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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

ほのめかす愛人 1533年 マルセイユからパリへ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアン公アンリ、教皇クレメンス7世、フランス王フランソワ1世、ディアンヌ・ド・ポワティエ、イッポーリト・ディ・メディチ〉

 教皇がマルセイユに長く逗留したこともあって、フランスの移動祝祭団(王室一行)もそのまま留まることになった。マルセイユの人々もなかなか日常に戻ることができない。
 もっと平たくいえば、飽きていたかもしれない。

 この長い祝祭のあいだ、カトリーヌは持ち前の慎ましさと賢さで夫となったオルレアン公アンリへの愛を示し始める。自身の操を捧げた男に忠節を尽くすのを当然なことだと思っているからだ。
 ただ、カトリーヌが好きな書物については夫は一向に興味を示さず、カトリーヌの問いかけにもつれない返答しかしなかった。カトリーヌはそれを祝祭の疲れであると考えて、無理に話を続けることはしない。
 そっとしておくことが続いた。

 客観的にいうのならば、夫は新妻にあまり興味を持っていないようだ。

「この分なら、私が心配することはまったくないわね」
 ディアンヌ・ド・ポワティエはオルレアン公の様子を見ながら、安心したように侍女にこっそりとつぶやく。
「さようでございますね」
「褥をともにすれば情が移るかもしれないと思っていたわ。何しろ教皇さまはふたりの寝室に毎晩出向いて祝福をお与えになるのですもの。子作りに励めということよ。でもまあ、そんなふうに褥に始終干渉されたらうんざりするでしょうね。おかげでアンリも憂鬱に陥ってしまった」
「確かにあまりよい影響は与えないかもしれません」と侍女は控えめな見解を述べる。
 艶然と微笑むディアンヌは胸元の大きく開いた朱色のドレスの裾をつまんでゆったりと歩いていく。彼女の華やかさは際立っていた。少女のカトリーヌより目立つほどだ。
 王室が滞在している離宮の庭園に彼女がいると、百合の花が咲いているかのようだ。
 彼女はどちらかというとふくよかで、顔立ちもはっきりした方ではなかったが、自分の魅力をよく知っていた。

 マルセイユの祝祭の期間、ディアンヌはしばしば彼の視線を感じつつも親しげに振る舞う愚を冒さなかった。それはもちろんタブーだったからだが、そうすることでアンリが焦るだろうという計算があった。それは想像以上の効果を上げたようだ。アンリの視線は日に日に恋に燃える男の目になったからである。
 獲物を追う獣の目とも通じるものかもしれない。ディアンヌは宮廷に戻ったら、公との関係を一歩進める算段をしなければならないと考えていた。

 ディアンヌはそれと同時に、カトリーヌと懇意になることも忘れなかった。宮廷に出入りする中でフランソワ1世にカトリーヌの嫁入りをさりげなく進言したのは彼女だった。
 ディアンヌとカトリーヌは血縁関係にある。カトリーヌをフランスに招きオルレアン公の妻にすることは、ディアンヌの地位を上げることでもあったのだ。

 カトリーヌはまだ気づいていなかった。
 宮廷の複雑な人間関係に。
 14歳の少女にそのようなことを悟れというのも酷な話だ。

 いつかははっきり気がつくとしても。


 クレメンス7世は11月20日にマルセイユを発った。これでようやく婚礼の一行も移動の仕度を始めることとなる。この祝祭のご褒美のように、フランス人の枢機卿が新たに4人選任されることになった。クレメンス7世が国王の約束を履行できるのは、実際のところこれぐらいだったかもしれない。

 イッポーリトはそれよりかなり早くフランスを発っていた。彼はハンガリーに戻る船の上で何を思っていたのだろうか。
 彼はフランスに来たことを後悔していた。マリアのいう通りだった。カトリーヌの兄として晴れがましい気持ちで祝福してやりたいと思っていた。そして、自分がハンガリーの教皇大使として立派に勤めを果たしていると知らせもしたかったのだ。
 しかしそれは自身に対する詭弁にすぎないと、イッポーリトは痛感することになる。フランスの王子と結婚するカトリーヌははるか彼方の遠い存在になったようだった。それで意気消沈したのだが、それはまだ序の口だった。

 一連の祝宴に出席する中でイッポーリトはよくない噂を耳にした。オルレアン公アンリが年上の女性にぞっこんだという噂である。イッポーリトはその噂を聞いてから、祝宴でしばらく公の様子を見ていた。そして噂が嘘ではないと確信したのである。

 そのようなことが珍しくないことはイッポーリトもよく知っていた。結婚するとき花婿に愛人がいるということである。イングランドのヘンリー8世のように、つどつど離婚騒ぎを起こさないだけましなのかもしれないが、イッポーリトはそのような寛大な考えを持てなかった。

 カトリーヌがどのような決意を持ってフランスに嫁いだか、イッポーリトだけが知っていたからである。彼女の切なる願いに対して、オルレアン公の浮わついた態度はどうだ。カテリーナはじきに夫の不実を知り、あの年上の婦人に苦しめられることになるだろう。

 イッポーリトはもう何もしてやることができなかった。そんな自分が情けなかった。そしてその煩悶の矛先は、彼女にこのような境遇を押し付け続けたクレメンス7世に向けられる。

 メディチ家にもじきに嵐がやってくるだろう。

 アンリとカトリーヌ夫妻を中心にしたフランス王の一行はパリに旅立っていく。
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