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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
メディチ家のマルス 1534年 フィレンツェ
しおりを挟む〈カトリーヌ・ド・メディシス(カテリーナ・ディ・メディチ)、ルクレツィア・サルヴィアーティ、元教皇レオ10世、教皇クレメンス7世、アレッサンドロ・メディチ、イッポーリト・メディチ、コジモ・メディチ〉
カトリーヌのいなくなった後のイタリア半島の話をしよう。
イタリア半島・フィレンツェのメディチ邸。邸宅ではあるが、のちに宮殿と呼ばれることになるのでそれ相応の規模の建物である。かつて暮らしていたカトリーヌ(カテリーナ)、アレッサンドロ、イッポーリトがいなくなって久しいが、ルクレツィア・サルヴィアーティはまだ健在である。
ルクレツィア・サルヴィーティ、メディチ家に大きな繁栄をもたらした大ロレンツォの娘である。彼女はその輝きの時代を知っている。銀行家のヤコポ・サルヴィアーティと結婚し子どもをどんどん産んでいてもなお、彼女は「メディチの娘」であることを忘れなかった。
父の大ロレンツォ死去の後、メディチ家は安定せず、迷走することが続いた。迷走ならばまだいい。実際にフィレンツェを追放されたことも二度あった。当主の早世が続いたというのもある。ローマに二人の教皇(レオ10世、クレメンス7世)がいることは、メディチ家にとって大きな後ろ楯であった、あることは間違いない。ただ、メディチの二人の教皇の評判はあまり芳しいものではなかった。
もうこの話でもさんざん書いてきたことなので恐縮なのだが、レオ10世は神聖ローマ帝国のホーエンツォレルン家出身の大司教アルブレヒトと豪商フッガー家の働きかけに乗って贖宥状を乱発した。そもそも、レオ10世はバチカンの予算を数十年先の分まで使ってしまっていたので、まとまった資金が必要だったからだ。
そしてそれがルターの大弾劾、のちの反カトリック勢力の興隆を招いた。
よくない評判は後世まで延々残るだろう。
クレメンス7世の場合は「無駄遣い」で悪評が立つことはなかった。ただ、メディチ家びいき(身内びいき)については度が過ぎていると思う人も多かった。身内のイッポーリトが枢機卿になったが、そのような例は他にもあったので、糾弾されるような問題にはならなかった。
最も指摘されるのは、教皇と皇帝の交渉が上手く行かず、ローマが破壊される羽目になった後のことである。
ローマ劫略に関して言えば、まだ教皇は悪役ではなかった。あの暴徒と同等の傭兵軍、ランツクネヒトのすさまじい様子を見れば攻められる側の誰かを責める余裕はなかっただろう。
問題はその後、和睦の交換条件として、共和国の体制を保っていたフィレンツェをメディチ家の手に戻すように仕向けたことである。具体的にいえば、ランツクネヒトたちにフィレンツェを包囲させ、潰したのだ。
そして、アレッサンドロ・メディチが皇帝から公爵位を受けて、名実ともフィレンツェの統治者となった。公にはなっていないが、アレッサンドロがクレメンス7世の実子であることは広く知られていた。
教皇が聖職者を任命するのとはわけが違う。立場を使って他国の兵を動かしフィレンツェを手に入れたのである。
「おばあさま、イッポーリトおじさんはハンガリーから戻るときフィレンツェに立ち寄るのかな」
もぐもぐと食事をしながら、コジモがルクレツィアに尋ねる。
彼は亡き父親に倣って身体の鍛練を怠らない。最近では好んで黒い服を身につけるようになっていた。誰かに命じられたわけではないのに、だんだん軍人になっていくようだ。
「そうね、立ち寄ると思うけれど、長居はしないかもしれないわね」とルクレツィアは答える。
「マジャール兵の軍服を一式分けてもらいたいんだ。ハンガリーは強大なオスマン・トルコに攻め込まれたときも、勇敢に戦ったと聞いているよ。それに敬意を表してさ、飾っておきたいんだ」
「そう、私にはない趣味ね」とルクレツィアがパンに手を伸ばす。
「でも、イッポーリトおじさんもカテリーナの結婚式に出たのでしょう。その話も聞きたいな」とコジモが無邪気な顔でいう。
ルクレツィアの表情は曇る。
「そうね……でもあまりぶしつけに聞かない方がいいわ。マリアからも知らせてきたし」
祖母の様子を見て、コジモは真面目な顔になる。
「おばあさまはアレッサンドロおじさんとイッポーリトおじさんと、どちらがフィレンツェの君主になってほしかった?」
ルクレツィアは目を見開く。
しばらく沈黙が流れて、ようやく祖母は口を開く。
「そう、そうね……昔は……イッポーリトとカテリーナが結婚する約束になっていたから……誰が正当な後継者かといえば、それはウルビーノ公ロレンツォの娘であるカテリーナなのよ。だから私は、カテリーナがイッポーリトと助け合ってフィレンツェを治めてくれたらいいと思っていたわ」
コジモは黙って聞いている。そして祖母が語り終わったあと、つぶやくように言う。
「そう、それが本来の姿なんだね。でもカトリーヌはフランスに嫁に出されて、イッポーリトおじさんはハンガリーに出された。まるで、フィレンツェから彼方へ遠ざけられるように。でもおばあさま、これには無理があるよ。僕はアレッサンドロの噂を聞いたけれど、このままフィレンツェが安泰というわけにはいかないような気がするんだ」
「そう、あなたもわかっているのね」とルクレツィアもつぶやく。
「まあ、何かことが起こったら、僕は戦備えをしていつでも戦うよ。メディチの端くれとしてね」
ルクレツィアは微笑んでうなずく。
フィレンツェの夜が静かに更けていく。
これからメディチ家に嵐が押し寄せる前の、凪のような夜だった。
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