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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
フランス宮廷の内情 1534年 フォンテーヌブロー
しおりを挟む〈カトリーヌ・ド・メディシス、フランス王家の人びと〉
カトリーヌの暮らすフランス王国の宮廷はさまざまな人間によって構成されている。ここまで詳しく述べていなかったので、書いていこう。
カトリーヌはもうとっくに飲み込んでいることがらなのだ。
まず国王のフランソワ1世。彼は何度も出てきているので改めてくどくどは書かないが、仇敵が神聖ローマ皇帝カール5世であり、イタリア半島の領有を狙っていることは通して変わらない。先代のシャルル7世の治世から起こった「イタリア戦争」はまだ間欠的に続いている。
王妃のエレオノール。レオノール・デ・アウストリアというのが正確な名称である。
彼女は継室(後妻)である。王との間に子はいない。みな先妻らの子である。エレオノールについては少し詳しく記すが、彼女はスペインの出身である。美王と呼ばれたハプスブルグ家のフィリペとカスティーリャ女王ファナの娘である。神聖ローマ皇帝カール5世もフィリペとファナの子であるので、エレオノールと皇帝はきょうだいということになる。ただ、皇帝は幼少からハプスブルグ家の宮廷で育ったため、深い交流はなかったようである。
美王フィリペとファナ女王はこれまでの章でもたびたび登場しているが、ここでも簡単に触れておく。
コロンブスを新大陸に送り出したことで有名な、イザベラとフェルナンドの国王夫妻の娘がファナであり、先代の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫がフィリペである。
つまり、エレオノールとカール5世はスペイン王と神聖ローマ皇帝の正統な血筋を引いているということだ。
そして、フランス王の子どもたち。
ルイーズ(1515~1518)、シャルロット(1516~1524年)、王太子・ブルターニュ公フランソワ(1518年~)、オルレアン公アンリ(1519年 ~)、マドレーヌ(1520年 ~)、シャルル(1522年 ~)、マルグリット(1523年 ~) の順番で7人いる。
最初の女子二人はこのときすでに世を去っている。フランソワが長子で次期国王、アンリがそれを補佐するというのが決定事項だが、女子はまだ嫁ぎ先を検討している状態だ。
国を治める家では政略結婚は当たり前のことで、誰と結婚するかというのは国家にとって非常に重要なことだった。
あとは国王の姉、ナヴァーラ王国女王のマルグリットを出しておかなければならない。文芸をこよなく愛するマルグリットは花の都市フィレンツェからやってきた少女に初めからたいへん好感を持っていた。
この後もカトリーヌの庇護者となるだろう。
さて、王の家族については以上だが、それさえ覚えればよいというわけではない。王宮には廷臣、女官、裁判官、枢機卿(聖職者)、教師、軍人、寵姫のほか、多くの使用人もいるのだ。
カトリーヌもそれを覚えるため慎重に観察をしていた。名前と職務を覚えればいいという話ではない。それぞれの人々の力関係を知ることが重要だとすぐに察したのだ。婚礼の祝宴で、長丁場の移動で彼女は、おぼろげにその複雑さを垣間見た気がした。
みずから名乗ってきたディアンヌ・ド・ポワティエ、彼女はもともと、既婚の貴族女性として王や子どもたちに付くのが務めだった。それが長くなるにつれ、自分をもう少し高く扱ってほしいという欲望に目覚めたようだ。エレオノールが再嫁してきたときも(王も新王妃も再婚なのだ)、自分が宮廷に長くいることを鼻にかけているふしがあった。ただし、それは表に出されなかったので王妃とディアンヌは平穏な関係だったといえる。
それは「直接の利害がないからだ」という見方もできる。
ここでフランソワ1世の寵姫が登場する。アンヌ・ド・ピスルーという女性である。王妃エレオノールも美しい女性だったが、アンヌも負けてはいないというのが宮廷内でひそかに言われている。王とアンヌの関係は新王妃がやってくる以前から始まっていた。アンヌはこれまで築いたものを盾にして暗に王妃を軽んじた振る舞いをする。廷臣に人脈を作り始める。さらに悪いことに、王もアンヌを守ろうとする。
エレオノールが面白く思わないのは自然のなりゆきで、この2者が最も険悪な雰囲気になっている。
王妃と寵姫の関係だけで、ひとつ小説が書けそうだがここではあまり重要なことではない。重要になるとすれば、その人間関係が「痴情のもつれ」以上の影響を及ぼすようになってからである。
アンヌはじきに王の計らいでエタンプ公爵と結婚する。しかし、エタンプ公爵夫人となって以降も変わらず宮廷に出入りし、王との実質的な関係もまったく変わらなかった。いや、返って堂々としていると言ったほうがよい。
王をめぐる三角関係にディアンヌは関わりがない。
彼女の狙いは王子アンリなのである。不謹慎と言われるかもしれないが、王位が移った後で誰がもっとも頼れるかと考えたのだろう。そしてたまたま(恋というのは往々にしてそうである)、次男のアンリが骨抜きになるほどディアンヌに惚れ込んでしまった。それが現在の状況につながるのだ。
自分に思いを寄せてくるのが王太子フランソワであれば、フランソワを誘惑したかもしれない。恋はたまたまなのである。
ディアンヌとアンリの、まだプラトニックな秘めごとを除けば、カトリーヌは女性の遠慮ない戦いの内容を知ることができた。それは宮廷内では公然の秘密だったので、少し黙って聞いていればいくらでも入ってくるのだった。
ここまでは女性がらみの話である。
そこからまた、さまざまな人間関係がぬうっと現れるのである。
カトリーヌはそれをただ観察するようつとめていた。自分がどのような立場を取ればよいか、迷うときもあるだろうと考えていたからである。
大おじのクレメンス7世がローマで亡くなったことも少なからずカトリーヌに影響していた。後ろ楯がなくなっても、カトリーヌには影響しないと言われた。しかし、それは今だけのことかもしれない。
紆余曲折ばかりだった少公女が身につけた、極度の慎重さがなせるわざだった。
彼女はイタリアで起こっていることに、思いを馳せる余裕がなかった。
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