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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
カインとアベル 1535年 ローマ
しおりを挟む〈カトリーヌ・ド・メディシス、マリア・サルヴィアーティ、コジモ・メディチ、教皇パウルス3世、ミケランジェロ・ブォナローティ〉
ルクレツィアの手紙を読んだマリア・サルヴィアーティはフィレンツェに不穏な空気があるのを悟って、イタリアに戻ることを決めた。ただ、カトリーヌにどう伝えたらいいか、十分に考えていた。聡いカトリーヌが十分に納得する理由でなければ、返って心配させるだけになる。
十分に心配させうる事情なだけに、なおさらである。
「え、コジモに結婚の話があるの?」
まだ朝早い時間である。カトリーヌはまだ髪も整えておらず、部屋着でマリアの前に立っている。まさに寝耳に水の話だった。
ただその驚きは喜びの混じったものだった。
マリアの息子、コジモはカトリーヌと同じ年齢で誕生日も2カ月しか違わない。
ルクレツィアの孫で、マリアの子。二人の女性に深い愛情を受けてきたカトリーヌにとって、コジモを親族として好ましく思うのは自然なことだった。それだけではない。コジモは父のような立派な軍人になりたいという夢にまっすぐ向かっていて、自身の鍛練が興味の中心だ。少なくともこのとき権力や名誉を求める欲を持っていない。加えて、母とともに商都ヴェネツィアに長く逗留していたので、人付き合いにも長けていた。
名高い統率者が幼い頃はそうであったと評されるように、彼は素直で快活な少年なのだ。
アレッサンドロともイッポーリトとも違っていた。
これまでのメディチ家にはいない型の人間なのかもしれない。
マリアはすらすらと口上を述べる。
「そうなの。まだ話が出たばかりのようなので、相手が誰かは言えないけれど、半島中部の貴族の女性よ。ただ、コジモは結婚したくないと言って、アレッサンドロの話をはねつけたようなの。母ではどうも手に負えないので、私に来てほしいと」
マリアはうまく嘘をつくことができたようだ。
カトリーヌは目を丸くしてうなずく。
「そうね、そういうとき、アレッサンドロは譲らないだろうから、コジモを説得したほうが賢明ね。きっと」
「その通り」とマリアは言葉少なに答える。
沈黙は金、余計な弁明はしないに限る。
マリアが去っていくのはカトリーヌにとって痛手だった。それでもまだイタリアから来て気心の知れた使用人たちがいたし、夫のアンリも彼なりに優しくカトリーヌに接していた。この頃のアンリとカトリーヌの新婚家庭は上手くいっている。
だからこそ、マリアも帰る気になったのだ。
◆
この頃、ローマにはミケランジェロ・ブォナローティが滞在していた。新しい教皇パウルス3世は彼を呼び寄せて、新しい仕事を依頼していたのである。
バチカンのシスティーナ礼拝堂には20年以上前に彼が完成させた『天地創造』の大天井画がある。それに合わせての祭壇画を描いてほしいという依頼である。それは前教皇のクレメンス7世の頃からの話だったが、ミケランジェロは受けていなかったのだ。
長くローマにいるパウルス3世はミケランジェロをよく見ていた。
メディチ家と縁が深いばかりに(ミケランジェロは若い頃メディチ家に下宿していた)、その都合で仕事を命じられ、変更され、中断を余儀なくされてきたいきさつ、不運を知っていた。
ローマでは教皇ユリウス2世に見込まれて『天地創造』を完成させたのだが、その後メディチ家の横やりが入って、教皇の廟所建設が頓挫した。おかげでユリウス2世の一族からは訴訟を起こされて、ミケランジェロは長く足枷をはめられたような状態になる。
地元フィレンツェでも、彼の仕事は首尾よくは進まなかった。実際、1520年代、ミケランジェロはメディチ家から大きな仕事をいくつも任されていたが、完成に至ったものはほとんどなかった。彼の設計で唯一完成したのは、蜂起した市民軍のために築いた防御柵や砦だけだった。
それらが本格的に使われないまま、市民(共和国)軍は神聖ローマ帝国軍と教皇軍の前に膝を屈した。ミケランジェロはあらゆる追及を恐れて、しばらく地下室に身を隠さざるをえなかった。
パウルス3世はミケランジェロを心から憐れだと考えていた。そして、彼の偉大な才能をメディチ家や訴訟に潰えさせるわけにはいかないと強く感じていた。ミケランジェロはもう60歳なのだ。
「もう時間はそれほど残っていない」
彼より老いている教皇はそれがよく分かっていたので、これからは彼をローマにとどめ、芸術家が終生、仕事を思う存分にできる環境を整えてやることに決めた。
ミケランジェロはパウルス3世の厚意をよく理解して、もうフィレンツェに戻らないと決心する。
このとき彼はローマに居を構え、芸術に造詣の深い貴族と交流を重ねている。そうして彼の活動の基盤はやっと安定するのである。そして、畢竟の大作に取りかかるのだ。
『最後の審判』である。
新しい教皇はしばしば折を見て、ミケランジェロの作業場(システィーナ礼拝堂)に足を向けている。
ミケランジェロもこの全面的な庇護者に心を開いていた。ミケランジェロは人の噂に興じるような性格ではないので、立場は踏まえつつも、教皇は気さくに話をする。ただ、その時には高く組んでいる足場からミケランジェロが降りていないといけない。足場は恐ろしく高く組まれ、慣れた人間でないと目が回って上がれないほどだった。
運良くこの日はミケランジェロは地上にいた。
「いろいろな筋から情報がもたらされるのだが、メディチの二人の関係はもう壊れてしまったようだ」と教皇はつぶやく。
「ああ、アレッサンドロ公とイッポーリト枢機卿ですね。もう何年も前からそうなんだろうと思いますよ」とミケランジェロは教皇に答える。
「メディチ家正嫡の娘がフランスに嫁いで、均整が崩れたのだろうか。枢機卿はナポリに派遣して、とりあえずフィレンツェから離すようにしたのだが」と教皇は表情を曇らせる。その様子にミケランジェロはただならぬものを感じた。
「何かあったのですか」
「枢機卿は途中のイトリに滞在しているが、体調を崩している。さきほど急使が報せてきたが……危篤状態だそうだ」と教皇は静かに告げる。しかし、その声は思いの外礼拝堂にさざ波のように響き渡った。
「危篤? 病気ですか」
「それは、分からない。周囲に体調を崩している者はいないようだが……あまりにも急なことではある」
「まさか……」
「前の教皇のときも似たような症状だったと聞いているが、決めつけることはできない」
「まさか……」ともう一度ミケランジェロはつぶやいて、自分が若かりし日に描いた天井画を仰いだ。そこには創造主とアダムの手が触れる場面があった。
「まるで、カインとアベルではないですか……教皇さま」
そう言ってミケランジェロは天井を仰ぎ続けた。
教皇は目を伏せると静かに十字を切った。
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