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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
パンタグリュエルの夜 1533年 モンペリエ
しおりを挟む〈ミシェル・ド・ノートルダム、フランソワ・ラブレー、デジデリウス・エラスムス〉
1533年、モンペリエの食堂でミシェル・ド・ノートルダムはフランソワ・ラブレーから本を受け取った。したたか飲んでいて足取りはおぼつかなかったが、それでも、「一刻も早く読みたい」と思って家路を急いでいた。
「ラブレーさんはやっぱり、エラスムスに習って書いたのかなあ」とミシェルはろれつの回らない舌でつぶやく。
◆
さて、ラブレーの本は「ゴシック体だった」と前回書いたが、それは現代のタイポグラフィ(書体、活字)と同じ形のものではない。ペンで書いたような調子の文字である。
それまで一般的だったのはローマン体なので、見た目からして異なる。ここで少し脱線するが、この時代のタイポグラフィについて述べておこう。
活版印刷はこの時点を遡ること80年ほど前にグーテンベルグによって技術が確立され、急速に普及していった。大きな流行といえば、1470年にフランスの職人ニコラ・ジャンセンがデザインした「ヴェネツィアン・ローマン体」が挙げられる。
なぜヴェネツィアなのかといえば、ドイツ人のスピラ兄弟がヴェネツィアに最初の印刷所を作り、そこにジェンセンもいたということによる。彼らはヴェネツィアから招かれたのだろうと考えられる。以降、ヴェネツィアはイタリア半島の出版センターとして、書物を大量に生み出すことになる。
かつて、ニッコロ・マキアヴェッリがチェーザレ・ボルジアの君主としての才能を見抜き、その素質の分析をするためにプルタルコスの『英雄伝』を読みたいと思ったことがある。しかし、ヴェネツィアにしかその本がなく、入手するのが遅くなったという逸話があった。
15世紀の末には同じくヴェネツィアで「オールド・ローマン体」が生まれる。こちらはアルダス・マヌティウスの工房で手がけられ、18世紀にかけてイタリア、フランス、オランダ、イギリスへ広まっていった。
息の長いタイポグラフィで、各国で派生する型も生まれた。フランスではクロード・ギャラモンが制作した「ギャラモン」、オランダでは「ダッチ・オールド・ローマン」、イギリスではより洗練された形の「オールド・ローマン」(名称は変わらず)として進化していった。
ギャラモンからはまた多くのタイポグラフィが生まれていくが、それはまた後の世のことであるし、現代も使われている。
ヴェネツィアが出版センターであることは16世紀になってもしばらく変わらなかったが、他の国・地域に印刷所がなかったわけではない。教皇庁(ローマ)の近郊スビアーコには印刷所があったし、少なくとも大きな都市はそれぞれ印刷所があっただろう。活版印刷の前から書物は写本として連綿と作られ続けてきたのだから。
ここでようやく、ラブレーの本のタイポグラフィの話に戻る。
ラブレーの赴任地はリヨンである。ローマ時代の競技場の遺跡も残る古都で、フランス国内の重要な中継点だ。毛織物業で繁栄している町である。大学や大きな聖堂や国の中枢が主ではない。したがって、文芸とか学術的な書物の需要がないのだ。「ゴシック体」を使っているのは、そのような事情もあるのだろう。
いずれにしても、ラブレーの著作には適切なものだったようだ。彼の著書はお堅い学術書ではない。
この本はリヨンのフランソワ・ジュストの印刷工房から刊行された。
デジデリウス・エラスムスの『愚神礼賛』の向こうを張る、奇想天外・荒唐無稽な物語だった。
◆
ミシェルは大学の寮でろうそくの灯りを頼りに、ラブレーの物語を一気に読んだ。したたかに酔っていたのだが、読み進むほどに目が冴えて興奮するばかりだった。
一気に読み終えると、ミシェルは粗末な机の片隅に積んである、まっさらな紙を手に取る。そして奔流のごとく、何かに憑かれたようにペンで叙事詩を書き始めた。
ラブレーの本が脇に置かれている。
その表紙にはこう印字されている。
『パンタグリュエル物語』
この物語は巨人族という架空の種族のひとりパンタグリュエルの話である。一言で言えばそうなのだが、架空の物語の形をとって、今の世に、権力者や聖職者に痛烈な皮肉を込めていた。たとえばこんな調子である。
〈例の婦人が我が家にはいり、すぐに扉を閉めると、半里も先からありとあらゆる犬が馳せつけてきて、戸口にじゃあじゃあ尿を垂れ流し、とうとうそのために家鴨も悠々と泳げそうな尿の川ができてしまったが、この川が現在サン・ヴィクトール寺院内を流れているのであり、ゴブラン殿は、この犬尿の独特な力のおかげで、この川水で臙脂布を染め上げているのであって、これは昔我がケルキュ先生が満天下に御説教になった通りである。〉
(※1)
寺院(聖堂)を尿に浸してしまうとは、見る人が見れば侮蔑である。
しかも、この本はフランス語で聖書の引用までしている。世に嵐を巻き起こすことが約束されたようなものだった。
それはエラスムスが『愚神礼賛』で書いた趣旨と同じだった。エラスムスは愚かな民衆に「愚かでいろ」と説く女神のかたちを取ったが、ラブレーは架空の巨人族の目からそれを描いたのだ。ただ、修道士として長く暮らし、司祭にもなっていた(と伝えられる)立場なので、名乗ることはせず作者は当初仮名としていた。
エラスムスも同様に聖職者に次ぐ位置にあった。
さて、
ミシェルはラブレーの著作を見て、猛烈に羨望の念が沸いた。ラブレーはかなり歳上だが、ずっと前からエラスムスに心酔して、その本意を受けてまったく別の物語を書き上げた。実は巨人族というモチーフで書かれたものは以前にもあった。それを拝借したのだろう、ただ、物語の内容は元を凌駕するものだった。
ミシェルは自分について考える。
ダンテが少年の頃から好きで、少しずつひもといていた。あのような壮大で崇高な叙事詩が書けたらとひそかに願ってきたのだ。しかし、自分はその域にはまだまだ遠い。あれだけの知見を持ち合わせていないのだ。
年長のラブレーが、変わり者だと言われても、こよなく愛するギリシア語で講義を持つことができ、こよなく崇敬するエラスムスに堂々と見せられるほどの諧謔の物語を著してみせた。それが心から羨ましい、妬ましくさえあった。
歳の問題ではないのだろう。
才能は多少関係あるのかもしれないが。
実のところは、尽きない情熱の話なのだ。
自分はこれまで長く旅をし、さまざまな学を人並み以上に修めてきた。普通に医者になろうとするならばそれで十分だろう。ペストが出たときの対処方法も身につけた。医者になるならばそれで十分だろう。サン・レミにも堂々と帰れる。
医者は十分に意義のある職業だ。それは分かっている。それならば、片手間に叙事詩を書くという生活も悪くない。
しかし、ラブレーさんはどれも本気で取りかかって、医者にもなり、こんな警世の書を書き上げたのだ。
自分にはそれだけの仕事ができるだろうか。
ダンテの本を手にとって、打ちひしがれた気持ちで、ミシェルはパラパラとページをめくる。そのうち、ラブレーが揶揄していた王子の妃のことをふっと思い出した。書物が好きで語学も堪能、たいそう利発な少女だという。イタリア語は当然話すだろう。ダンテを諳じたりできるのかもしれない。何と素晴らしい。
「それでも、王室などに入ったら、一生籠の鳥になってしまうのだろう」
ミシェルは自分がまだまだ恵まれた未熟者であると結論づける。そしてろうそくを消して、床にもそもそと入った。
※タイポグラフィについては、下記のサイトを一部参考にしました。
※1 『パンタグリュエル物語』第22章の引用元
『言葉の現場へ―フランス16世紀における知の中層』 高橋薫著(中央大学学術図書)
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