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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

マジャールの抵抗 1531年 ローマ

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〈カテリーナ・ディ・メディチ、オルレアン公アンリ、ディアンヌ・ド・ポワティエ、フランス王フランソワ1世、イッポーリト・メディチ、ルクレツィア・サルヴィアーティ、マリア・サルヴィアーティ、コジモ・メディチ〉

 フランス王の第2子、12歳のオルレアン公アンリが激しく恋慕の情を抱いているのは、ディアンヌ・ド・ポワティエという女性だった。カテリーナやアンリより20年長である。既婚であるが、華やかで蠱惑的、俗にいえば「女ざかり」ということである。12歳の女の子がたちうちするのは難しい。
 ディアンヌが言っていたように、カテリーナが彼女の遠縁なのは事実である。2人の系図を4代遡ればオーヴェルニュ伯ベルトラン・ド・ラ・トゥールにたどり着く。
 その娘の孫がディアンヌであり、息子の孫がカテリーナだ。そのような縁戚関係にあったことから、ディアンヌはカテリーナをアンリの妻にするよう、王のフランソワ1世に熱心に働きかけていた。それがあったから王もカテリーナの母系の「オーベルニュ伯の子孫」という点に注目するようになったのだろう。
 幸い、フランソワ1世はこの件に関して、あちらに行ったりこちらに行ったり迷うことはなかった。カテリーナの系譜だけがその理由ではない。イタリア半島の中心であるローマと、華であるフィレンツェに縁を作るのが現実的であり、形而上的な理由だった。何しろフランス王はイタリア文化に並々ならぬ愛情を抱いていたのだから。
 周囲が身分のことをとやかく言って反対の弁を述べたとしても、王は万事こう言ってしのいだ。

「アンリは王太子ではないのだから、メディチの娘が王妃になることはない」

 それでは、ディアンヌはなぜカテリーナをアンリの妻に推したのだろう。これには縁戚を勧めることによって自身の家を盛り立てたいという考えもあるだろうが、どちらかといえば、女性ならではの計算が主なようにも見える。

 アンリはディアンヌに夢中になっている。

 まだ恋愛に長けていない男子が年上の女性に憧れ、場合によってさまざまな手ほどきを受けるというのは珍しくない話である。相手が既婚女性であれば、「公にはできない」恋の炎が燃えたりもするだろう。ときには焦げ付くこともあるのだが。
 ディアンヌはずっとアンリの気を惹いておきたかった。そのためには外交官いわく、やせっぽちの12歳の子どもーー要するに女性としての魅力に欠けている相手を添わせてしまえばいい。そうすれば、ずっとアンリはディアンヌを「L' Amant」(恋人)として側に置いてくれる。そのようなことになるのだろう。

 カテリーナはまだ何も知るよしもない。まったく不本意な話だった。



 カテリーナは再び、フィレンツェに帰る。
 婚礼のときまで、そこに留まるのだ。
 フランスに行くことも、王子アンリと結婚することも、すでにカテリーナには伝えられている。

 ローマのコロッセオで話してからすぐに、ふたりは追いたてられるようにフィレンツェとハンガリーに出発することになった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、カテリーナ。あなたとイッポーリトがこんな風に離れなければならないなんて! 私の力不足だわ。いつも肝心なときにあなたを助けてあげられない……」

 ローマでの保護者であるルクレツィア・サルヴィアーティは目に涙を浮かべてカテリーナに詫びていた。カテリーナは驚いた。ルクレツィアが謝ることなど何もない。それどころか母親と同じだけの愛情を惜しみなく自分に与えてくれたのだ。それをここまでしてくれたのは、ルクレツィアだけなのだ。
 イッポーリトと離れなければならないのは、確かに胸がつぶされそうになるほどつらいことだった。
 しかし、カテリーナはそれをルクレツィアのせいにするつもりはかけらもなかった。

「ああ、おばさま!そんなことはどうかおっしゃらないで。お願いです。それに、おばさまと離れることがどれほど悲しいか、あなたはきっとお分かりにならないでしょう。どれほどおばさまに感謝しているか、あなたはきっとお分かりにならないわ」

 ルクレツィアはカテリーナをひしと抱きしめて泣きじゃくった。カテリーナはルクレツィアの柔らかくてよい香りのする胸に埋もれて、亜麻色のつけ毛がふわふわと滲んで揺れているのを見ていた。

 ルクレツィアはフィレンツェに発つ可愛いカテリーナのために、できる限りの心配りをしていた。彼女の娘、マリア・サルヴィアーティをフィレンツェのカテリーナの側に養育役として置くよう、クレメンス7世に直談判したのである。
 さすがにそれぐらいの要請は受けなければ、メディチ家に亀裂が入りかねない。そして、ルクレツィアはさすがに大ロレンツォの娘である。マリアをフランスまで帯同させて養育役として務めさせることも約束させたのである。

 マリア・サルヴィアーティは『黒隊のジョヴァンニ』の妻である。
 ジョヴァンニがローマ劫略のとき、ポー川で神聖ローマ帝国軍に果敢に切り込んで壮絶な死を遂げたことは先に書いた。彼はメディチ家の中でも、いやイタリア半島でも生え抜きの軍人だった。それは彼の母の血筋によるものだろう。母の名はカテリーナ・スフォルツァ、ミラノのコンドッティアーレ(傭兵隊長)の家柄で、本人も勇敢に甲冑を着けて戦った。有名な女傑である。

 寡婦となったマリアは忘れ形見のコジモを連れてヴェネツィアに避難していた。それをフィレンツェに呼び寄せるのである。さすがにコジモまでフランスに行かせるわけにはいかないが、カテリーナと同じ年、フィレンツェにいるわずかの間でもよい話相手になるだろう。

 カテリーナの出発が間近になったある日、イッポーリトが彼女の部屋のドアを叩いた。
「はい、どうぞ」
 招き入れたカテリーナは目を丸くした。

 エンジの厚手の外套を身にまとい、鼻の下と顎によく整えられた髭をたくわえ、頭にはエンジ色の、つばなしの帽子を載せている。そこには大きな孔雀の羽が付いている。この時期のイタリア半島では奇妙、という言葉がもっとも適切かもしれない。少なくとも枢機卿(すうききょう、すうきけい)の出で立ちでは決してなかった。

「あれ、おかしいかい? 実はこれで肖像画を描いてもらおうと思っているんだ」
 カテリーナはくすっと笑う。
「イッポーリト、教皇さまに叱られるわ。マジャール人(ハンガリー人と同義で使っている)の衣装なのね」
「さすがカテリーナ! ご明察。だけど、本で見たことのある三角の帽子がどうしても見つけられなくてさ」
「私も本で見ただけ。きっと同じ本でしょう」とカテリーナはうなずく。
 
 ちなみにしばらくのち、イッポーリトは本当にこの姿で肖像画を描かせた。描いたのはヴェネツィアの大家、ティッツィアーノである。

 イッポーリトは笑顔だ。

 ハンガリーに行くので、現地の民族衣装を身に付けている。もちろん枢機卿がそんなことをするのは許されていない。これはクレメンス7世に対するイッポーリトのささやかな抵抗なのだ。
 自分の意思を何も尊重されることなく異国に赴かなければならない。しかも、フランスやイングランドではない。オスマン・トルコと神聖ローマ帝国の狭間で政情が不安定なハンガリーだ。どう考えても、遠い所にやってしまおうという意図しか汲み取れない。

 その抵抗の背景はカテリーナにもすぐ飲み込めた。そしてカテリーナも彼女の抵抗を始める決意を固めていた。
 ただし、その抵抗は大叔父のクレメンス7世に対するものではなかった。

「カテリーナ、もうすぐお別れだね」

 カテリーナは涙を流してうなずく。

「ぼくはハンガリーで、自分にできることをしようと思う。マジャール人の真似をするような、小さいことじゃない。確かにハンガリーには教皇の命で赴く。でも、逆にバチカンから、クレメンス7世から、いや、ジュリオ・ディ・メディチから離れることができるんだと考えることにする。これはぼくの自由への道なんだ」

 カテリーナは涙が溢れるのを止めることができない。そして、濡れる目でイッポーリトをまっすぐ見つめる。

「イッポーリト、あなたと私はずっとおじさまや戦争に邪魔されてばかりだったわ。覚えているかしら。私が小さい頃あなたと結婚するかもしれないと言ったこと」
「ああ、覚えているよ。本当に可愛い求婚者だった」
 イッポーリトは懐かしそうに遠い目をする。

「それはもう、叶うことはないのね」

 イッポーリトは顔をゆがませる。
 カテリーナは涙を流しながら、無理に微笑んでみせる。そして、息を吸うと絞り出すようにゆっくりと言った。

「私はね……イッポーリト、もう運命に……木の葉のように振り回されるのは止めようと決めたの」

 イッポーリトは首を傾げる。カテリーナはまだ微笑んで続ける。

「あなたがハンガリーで自分の自由への一歩を踏み出すなら、私もそう。私、私ね、決めたの」

「何を決めたんだい? カテリーナ」

「フランス王の子と結婚するのなら、私にはできることがある」

「それはどんなこと?」とイッポーリトが真剣な顔になる。

「この、大きなロレンツォの頃からずっと、ずっと、ずっと、ずっと30年以上も続いている、この下らない戦争を終わらせるの」

 イッポーリトはその言葉を聞いて、雷に打たれたようになった。
 目を見開いてしばらく微動だにしなかった。
 そしてゆっくりと、言葉を発した。

「カテリーナ……ぼくが愛しているきみは、誰よりも高貴で美しい最高の女性だ。もう何も言えなくなってしまうじゃないか……いや、ぼくはきみにあげられるものがあった」

 今度はカテリーナが首を傾げている。

「ぼくが持っているマキアヴェッリの本を、いやフィレンツェに置いてあるすべての本を、フランスに送らせるよ。それらは決して、きみの邪魔にはならない。フランス語ばかりでくたびれたときにはきっと慰めにもなるよ!」

 カテリーナはそれを聞いたとたんに心の堰がこわれて感情が溢れ出すのを覚えた。そしてマジャール人の出で立ちをした恋人に抱きつく。

 ふたりはそのまま陶酔の中に沈んでいった。
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