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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
誰もきみを決めつけない 1534年 パリ
しおりを挟む〈カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアン公アンリ、教皇クレメンス7世、マリア・サルヴィアーティ〉
1534年10月、大おじである教皇クレメンス7世の死を告げられて、カトリーヌはそれがもたらす影響についてしきりに考えていた。
ついこの前、マルセイユで過ごされていたときも、病気の影などまったく感じなかった。先代のレオ10世のように、身体に脂肪をため込んでもいなかった。急に倒れたということなので、見えない病気が心臓を蝕んでいたのかもしれない。
フォンテーヌブローの空の下で、考えてもどうしようもないことだった。じきに夫婦の寝室には夫のアンリが戻ってきた。妻が物憂げな表情でベッドに腰かけているのを見て、アンリは真面目な面持ちで彼女の前に立つ。
「眠れないのか?」
「ええ、ちょっとだけ……」
「ああ、教皇さまのことがあったから、それは仕方ないさ」と夫は最大限の慰めの言葉を口にする。それはなかなか普段は聞けないものだった。それでもカトリーヌは物憂げな表情を変えない。しばらくアンリは、彼女に何と言ってやったらいいのか考えていた。でも、このような時にそうそう気の利いたことを言えるものではない。
「マリアはどうした?」
「あ、教皇さまのことを知らせたの。そうしたら、フィレンツェのことが心配だって、今手紙を書いているわ」
アンリは2回、うなずいてからつぶやく。
「マリアの子がいるんだろう。それは心配だな、でもマリアの子は勇ましいコンドッティアーレ候補なのだから、心配することはないさ」
『ええ、そうね……本当はマリアもフィレンツェに帰してあげたいのだけれど……帰りたいとはいわないでしょうね……』
「まあ、何かあったら僕が陛下につないでやるさ。それより、カトリーヌは自分のことが心配なのかと思っていた」とアンリは気の毒そうに妻を見る。
カトリーヌははっとしたように夫の顔を見る。
「もしかして、心配してくれているの?」
「さあ、どうかな」とアンリははぐらかしたように言う。
カトリーヌはベッドから立ち上がり、アンリの脇をゆっくりと通り抜けて窓辺に立つ。
「アンリ、私はもう何度か生命の危機に見舞われてきたの。生まれた直後に父も母も逝ってしまって……赤ん坊の私も病気にかかった。そしてローマの破壊、フィレンツェ包囲戦のときは修道院に入れられていた。修道院が安全だったかといえば……違ったわ。フィレンツェ共和国の人々は城砦のてっぺんに私を吊るせと激昂していた。おくびにも出さないけれど、修道院の中にもそう思う人がいたでしょう。だから私は常に安全ではなかった」
カトリーヌが自分のことをこれほど話すのは初めてのことだったので、アンリはいささか面食らった。彼女は窓の外の方を向いたまま、まだ語り続ける。
「でも今度のことは衝撃的だった。まさか、大おじさまがこんなに早く逝ってしまうなんて。私をフランスに連れてきて、それでほっとされたのかしら。そんな……」
「カトリーヌ……」とアンリは声をかけるが、彼女は窓際に立って外を見ながら、言葉を止めようとはしなかった。
「そんなはずはない。大おじさまは私のことを可愛く思ってはくださらなかった。だって私は、ずっと何かの道具のように扱われてきたわ。いいえ、道具以下だったようにも思える。鋤や鍬の方がよほど大事にされていた……」
アンリはカトリーヌがフィレンツェでどう暮らしてきたのか、ほとんど知らなかった。
そして、彼女がこれほどまで感情を表すのも初めて見た。
常日頃、「彼女に女性としての魅力を感じない」と側近に洩らしていた彼だが、それは一面に偏った見方だったーーとアンリは省みてみる。
「カテリーナ、きみはもう一種のくびきからもう抜けたほうがいい。いずれにしても、それをした人はいないんだ。ここにはきみの人生に手出ししようという者はいない。誰かに決めつけられることもない。これは信じてほしいけれど、この国は君を追い出したりはしないだろう。そのように生きていく。それでいい」
アンリの言葉はカトリーヌの心を打ったようだった。
ようやく彼女はアンリの方に向き直った。
一方、マリアは息子コジモと、自身の母ルクレツィアに一心不乱に手紙を書いていた。
フィレンツェのことがどうにもこうにも気になった。教皇の死は反メディチの勢力に格好の機会を与えるのではないか。フィレンツェの頭目であるアレッサンドロがその影響をまともに受けるのではないか。そうなったら、メディチはまた窮地に陥るだろう。
簡単に想像できることだ。
次の教皇が誰になるか、それも関わってきそうな話だーーとマリアは心のなかでつぶやいて、ガラスのペンを置いた。
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