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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
持参金交渉 1531年 ローマ、フォンテーヌブロー
しおりを挟む〈カテリーナ・ディ・メディチ、教皇クレメンス7世、ガブリエル・ド・グラモン司教、フランス王フランソワ1世、王子アンリ(オルレアン公)、ディアンヌ・ド・ポワティエ〉
サルヴィアーティ夫妻がカテリーナの行く末を案じている間に、クレメンス7世はすでにあらかたのことを決めていた。ただし、当事者以外には極秘にしている。
カテリーナをフィレンツェに戻すのはイッポーリトと引き離す、あるいはサルヴィアーティ夫妻の関与を外すのが大きな理由だったことは間違いない。サルヴィアーティ夫妻が教皇の考えに賛同していないのは明らかだった。だからといって縁戚の銀行家を咎めるのは無理がある。
それならば当事者のふたりを遠くにやって、離してしまえばいい。もっとも簡単な方法だ。
スコットランド王の縁者であるオールバニ公がフランス王フランソワ1世の大使として現れたことは、カテリーナの婚姻に向けての第一歩になった。オールバニ公は直接色よい返事を受け取れなかったが、次の大使が矢継ぎ早にローマに送られる。フランス・タルプのガブリエル・ド・グラモン司教である。
ちなみにタルプといえば、トゥールーズから西に進んだピレネー山脈の麓にあるが、現代はここを目指す旅人が引きもきらない。19世紀にこの地で一途に信仰に生きたベルナデッタ・スピルーゆかりの地なのである。
ベルナデッタは聖女になり、近隣のルルドは聖地になった。
16世紀に戻る。
グラモン司教はクレメンス7世と有意義な話し合いを持つことができた。教皇言うところの「メディチ家の小公女」に最上の相手を取り次ぐ案件である。教皇はすでに自分の心を決めていたので、話はとんとん拍子に進んでいく。
カテリーナの相手について、まだ触れていなかった。
フランソワ1世の二男、王子アンリだ。年齢はカテリーナと同じで、誕生日も20日ほどしか変わらない。かつてのミラノ公・ルドヴィーコ・スフォルツァとベアトリーチェ・デステのように、23歳の差がある例も珍しくなかったので、それだけを見ればぴったりの縁組に見える。
クレメンス7世にとって、吟味に吟味を重ねた結果がフランス王の王子だった。イタリア半島の貴族ではなく、フランスの王子である。それがローマとフィレンツェ、もっと具体的に言えば教皇庁とメディチ家双方に利益をもたらすものだったのだ。
ここから4年前のローマ劫略以後、ローマはフランスとは犬猿の仲である神聖ローマ帝国と明らかに近づいていた。あれだけの惨事をもたらした国を寛容に赦したのだ。代わりにフィレンツェを奪回するなどの条件がつけられたのだが、フランスにとってそれは屈辱以外のなにものでもなかった。
だからといって、フランスがいつまでもローマに敵対しているわけにはいかない。フランソワ1世はこの期に及んでもまだイタリア獲りに踏み出すことを諦めていなかった。なので、屈辱を噛みしめながらローマとの糸を何とか繋ごうとしていたのだ。
クレメンス7世にしても、フランスはパッと手放せるほど軽い存在ではなかった。イタリア半島の周囲をぐるりとカール5世が握ったとしても、フランスはイタリア半島と踵を接して、広大な国土を持つ国なのだ。
これがカテリーナの縁談の背景である。彼女の母親がフランス人で、王室にも繋がる貴族の出だったこともそれを後押しをした。
この時点で、クレメンス7世とフランス王の特使との間で具体的な調整、交渉が持たれる。「政略結婚」がどういうものか具体的に分かる例でもあるので、その調整の中身に少し踏み込んでみよう。
何よりも重要なのは、カテリーナの側の持参金である。金だけではない。フランス王は当初イタリア半島のレッジオ、モデナ、パルマ、ピアチェンツァの領有を求めるつもりだった。また、カテリーナの父親がかつて公爵領として持っていたウルビーノも持参金のリストに入れるよう要求した。しかしそれらの地域はどれも教皇の所有物ではない。平和と引き換えにイタリア半島を守護する役目を担っている神聖ローマ帝国の許可を求めなければならなかった。実質的には無理な注文だということだ。
クレメンス7世はこの後、持ち前のしたたかさを存分に発揮して交渉を有利になるように導いていった。持参金は10万エキュに下げられた。王家に嫁ぐ相場ならば、倍は欲しいところだ。そこからさらにクレメンス7世は粘った。フィレンツェにカテリーナが持っている親譲りの財産も含めて10万エキュにするよう求めたのである。カテリーナの財産がどれほどだったのか確実ではないが、かなりの額が10万エキュから差し引かれることになった。
この頃のエキュを現在の金額に換算するのは困難だが、18世紀後半の1エキュが約3000円の価値だったという。そのまま適用はできないが目安として見れば、約3億円ということになる。
カテリーナは、ヨーロッパに広く取引先を持つ大銀行家メディチ家の嫡流の娘である。フランス王は当然、それにふさわしい金額がポンと出されるものだと思っていたはずだ。しかしそれはまったく期待外れの結果になった。
とんだ吝嗇家(りんしょくか)だ!
これは、「とんだ食わせものだ!」というのと同義だっただろう。交渉したグラモン司教も、それを伝えられたフランソワ1世も嘆きを抱いて天を仰いだに違いない。
だからといって、フランスは交渉のテーブルから下りるわけにはいかない。クレメンス7世には、「他の選択肢もある」と仄めかす余裕があったのである。ここで話をご破算にされて、カール5世のところに駆け込まれでもしたらどうなることか。
有利なカードを持っているのはクレメンス7世のほうだった。いや、有利なカードを持っていると示すのに長けていたと言った方が正確かもしれない。
フランソワ1世はどうにも悩ましい状態になっている。
この縁談には宮廷内にも難色を示す者が多かったのである。
メディチ家は貴族ではなく商人である。戦争で王のために戦って名誉を得た家ではない。カテリーナの母はフランスの貴族だが、それほどの娘ならヨーロッパ中にいくらでもいる。王太子(次の国王)ではないアンリの相手だとしても、まったくふさわしくない。
そのような意見が宮廷に渦巻いていた。
何より、当の王子アンリがこの縁談に乗り気ではなかった。
◆
フランス・フォンテーヌブローの深い森の奥に王の宮殿がある。フランソワ1世はブロワにあった宮廷を5年ほど前にここに移していた。
ブロワの城アンボワーズ城はかつてチェーザレ・ボルジアが結婚式をした場所である。また、近隣のクロ・リュセ城ではレオナルド・ダ・ヴィンチが亡くなっている。
イタリアの人々に縁のある場所だ。
そして、フォンテーヌブロー城の建造にもイタリア半島からやってきた人が関わったという。
ひとりの貴婦人が王子アンリの部屋を訪れる。
鎖骨よりかなり下まで開いた、柔らかい仕立てのドレスを身に纏っている。そこに収まっているたわわな豊穣のしるしがはっきりとわかるようだ。わずかに後れ毛を出して高めに結い上げた髪型も含めて、ありのままにいうならば、女性であることを強調する装いだった。
「オルレアン公、あなたは今度の縁組を嫌だと駄々をこねていらっしゃるの? お兄様が嘆いていらっしゃいましたよ」
オルレアン公と呼ばれた少年、つまり王子アンリは気だるそうな顔をして言葉の主を見る。
「ええ、大使からの通信によれば痩せた女の子だそうで、特別美しいというわけでもなさそうだ」
その言葉を聞いた女性は意味ありげに微笑む。
「王子であるあなたが、そんなことをおっしゃっるなんて品がありませんよ。それに、女性というのは、年齢を重ねないとその真価が分からないものですわ。何より……メディチ家のご令嬢のおじいさまと私のおばあさまはきょうだいですから、私にとって他人ではないのです」
「じゃあ、あなたは僕の結婚に賛成なのですね」
アンリは少しムスッとしてつぶやく。
「ええ、もちろんですわ」
アンリは突然立ち上がって、微笑む彼女の腕を自身に引き寄せる。女性はよろけてアンリの身体にしがみつく体勢になる。少年は頭を下げ彼女の豊かな胸に顔を押し付けて、駄々をこねるように訴える。
「知っているくせに、僕が夜も眠れないほど夢中になっているのが誰だか知っているくせに。ディアンヌ、どうしてそんなに残酷なことが言えるんだ」
「オルレアン公、今はこのようなこと……」とディアンヌは言いかけたが、続けることはできなかった。
アンリの唇が彼女の言葉をふさいだからである。
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