものの、カトリーヌ・ド・メディシスはフランスの王太子妃になった。
 簡単に書いたが、これはたいへんな変化である。これまでは王子とはいえ次男坊だったアンリはオルレアン公爵であり、カトリーヌは公爵妃だったのだ。王太子妃というのは、途中で何か問題が起こらなければ将来王妃になるということだ。『イタリアの商人あがり』と当初悪意や好奇を持って迎えられたのが、王妃になる道に付いたのだ。
 この違いはかなり大きい。

 立場が変わって彼女を取り巻く環境が変わったかといえば、そうではなかった。
 フィレンツェからやってきた取り巻きは心強い味方ではあったが、それ以外はまったく変わらなかった。相変わらず夫はディアンヌとの逢瀬に時間を費やしていたし、時には他の女性が部屋にいることもあった。そのうちに国王フランソワ1世は、イタリア半島への夢を捨てられず戦いに打って出る。
 アンリがともに出征すると、カトリーヌはやっと心を落ち着かせる。
 さすがのディアンヌも戦争まで愛人として付いていったりはできないからである。

 この戦争について少しだけ触れておく。

 発端となったのは1535年、ミラノのフランチェスコ・スフォルツァ(2世)が後継を立てずに死去したことだ。神聖ローマ皇帝カール5世はスフォルツァ公の妻の縁戚だったことからその継承権を主張する。ローマを含めイタリア半島の各国は異義なくそれを認めたので、皇帝はミラノ公となった。

 それだけでもフランス王には面白くない。ミラノはフランスがずっと思い焦がれてきた土地なのだ。そして、カール5世はすぐに、子のフィリペにミラノ公を譲ってしまう。フランスはそれを不服とし、ミラノに侵攻を開始した。
 1536年3月、フランスはピエモンテを経てトリノ
に進む。4月にはトリノを陥落したが、カール世は直ちに反撃に出てフランス領内に軍靴で踏み込んだ。しかし、フランスがオスマン・トルコと協力関係を結んでおり、フランスが陸を封鎖し逃げ場がなくなった軍勢に大打撃を与えた。その上に、オスマントルコが海から攻撃を仕掛けてくる可能性もあった。皇帝軍はフランスから早々に撤退した。
 この軍勢の中にスペイン・ヴァレンシア地方出身の青年がいた。皇帝のスペイン側の家臣の一人で、チェーザレ・ボルジアの弟の孫である。彼はこの後、人生の大きな転機を迎えることになるだろう。※1

 フランスは神聖ローマ帝国とイタリア半島をめぐってもう40年も戦争を繰り返している(後世、これらの戦いは総称して『イタリア戦争』と呼ばれることになる)。フランスはミラノを何度か手中に収めたものの、続く戦闘で撤退することを繰り返してきた。
 この段にいたって再度ミラノを手に入れられたのだから、それを意地でも死守したい。それがフランソワ1世の心情だっただろう。そして、本隊から離れた場所で男もたまげるような活躍をしたのは、王の姉であるマルグリット・ド・ナヴァールだった。彼女はみずから武装し、銃を取り、剣を振り回しながら城塞の上で兵を指揮したのである。
 ジャンヌ・ダルク以来の女傑であった。

 いずれにしても、この戦闘で大きな自信を得たのはカトリーヌの夫・アンリだっただろう。もちろん戦闘で勇敢に戦いもしたのだが、それ以外の戦利品も持って帰ってきたのである。
 現地で親しくなり、アンリの種を宿した女性である。名をフィリッパ・ドゥッチという。フィリッパは年明けに無事に女児を出産した。

 1537年、カトリーヌもフィレンツェのコジモも18歳になる。
 まだ若いこの二人はフォンテーヌブローとフィレンツェで統治者への第一歩を踏み出していた。とはいえ、そこに至るには鉄のような意志を持って、イバラの道を進まなければならない。

 この年は王太子妃のカトリーヌにとって、変わらず忍耐の年だ。
 彼女がこの頃に最も衝撃を受けていたのはアンリが女性を妊娠させたということだった。それが自分以外の誰でも衝撃的な事柄であるのは、女性ならば理解できるはずだ。ただそれ以上に、カトリーヌはひどく打ちのめされていた。

 彼女には妊娠の徴候がまったくなかったからである。

 もう、カトリーヌとアンリのどちらに困難があるのだろうと宮廷の人々に噂されて久しい。かまびすしく口さがないものである。それが今回、アンリは女性を妊娠させた。するとカトリーヌに困難があるのだと噂はあれこれ予想を立てるようになる。

ーー結婚してもう4年になるわ。
ーーやっぱり「イタリアのお嬢さん」よねえ。
ーー愛人が子どもを産むから、ご自身は身軽でよろしいこと。気にならないなんて、ふてぶてしくてよ。
ーーそれならば、宮廷にいる意味はないのではないかしら。

 それらの言葉でカトリーヌは鞭打たれるような思いがした。カトリーヌ自身がそれをずっと悩み続けているのに。女性として足りないものばかりではないかと、自分を責め続ける夜もある。
 もっともよい処方箋は……夫が優しく愛してやることなのだろうが、それは王冠より遠いものに思えた。


※1 この戦いのより詳しい内容は第5章の『ソッラはどこにいる?』の節にありますので、ご参照ください。
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