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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
婚礼前夜 1533年 マルセイユ
しおりを挟む〈教皇クレメンス7世、カトリーヌ・ド・メディシス、フランス王フランソワ1世、王子アンリ、マリア・サルヴィアーティ、イッポーリト〉
教皇クレメンス7世のガレー船団は、1533年10月11日にフランス・ヴィルフランシュの港にその偉容を現した。この時代の常なのだが、国賓が訪れるときには港の沖合に停まっている舟から祝砲が発せられるものである。このときも例外ではなかった。スペインのガレー船とマルタ騎士団のガレー船が待ち構えていて、ドン、ドン、と華々しい歓迎の合図を送ったのだ。これは聖体と教皇それぞれに捧げられるものである。
しかし、これらは呼び水に過ぎなかった。
教皇の船団はほどなくマルセイユに向かうのだが、そこではさらに派手な出迎えが待っていた。マルセイユに停泊しているすべての船舶が、国賓のガレー船団を取り囲んでいる。
マルセイユはフランスきっての港なので、取り囲む船もかなりの数である。港には国王の家臣団がずらりと並んで教皇の上陸を待っている。それだけではない。地元の住民もこぞって遠巻きに海に目をこらしている。皆教皇の姿を一目見たいのだ。かの人はカトリック教会の長であり、神の代理人なのだ。実際16世紀についていえば、クレメンス7世より前の教皇がフランスを訪れた例はない。
その姿を目にするなど生涯に2度とない機会である。こぞって集まるのも自然なことかもしれない。
さて、このように記しているとこの祝祭の本筋を見失いそうになる。教皇の行幸はあくまでも、結婚式の副次的な位置付けなのだ。ただ、教皇がほうぼうを巡るのも必要な事情があった。
6年前のローマ劫略でローマカトリック教会は決して磐石ではないということを内外に知らしめてしまった。もちろん神聖ローマ皇帝とはその後和解をはかり、皇帝は文字通りローマの守護者となったので、国際政治の舞台では一件落着している。しかし、それでルター派が消えてなくなったわけではない。その勢いは一向に収まることなく、ルターに同調する者は神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の外にも続々と現れていたのだ。
教皇がフランスに到着したこの頃、教会の改革を自分の使命だと発心した学者もパリに現れている。彼はこの3年後に『キリスト教綱要』を刊行し、世に改革の狼煙(のろし)を上げることになる。
のちにルターと並ぶ改革の旗手となる、ジャン・カルヴァンである。
それに加えてオスマン・トルコの勢力伸長も無視できない状態が続いていた。
そのような状況にクレメンス7世も危機感を持っていた。先代教皇のハドリアヌス6世が着手して、無念にも途中で終わった教会改革を進める気はあまりない。外交の力で「上から抑え込む」ことに腐心していたのである。
それがときには薄氷を踏むような危ういものであるということを、教皇は気づいていなかったのだろうか。さじ加減をひとつ間違えればとんでもないことになるとローマ劫略のときに学ばなかったのだろうか。大切なのは政治上の取引ではなかったのだ。
そして今度は身内の娘をフランスに送ることで、バランスを取ろうとしていたのだ。
いずれにしても、婚姻の契約は履行される。
この祝祭の中心の行事はフランスの王子と教皇の姪(正確には姪ではない)の婚礼なのだ。そのヒロインであるカトリーヌは教皇がマルセイユに入るよりほんの少し早く、現地入りしていた。
教皇がどう考えていたかはともかく、フランス側の準備は万全だった。教皇とカトリーヌがマルセイユの市街地に入るとき、大砲300門が一斉に放たれ、凄まじい轟音がマルセイユの隅から隅まで響き渡ったのだ。
イタリアから来た人々は迎賓のための邸宅で一夜を過ごした後で、このときのために建造された木製の城に案内された。早く建てることができるから木製の城なのだが、内装は王宮からの調度品も大量に持ち込まれ絢爛豪華といってもよいものだった。
イタリア勢を接待する役は国王フランソワ1世の側近であるオールバニー公からモンモランシー伯爵に、そしてデュプラ枢機卿、ブルボン枢機卿、グラモン枢機卿ら高位聖職者が離れず付いていた。そして、花婿と、花婿の父がわずかに遅れてマルセイユに到着した。10月13日のことである。市への入城は教皇とその姪の出迎え時と相応以上に盛大だったが、国王なのだから当然である。
結婚式は10月23日と決まっている。その間に国王と教皇は今後の政治に関わる取引について膝を付き合わせて相談することになる。フランス王は花嫁の持参金として相応のものを求めていたが、教皇は色よい返事をしていなかった。持参金というのは、具体的にはイタリア半島の領地である。フローリン金貨としての持参金もだいぶ値切られていたので、フランソワ1世はここで教皇の譲歩を得ようと躍起になっていたのである。
そこに婚礼の話はほぼない。それはもうフランスが準備を進めているのでもう詰めなければいけないテーマもないということだ。
カテリーナは運ばせた荷物から聖書をまっさきに取り出していた。そして次に、ニッコロ・マキアヴェッリの『君主論』を出した。そして寝しなに読むために寝台のわきに置いた。しかし、マルセイユに着いた夜、気が昂っていたせいかよく眠れなかった。
なので今夜はばたんと倒れそうなほどの眠気に襲われていた。祈りの言葉を口にするのが精一杯だ。カトリーヌは『君主論』を抱いたまま、すうっと眠りに落ちていった。
マリア・サルヴィアーティがそっと部屋に入ってくる。そして眠りこけているカトリーヌを見る。彼女は脇に『君主論』が置いてあるのを見つける。このままにしていたら本を傷めてしまうだろうとマリアは思い、それを手に取る。
パラパラとページをめくってみる。
「こんな難しい本をよく読むものね」とマリアは小さくつぶやく。そして、最後の一葉に手書きで書かれた文字を見つける。
「献呈 カテリーナへ イッポーリトより」
マリアはその文字を見てすべてを理解した。
そして、本をそっと寝台の脇に戻すと部屋のドアをそっと閉めた。
マリアはそこからかなり離れた一画に歩いていき、別のドアをノックした。部屋の主はマリアを見つけると軽く驚いている。
「マリア……どうして僕がいると……」と言ったきり、言葉が継げなくなっていたのはイッポーリトだった。
「お話があります。少し時間をいただきたいの」
マリアはきっぱりと言った。
その頬には涙のかわいた跡があったのだが、もう判別できないほどになっていた。
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