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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

バチカンの長老 1534年 ローマ

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〈新教皇パウルス3世、前教皇クレメンス7世〉

 教皇クレメンス7世が崩御したことで、ふたたび新教皇を選出するためのコンクラーベが開かれていた。
 この会議は枢機卿によって行なわれ、新教皇は枢機卿の互選で選ばれる。この会議は投票を繰り返して、最終的に全員一致のうえ新教皇を決めるのだ。長い場合、この会議は数ヶ月かかる。

 しかし今回の場合、長くはかからなかった。
 クレメンス7世の崩御が1534年9月25日、新教皇の決定は10月13日だった。実質2週間ほどで決まったのである。
 選ばれたのは、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿だった。彼は教皇パウルス(パウロ)3世として即位する。
 これまで、メディチ家出身の教皇が断続的に続いていた。レオ10世(在位1513~1521)、クレメンス7世(在位1523~1534)である。この20年間、ローマには災難が続いた。ひとつは神聖ローマ帝国(現在のドイツ)領内でプロテスタントが勃興したこと。もうひとつは1527年のローマ劫略である。いずれも、直接教皇が関わったことではないが、まったく無縁とも言えなかった。そして、レオ10世の時代に財政状態が極端に逼迫したことも忘れてはならない。おかげで、サン・ピエトロ大聖堂の改修がずっと保留になっていたのだ。

 新しい教皇、パウルス3世はそれら負の遺産、とりわけプロテスタントへの対策と財政再建の二つに真剣に取り組まねばならなかった。それならばさぞかし若い教皇なのだろうと思うところだが、違う。新教皇はこの年66歳になっていた。彼が枢機卿に任命されたのは、もう前の世紀のことである。このときには教皇庁大学の学長を務めていた。名実ともにバチカンの長老といって差し支えない。改革が求められる時代には、若くて覇気がある者よりも、これまでのいきさつをよく知った者がうまく政治力を発揮して切り抜けられる場合もある。このときはそういうことだったのだろう。

 新教皇はイタリア半島出身の人である。そのことについて少し書いておこう。

 ファルネーゼ家は貴族の家柄でトスカーナ地方のカニーノに領地があった。コンドッティアーレ(傭兵隊長)を輩出するような「武家」ではない。地方の平凡な小領主、というのが最も適切だろう。この家が歴史の舞台に躍り出るのは、ひとりのスペイン人との関わりによる。
 ロドリーゴ・ボルジア枢機卿、のちに教皇アレクサンデル6世(在位1494~1503)となる人である。ファルネーゼ家の娘が彼と懇ろな関係になり、その娘の弟であるアレッサンドロも庇護を受けるようになるのである。ただ、アレッサンドロ青年はあまり品行方正ではなかったらしい。聖職に就いたが暴力事件を起こして、悪名高いカスタル・サンタンジェロの地下牢に幽閉されたこともある。解放するよう、ボルジア枢機卿がとりなしたといわれている。
 教皇アレクサンデル6世は16世紀に入って間もなく
崩御し、ボルジアの一族も没落した。続く教皇ユリウス2世はボルジア派の枢機卿を閉め出しにかかった。
 それでも、ファルネーゼ枢機卿は失脚しなかった。そしてようやく66歳になって、教皇の座を得たのである。

 そして、新教皇には早々に解決しなければならないことがあった。前の教皇が死に至った理由を解明することである。クレメンス7世の死が唐突なものだったからである。重い持病もなかったし、死の前年には長いフランス訪問もこなしていた。
 同じくメディチ家出身のレオ10世のときにも毒殺未遂事件があったが、犯人はようとして知れなかった。今回もそのような企みがあった、というのがバチカン(教皇庁)の中でまことしやかに語られていた。

「これは、毒殺だと断定するならばですが、メディチ家内部の内紛によるものだと考えた方がよいかもしれません」と教皇付きの側近は言う。

「そうだな、皆がそう言っている。ただ、毒殺であるという証拠はない。犯人がみずから告白しない限りは難しい。警察も調べているが、犯人の目星も立っていないようだ」

「(イッポーリト)メディチ枢機卿に話を聞きますか」

「そうだな、一度話を聞いたほうがいいだろう。彼がじかに毒を盛ったりはしないだろうが……今後また同様の事件が起こるのかと思うと、おちおち寝てもいられない」と教皇はため息をつく。
「分かりました。会見の手はずを整えましょう」と側近は頷き場を下がろうとする。

 何かを思い出したようにそれを制して、教皇はもうひとつ問う。
「ミケランジェロ・ブォナローティをローマに呼ぶ話は、本人に伝えてくれたのか」
「はい、2週間後には到着するとの返信が来ております」と側近はスラスラと答える。
「よろしい」と教皇は答えた。

 教皇はその後、バチカンの域内にあるシスティーナ礼拝堂に向かい、衛兵に会釈をして中に入る。そして、首が痛くなるほど真上の天井を見渡す。そこにはかつてミケランジェロが描いた『天地創造』のフレスコ画が広がっている。

「彼にまた仕事をしてもらう時がきた」

 パウルス3世は力強く宣言するように声を上げた。

 礼拝堂にその声は波のように響いていった。
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