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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
ミシェルの回想 1533年 モンペリエ(フランス)
しおりを挟む〈サンレミー出身のミシェル、フォントネー・ル・コントの修道士フランソワ・ラブレー〉
※この回には登場人物の背景を描く目的で、ペスト患者について記述している箇所があります。気になる方は閲覧をお控えください。
マルセイユの祝宴の喧騒から少し離れて、西に30リーグ(150km)あまり進んだ町モンペリエに移動してみよう。
この町は地中海沿岸にあってマルセイユとピレネー山脈の中間辺りに位置している。
ここにはモンペリエ大学がある。フランスで最も歴史ある大学のひとつである。1160年から法学部の基礎が築かれ、医学部が1220年に開かれた。医学部についてはフランスで最も長い歴史を持っている。町の中心は大学、いわゆる学生街である。
ミシェルは4年前にこの大学に入学し、そろそろ学を修めようかというところである。彼はもっと若い頃(15歳から)にアヴィニョン大学で自由7科目(教養学部、リベラルアーツ)を履修しているので、モンペリエでは純粋に医学を学ぶことにしていた。
ミシェルはモンペリエで医学を学ぶまでのことを思い出す。
アヴィニョン大学ではまだ少年だったし、学業の途中で近くに黒死病(ペスト)の発生があって、学校が無期限休校になってしまった。(※)それから少年は若者になるまでフランス国内を旅して回った。
その旅の途中、フランスとスペインを隔てるピレネー山脈にほど近いフォントネー・ル・コントという村で、ミシェルは奇妙な男に出会った。修道士であるにも関わらずギリシアの文化に傾倒していた彼は、それを咎められたことに憤慨して修道院に喧嘩をふっかけていたのである。
たまたまそこに居合わせて巻き込まれたミシェルはその男の演説を延々聞かされる羽目になる。おかげでひばりがさえずる長閑な村の風景を愛でることはかなわなかった。
ただ、その破天荒な修道士フランソワ・ラブレーは、ミシェルに村の泰斗チラコーを紹介してくれた。法学博士であるチラコーはミシェルを歓待し、しばしの宿を提供してくれたのだ。
あの旅は素晴らしかったが、恐ろしいこともあった。
モンペリエ大学の蔵書室でひとり本を読みながら、ミシェルはもの思いに耽っている。学生たちの笑いが外の日だまりに遠く響いている。
恐ろしいこと。
それは追い剥ぎより、強面で気の荒い牧童より、手練れの売春婦より恐ろしいものだった。
黒死病(ペスト)である。
ある村を通りかかったときのことである。ミシェルは人だかりがしているので、何だろうと近寄ってみた。
「頭が、頭が割れるようだっ、痛い、痛い」と訴えてゴロゴロとのたうち回る男の姿が遠巻きに見えた。
尋常な苦しみようではない。周りの人々はどうしたらよいか分からず、男を心配そうに取り囲んでいた。
ミシェルは息を飲んでそれを見守る。
男は突然、げえげえと吐き戻した。
「触るなっ!黒死病だ!みんな離れなさいっ!」
取り囲んでいた人々は蜘蛛の子を散らすように離れる。その間にも男は嘔吐し続ける。そして、そこに赤いものも混じっているのが見えた。血痰だ。
「ここまで来たら手遅れだ。とにかくみんな、できるだけ離れなさい!」
ミシェルは声の主を見た。それは相当歳を取った老婆だったので、少し驚いていた。
男は胸を押さえると痙攣し始める。
そして、動かなくなった。
頭が痛いとのたうち回っていたときから、長い時間は経っていない。
しかし、もう男は息をしていなかった。
ミシェルは遠巻きに、それを見ているしかできなかった。その顔は真っ青になっている。黒死病の患者を見たのも、あっという間に亡骸になった人を見たのも初めてだったからである。
いっぽう、老婆はつとめて冷静だった。
「すぐに埋葬しないといけない。ただ、それをする人間は分厚い胴衣とマントを身につけ、深い頭巾を被り、全身をとにかく覆い尽くさねばならない。手も爪先もみな隠さねばならない。亡骸は何重にも布で巻いてそのまま埋葬する。さあ、仕度をしなされ」
そう言われたものの、誰もその役割をしようとはしない。仕方のないことだ。感染したら同じことになるのだから。
ミシェルは老婆の指示が的確だったので、自分がやってみようと志願した。
老婆はうなずくと他の役目を次々と振り分けた。遺体を運ぶ者をもうひとり。男の家族に知らせその家の戸に板を釘打ちする者、できるだけ人家から離れたところに埋葬する穴を掘る者、村中に知らせる者、ネズミなどを見つけて焼き殺す者……などである。残りの村人は自分の家から出ずにしばらくおとなしくしているように言われ、帰っていった。
「いまこの村には医者がいない。祖母が私に教えてくれた病気の対処法しか知識がない。それを皆で守っていくしかないのです」
ヨーロッパに黒死病(ペスト)が大流行したのは14世紀(1346~52)のことだった。この災禍は最大級の凄まじさで、西ヨーロッパ、ロシア、北アフリカの沿岸までの広域を覆った。 この数年でヨーロッパの人口の1/4が死亡したといわれている(諸説あり)。病原菌の宿主はネズミだったと伝えられているが、十字軍の移動で運ばれたと考えられている。
その後もこの病を根絶することはなかなかできず、散発的で小規模な流行はたびたび起こっていた。1527年のローマ劫略のときに駐留中の神聖ローマ帝国軍の中で黒死病が流行し、5000人が死亡したことはさきに書いた。
そして、フランスでも散発的な流行が起こっていた。
ミシェルは老婆の指示通りに全身を厚手の布で覆い遺体の運搬を手伝った。その手足には黒い斑点が浮き出ていた。
その作業をするのは正直にいえば、怖かった。
他の人がすでに掘っていた穴に遺体を埋葬すると、土を厚くかぶせた。そして身につけていたものを脱ぐとその場で燃やした。そして、近くの川で身体を流した。
あのときは本当に恐かった、とミシェルは思う。それでも、あのときの経験があったからここにいるのだと思う。
「いまこの村には医者がいない」という老婆の声が耳に残ったのである。医者がいればもしかしたら、必要な治療ができるかもしれないのだ。
「あれだけ急激に悪化する病気を果たして治せるのだろうか」という疑問は抱いたが、あの老婆のように素早く対処するには医学的な知識も兼ね備えておかなければ。
ミシェルがモンペリエで学ぶことにした理由である。
蔵書室に舎監がやってきて、もう退室するように促された。ミシェルはふと、学友たちと会う約束をしていたことを思い出す。
「ああ、急がないと」
足早に石造りの学舎を出るミシェルの前にぬっと現れた人影があった。
「あ、ラブレーさん!」
モンペリエを前の年に卒業したフランソワ・ラブレーがにかっと笑って立っていた。
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