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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

婚礼行列にいくらかかる? 1533年 パリに向かう

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、フランス王フランソワ1世、オルレアン公アンリ、マリア・サルヴィアーティ〉

 ミシェルがモンペリエの学生寮で一人もの思いに耽る頃、その対象になっている王子の妃はパリに向かう途上にあった。

 フランス王フランソワ1世率いる王子の婚礼行列はこれでもかというほど人目を引くものだった。
 例えるならば、江戸時代の大名行列が分かりやすいかもしれない。100万石の加賀藩や御三家の紀伊藩の規模(3~4000人)には及ばないものの、フランスのそれも1000人を越える大行列だった。

 それは人数の話で、もちろん異なる点はある。大名行列は寄り道などできずまっすぐ江戸と藩を往復したが、王の行列は「本当に目的地があるのだろうか」と思うほどゆっくりだったからである。ただ国土をまんべんなく巡っているだけのようにも思える。
 それを可能にする環境もあった。フランス王の別邸(支城)が国内に数多くあったからである。これは日本では考えられないことだ。

 ルートは長大だった。
 マルセイユへはノルマンディー、ブルターニュ、アルトワ、ピカルディー、シャンパーニュ地方を回ったあと、リヨン~ベリー~オーベルニュ~ラングドックを経由していった。同道する者は1000を優に越えると書いたが、結婚式に必要な人数よりはるかに多い数だろう。

 王は各地で祭りを開催した。
 それを担うのに十分な人はいた。しかし、これだけの人数を移動させ、宿泊させ、働かせ、食事をさせ、養うというだけでもたいへんな、いや莫大な費用がかかる。その点は戦争での遠征と同じである。

 一行は各地で祭りを行うのである。それは民衆に対しても開かれていたが、それ以外に連夜の晩餐に舞踏会が行われた。その様子は少し前にも書いた。いったいいくらかかったのか想像するのも恐ろしいほどである。

 フランスはそれほど裕福な国であっただろうか。
 確か、神聖ローマ帝国との戦いに敗れて王は捕虜になってスペインに幽閉され、莫大な身代金を払ったのではなかったか。それでもこの国には潤沢な金があるらしい。それはどのように調達したのだろう。

 戦費調達の目的で増税上乗せした税金である。
 この大々的な婚礼の行列の費用を負担しているのは国民だった。それでも、国民は知ってか知らずか、王子の婚礼を心底祝福していた。

 めくるめく祝宴の日々、重たい正装のドレスに身を包み晩餐会だの舞踏会に出席し、祭りでも通りがかりでも公的な振る舞いをし続けなければいけない。メディチ家の娘、自制心の強いカトリーヌ・ド・メディシスもさすがに疲労していた。
 マルセイユを出発すればこの宴尽くしの日々もきっと終わるだろうと考えていたのだ。

 1533年11月16日に一行はパリに向けて出発した。カトリーヌは王女たちに加わって道を進んだ。船ではなくて輿に揺られる日々になり、少しは息抜きができるものだと思っていた。しかしそうではなかった。一行は道を少し進むと歓迎する土地の人々にしばしば時間を取られた。その都度、笑顔で応えて丁寧にあいさつをするので、実のところ正装を脱ぐ間はなかった。

 本当にわずかな隙間を見つけて、マリア・サルヴィアーティが就寝前のカトリーヌの部屋のドアを叩く。

 祝祭はイタリアにもあるけれど、これほど悠長で際限のないものではない。マリアは端からカトリーヌを見ながら、この「フランス式」のやり方に参ってしまわないかと心配していたのだ。

「カトリーヌ、疲れたのでは?」
 懐かしいイタリア語の響きをカトリーヌはうっとりとして聞く。
「ええ、正直にいうなら少しだけ。でもマリア、私は大丈夫よ」とカトリーヌは答える。

 マリアは苦笑する。カトリーヌの「大丈夫」をこれまでいったい何度聞いてきただろうか。

「ああ、私はジョヴァンニが夫でよかったわ。こんな大げさで、あからさまで、のらりくらりとした巡行が続いたらもうとっくに逃げ出していたわね。しかも夜になれば、女性はほのめかしと見せびらかしの競いあい。殿方の目ばかり気にして。それはフィレンツェにもヴェネツィアにもあるけれど、何と言ったらいいのかしらね。まったくいただけないわ」

 カトリーヌを懸命に慰めているようだ。
 ついこの間まで少女だった公爵夫人はマリアの気持ちを察して寂しげに微笑む。
「カトリーヌ、髪をすきましょうか」とマリアは言い、カトリーヌは椅子に腰かけた。
 カトリーヌは髪がほどかれるのを心地よく感じながら、独り言のように話し始める。

「今はね、観察するときだと思うの。この国の王室のしきたりについてはじきにきっちり学ぶのでしょう。でも今は取りあえず、メディチ家の娘として培ってきたものを使うしかない。自分の立ち居振舞いもそうだし、マリアたちが揃えてくれたマントヴァ製の上等なドレスも。あ、大粒の宝石などはたぶん教皇庁のものね。メディチ家の財産目録にはなかったはず。いいのかしら」

「そうだったの? それは知らなかったわ。確かにいきなり出てきたわね」とマリアは笑う。

「私は王室でちやほやされるからといって、安穏としていてはいけないと思う。それがすべて本心からのものではないことはとうに分かっているもの。そんなふうに毎日いろいろなことに気がつくし、いろいろなことに思いを馳せるわ。例えばこの婚礼の巡行にいくらお金がかかるのか、とかね。マリア、国が滅びる原因は何だと思う?」
「戦争かしら」
「それもあるけれど、反乱の方が頻度が高い。たいていは苛政に耐えきれない人々が起こすのよ。重い賦役、税などでね。例えばこんなにお金を使うことは、そのきっかけをひとつ作っているのではないかしら」
 マリアはカトリーヌの髪をすく手を止める。そして感心したように言う。
「あなたは、王になった方がいいかもしれないわね。君主が考えて治めるなら臣民は従う。正しい見方だわ」
「ニッコロ・マキアヴェッリを熟読したから」とカトリーヌは笑う。
「さあ、そろそろ終わりよ」と櫛を棚に置く。

「でもね、マリア。どんな本を読んでもわからないこともあるの」
 カトリーヌは少しうつむいて言った。
「なにかしら」とマリアは思案する。

「夫の心よ」とカトリーヌは淋しそうな目をしてぽつりとつぶやく。

 マリアは何も言わず、カトリーヌを背後から包むようにそっと抱きしめた。

 ろうそくがゆらゆらと、ほのかに二人を照らしていた。
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