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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
この人と生きていきたい 1531年 ローマ
しおりを挟む〈カテリーナ・ディ・メディチ、教皇クレメンス7世、ルクレツィア・サルヴィアーティ、アレッサンドロ、イッポーリト、教皇レオ10世、チェーザレ・ボルジア〉
カテリーナはローマの教皇庁を訪問する。
その中心にあたるサン・ピエトロ大聖堂はこのとき、旧来の姿から生まれ変わろうとしていた。ただ、それにはたいへんな時間がかかっていて、まだまだその姿を仰ぐには至っていない。工事中のアーチが高くそびえ立つ異景がカテリーナの前に広がっている。
(この絵のサン・ピエトロ大聖堂の姿になるのはおよそ100年後になる/著者注)
「今は建築中なのね」とカテリーナは随行するルクレツィア・サルヴィアーティに尋ねる。
「ええ、ずっと建築中なのよ」とルクレツィアは応じ、大聖堂について説明を始める。
「もう、何代前になるのかしら、アレクサンデル6世という教皇さまの頃から建て替えの話が出ていたの。それから次の教皇さまのときにブラマンテという人が設計までしたのだけど、着工されずじまい。その次があなたの大叔父さまの一人、レオ10世よ。その時はラファエロ・サンティに設計案を作らせたのだけれど、それも着工されずじまい。結局、クレメンス7世が引き継いでいるのだけれど、ローマにランツクネヒトが襲来してそれどころではなくなってしまったでしょう。それで今また新しい設計案を作っているところ。さながら、行き先の分からない船のようなものね」
ルクレツィアは意識していないだろうが、サン・ピエトロ大聖堂建て替えの話をするだけで、ローマの16世紀初頭の歴史が語れるようだ。
「アレクサンデル6世って、チェーザレ・ボルジアのお父さまでしょう」とカテリーナは言う。
ルクレツィアは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして驚く。
「あなたはよほど勉強が好きなのね、びっくりしたわ。そう、チェーザレはね、ピサ大学でジョヴァンニと同窓だったの」
ジョヴァンニとは、教皇レオ10世となったジョヴァンニ・メディチのことである。
もっと簡単にいえば、レオ10世はルクレツィアの弟である。加えていえば、現在の教皇クレメンス7世は彼女のいとこである。
「そうなのですか。メディチ家ともご縁のある人なのですね」
「そうね、とても頭がよくて……とんでもないことを実行した人だったと聞きました……でも、もう昔のことね」とルクレツィアは空を見上げる。
カテリーナも空を見上げる。
メディチ家にも歴史があるけれど、それは決してメディチ家だけのものではない。いろいろな人が関わってできあがった歴史なのだ。マキアヴェッリが『君主論』で称賛していたチェーザレ・ボルジアも決して何の関わりもない「過去の人」ではないのだ。
メディチ家の当主はアレッサンドロが務めることになったが、自分もきちんと学んでメディチ家の一員であることに誇りを持って生きなければならない。
そのようなことをぼんやりと考えながら、カテリーナは教皇と謁見する室内に移動する。
「おお、カテリーナ!こんなに大きくなったのか。フィレンツェのアレッサンドロからの手紙で目にはしたが、百聞は一見に然ずとはよく言ったものだ!」
カテリーナは初めて教皇クレメンス7世を仰いだ。正確にいえば、カテリーナがクレメンス7世と面会するのは初めてではない。曾祖母のクラリーチェ・オルシーニに抱かれてローマにやってきたことがあったのだ。ただ、それは乳児の頃だったので、今のカテリーナの記憶にはない。
彼女は驚いた。
肌が浅黒く、唇が厚く、髪の毛に強いくせがあるアレッサンドロとは違うが、立ち居振舞いや背格好は実にそっくりだった。つい先頃までカテリーナはアレッサンドロを自分の兄だと思っていたので気にしたことがなかったが、今はすべてを知っている。そのせいだろうか、とカテリーナは思う。
しかし、それを割り引いてもよく似ていることは間違いなかった。
「可愛い小公女よ、これまであなたに辛い思いをさせて本当に申し訳なかった」
そう言って、クレメンス7世はカテリーナに近づいてきて、詫びた。
カテリーナの背後に立つルクレツィアは冷ややかな目で教皇を見る。本当にそう思っているのだろうかという不信の念がちらりと伺える。
カテリーナはまっすぐに教皇を見上げてこう告げる。
「教皇さま、こうしてお目にかかることができましたのは、すべて神のお恵みがあったからでございます。わたくしは修道院にいる間ずっと、教皇さまをはじめ、メディチの人々が無事でありますようにと、イエスさま、マリアさまに毎日お祈りしておりました。ただ残念なことに、黒隊のジョヴァンニさまは天に召されました。わたくしは、ルクレツィアおばさまをお慰めすることで、ローマの日々を過ごさせていただきたいと存じます」
「カテリーナ……あなた……」
背後に立つルクレツィアが思わず声を上げた。
3年あまり前、ローマ劫略のとき真っ先に神聖ローマ帝国の軍隊、ランツクネヒトに立ち向かって戦死した黒隊のジョヴァンニ。その名がこの場で出てくるとは誰も思っていなかったのだ。
黒隊のジョヴァンニはメディチ家の傍流の出であるが、ルクレツィアの娘マリアの夫だったのだ。未亡人になったマリアと忘れ形見であるコジモのことをルクレツィアはたいへん心配していた。カテリーナがそれを知っていることに、ルクレツィアは驚いたのである。
真相をいえば、それはけさ、イッポーリトがカテリーナに知らせたことだった。ただ、教皇の前でそれを言ったらよいという趣旨ではない。それをカテリーナは汲み取って、自分の思いとして、堂々と教皇に伝えたのである。
教皇はこの娘が賢く思慮深いことをすぐに見てとった。ジョヴァンニの話が出たのは想定外だったが、ほぼ満点を付けられる返答だった。
「小公女と言ったのは訂正しよう。あなたは苦境にあったにも関わらず、立派に成長してくれたようだ。偉大な父なる神のお恵み以外のなにものでもない。アーメン」
このやりとりの間、ルクレツィアは感動のあまり、身体を震わせていた。あの小さなカテリーナが何と凛とした、清らかな心を持つ人になったのだろうと思うばかりだった。
この子をなんとしても守っていかなければ。
「ルクレツィア、カテリーナの世話をこれからもよろしく頼む」と教皇が告げる声がする。
「はい、神に誓って、大切に養育いたします」
ルクレツィアは心からそう答えたのだった。
◆
その晩も、サルヴィアーティ家では和やかな食事のときが訪れ、一同が心ゆくまで楽しんで過ごした。その間、カテリーナはずっと視線を感じていた。イッポーリトが彼女をずっと見つめていたのだ。
カテリーナは以前もらったイッポーリトの手紙を思い出していた。何度も何度も読んで、もう暗記してしまった。特にその最後の部分は。
それが修道院で暮らすカテリーナにとっての、生きる力だったのだ。
〈カテリーナ、生きてくれ。
フィレンツェが跡形もなく壊されても、
きみは生きてくれ。
そして、ぜったいにまた会おう。
ぼくは、待っている。
愛している。カテリーナ〉
それを書いた人が、今、私をじっと見ている。
カテリーナは軽いめまいを覚えていた。
自分の思い続けた人が、自分を愛しているという。それが、からだの芯までしみ渡ってくるのを感じたのだ。
こわい。
自分がどうなってしまうのか分からないような感覚が彼女を襲っていた。
カテリーナは食事に集中するようにいったん顔を下げた。そして、ふたたび顔を上げる。
イッポーリトは微笑んで彼女を見つめている。
カテリーナはその瞬間に、強い感情が心の底からわき上がってくる気がした。
この人と一生ともに、生きていきたい。
カテリーナの胸のなかにはその言葉だけが響いていた。
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