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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

焦げ付くような後悔 1533年 マルセイユ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、イッポーリト・メディチ、マリア・サルヴィアーティ、教皇クレメンス7世〉

 マルセイユの港は大混雑していた。

 古代ギリシアの時代に開かれたこの港の歴史を振り返っても、ここまで賑やかなことはあまりなかっただろう。
 大勢の人が漕ぎ手となるガレー船やキャラベル船(帆船)の大型船と、それを取り巻く小さなボートが沿岸を埋め尽くしている。この町の住人はこぞって気もそぞろになっている。
 それも仕方ない、何しろ王家の慶事で教皇も行幸している。パリでもアンボワーズでも、どこかの地へ向かうための経由地ではなく、この町がその舞台なのだ。

 国王の第二王子であるオルレアン公アンリとカトリーヌ・ド・メディシスの結婚式まで、あと数日に迫っていた。


 町の喧騒から離れ、マルセイユの海岸の、入り組んで人目につかない一画に立って、地中海をぼうっと眺める男がいた。マジャール人兵士の装束に身を包んでいるが、このときは高さのある独特な被り物はしていない。彼は目立たずひとりになっていたい気分だった。
 イッポーリト・ディ・メディチである。

 マルセイユの港に着くまで彼は意気軒昂だった。
 ハンガリーで教皇の使節として厚遇され、今回のフランス行きにも軍隊を付けてもらった。教皇クレメンス7世の側から離れて、自信を付けて再び戻ってきたのである。何より彼は、自分の意志を持って嫁ぐことを決めたカトリーヌを見守ってやりたかったのだ。
 ともに育ってきたメディチの兄のような立場として。
 それでいいと思っていたのだ。

 しかし王家の婚礼に湧くマルセイユの町にいるうちに激しい後悔の念が彼をさいなむようになった。もう誰もカテリーナ・ディ・メディチとはいわない。フランス王室の一員となるカトリーヌ・ド・メディシスがどれほど自分から離れてしまったのか、痛いほど感じたのだ。

 それに追いうちをかけたのが、カトリーヌに付いているマリア・サルヴィアーティから話されたことだった。

 彼女はある晩、教皇の一行が投宿している一画に、イッポーリトを訪ねてきたのだ。イタリア半島にいるときから常に冷静沈着だと皆に言われていた彼女にしては珍しく、感情が外に出ているようだった。そして鋭くイッポーリトに問う。

「イッポーリト、どうしてあなたはここに来たの?」

 イッポーリトは何と答えるべきか分からず、しばらく黙ってマリアの顔を見つめていたが、ようやく、「彼女を見守りたかったのです」とだけ告げた。それは嘘ではなかった。しかし、マリアは歪んだ表情で首を横に振った。
 マリアの髪を覆うヴェールが揺れている。
「ええ、あなたはそれで気が済むのかもしれないわ。でも、カトリーヌはどうかしら。あの子は王子と結婚するのよ。王子だけを一生愛すると誓い、王子に身体を任せ、子どもを産むの。女にとって、それはとても重いことなのよ」
「僕だって……分かっています」とイッポーリトは気圧されたように小さい声で言う。

「いいえ、あなたは分かっていないわ。カトリーヌはフランスにたくさんの本を持ち込んだけれど、それはどうしてだと思う? あなたよ、あなたなのよ! 本はカトリーヌとあなたをつなぐ唯一のものなの」

 今度はイッポーリトの表情が歪む。マリアはそれを見て言い過ぎていると判断したようだ。そして、いつもの静かな声で再び話しはじめた。

「イッポーリト、カトリーヌは今もあなたのことが好きなの。おそらくずっとずっとあなたを思っていた。心の支えでもあったのでしょう。それは私の母からも聞いていました。そして今も、ずっとあなたがあの子の心の中にいるのです。本の、あなたが献じたページの文字はずいぶん滲んでいました。それでも、別の男性に嫁いでいこうと自分を律しているのです。あなたが見守りたいという気持ちは分かるわ。でもカトリーヌを本当に愛しているのなら、あの子の前に出るべきではない。あなたの姿が目に映ったら、あの子はどんなに苦しむでしょう。私はあの子にそんな思いはさせたくないのです」

 イッポーリトはがくんと肩を落とした。不本意ながら自分の情けなさに涙がこぼれそうになった。マリアの言うことはまったくその通りだった。カトリーヌの目の前に現れることは、彼女をひどく傷つけることになるのだ。

 それでも、イッポーリトは会いたかった。
 ただ、カトリーヌに一目会いたかった。
 しかし、それはわがままでしかない、と彼は認めなければならなかった。

「分かりました。カトリーヌには決して会いません」とイッポーリトはマリアに約束した。
 マリアは寂しげに微笑んで、つぶやくように言う。
「ジョヴァンニ叔父がもう少し長生きしてくれたら、こんなことにはならなかったのに……」
 ジョヴァンニ叔父、すなわち先々代の教皇レオ10世のことである。レオ10世はカトリーヌとイッポーリトを結婚させるつもりだったのだ。

ーーーーーー

 イッポーリトはマリアとのやりとりを思い出している。そして、「見守りたい」という自分の思いが、「会いたい」、「渡したくない」という本心の隠れ蓑に過ぎないと痛感するのだった。

 マルセイユ港の夕暮れにカモメが影になって飛び去っていく。もう戻らなければならないが、イッポーリトは波間の光をただ追っているばかりだった。

 カトリーヌ、いやカテリーナ、僕は今でもきみのことが愛おしい。僕にキスしてくれたきみの唇は、もう僕のものではない。すねてむくれた愛くるしい顔も、本のページをめくる丸い指先も、もう僕のものではない。もう数日後にはきみは神に王子と永遠の愛を誓い、そして……。

 もう二度と僕の手には戻らない。

 イッポーリトは胸をかきむしられるような気持ちだった。
 地中海の美しい夕景も、その焦げ付くような後悔を鎮めることはできなかった。

 そこからさほど離れていない宮殿の一室で、カトリーヌは静かに本を読んでいる。
 そして、ひとつぶ、涙をこぼした。
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