16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

カテリーナが見つけた写本 1531年 フィレンツェからローマ

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〈カテリーナ・ディ・メディチ、アレッサンドロ・メディチ、ニッコロ・マキアヴェッリ、教皇クレメンス7世、ルクレツィア・サルヴィアーティ、イッポーリト・メディチ、ミケランジェロ・ブォナローティ〉

 カテリーナは教皇クレメンス7世に呼ばれて、フィレンツェからローマに行くことになった。

 その前に、カテリーナは慣れ親しんだメディチ邸の中をゆっくりと回って歩く。ここには幼少の頃からの思い出がたくさん詰まっているのだ。

 カテリーナがこよなく愛していた中庭には季節の花が美しく咲いている。その合間を抜けてカテリーナは、自分のために用意された子馬がもういなくなったことを思う。今はカテリーナよりずっと大きくなって、どこかの家で立派に働いているのだろう。そう考えれば彼女の気持ちも落ち着くのだった。そして彼女は2階の、アーチ型の柱が並ぶ一角を見上げる。彼女は目を細めてしばらくそのまま立っている。かつてそこに立っていた人のことを思っているのだ。
 屋内に戻ると長い廊下を進んで階段を上り、礼拝のための部屋に入る。

 この邸宅の中で最も美しいのは、この礼拝堂かもしれない。東方三博士の礼拝からイエス・キリストの誕生まで、時間が流れるように描かれたフレスコ画が壁を覆っている。まるで、イエス・キリストが生まれた晩に入り込んでしまったような気持ちになる。フィリッポ・リッピなど、当時もっとも高名だった画家が描いたものだ。
 カテリーナは祭壇の前まで進み膝まずく。そして祈り始める。幼少の頃からずっとそうしてきているが、このとき彼女の心は真に敬虔なものになっていた。それは、この3年の間修道院で暮らしてきたことが大きい。受けてきた苦難や冷遇、それを上まわる愛情が彼女をそうさせていたのだった。
 彼女は特に、アレッサンドロのために祈っていた。僭主、いや今後は君主としてフィレンツェを治める立場になるアレッサンドロ、彼が市民たちに愛され、この国を平和のうちに治めてくれることを心から祈ったのだ。

 そこに、彼が酒に酔って大切な秘密を暴露したことに対する不信感はなかった。

 アレッサンドロはこれまでにも激しく感情を表すことがあったが、その底には何かとてつもない不安があったようにカテリーナには思える。ランツクネヒトたちがローマに進路を取ったとき、いち早く逃げ出そうと言い出したこともそうだ。
 もしかしたら、自分が教皇の実子だということを知っていたから、危機感を感じていたのかもしれない。教皇はローマの主人のような存在だからーーそこまで考えて、カテリーナは悲しげな表情になる。

 きっと、イッポーリトも知っていた。アレッサンドロがじきに君主に引き上げられることも予想できた。だから、わたしが婚約者の話をしたとき、「カテリーナは他の人のお嫁さんになるんだと思うよ」と言ったのね。

 カテリーナは礼拝堂を出ると、階段を上りイッポーリトが過ごしていた部屋に向かう。そして中庭を見下ろせる一角に至ると、しばらくそこで立ち止まる。

 イッポーリトはここで、わたしが中庭で遊んでいるのを見ていたのね。そのとき、どんなことを考えていたのかしら。じゃじゃ馬娘が馬に乗っていると苦笑いしていたのかもしれないな……。

 そしてカテリーナは、今は誰もいないイッポーリトの部屋のドアをそっと開ける。そして、書物が整然と並べられた棚を眺める。マキアヴェッリの『ディスコルシ』の文字も見える。カテリーナは胸に熱いものがこみあげてくるのを感じる。この本のことを嬉しそうに話していたイッポーリトの姿が鮮やかに甦ったのだ。
 ふと、イッポーリトの机を見ると、そこには本の形ではなく、綴じられただけの写本がひとつ無造作に置いてあった。カテリーナはそのページをめくる。そしてその表紙を見る。

〈IL PRINCIPE
DI NICOLO MACHIAVELLI,

AL MAGNIFICO LORENZO
DI PIERO DE MEDICI〉

ー君主論
 ニッコロ・マキアヴェッリ著
 
 ロレンツォ・マニーフィコと
 ピエロ・ディ・メディチに捧ぐー

 ウルビーノ公ロレンツォ(マニーフィコは尊称である)はカテリーナの父であり、ピエロは祖父である。すなわち、メディチ家二代の当主に捧げられたものである。
 カテリーナは突然、雷に打たれたような感覚を覚える。そして何かに取り憑かれたように文字に目を走らせ、ページをめくっていく。そして、その動作を繰り返して最後までたどりついた。彼女は軽い興奮状態にあった。そして表紙に戻る。
 改めてじっくりそれを眺めた。するともうひとつ片隅に人の名前が手書きで走り書きされている。
〈IL DVCA VALENTINO〉
ーヴァレンティノ公爵ー

 カテリーナは書物の中にその名前を見た。

〈民衆からヴァレンティーノ公と呼ばれたチェーザレ・ボルジアは、父親の運命によって政体を獲得し、同じものによってそれを失ったが、彼としては他者の軍備や運命によって譲り受けたあの政体のなかで、自分の根っ子を張るために、賢明で有能な人物がなすべき一切の事柄を行ない、手立てのかぎりを尽くしたのではあった。なぜならば、先に述べたように、前もって土台を築いていない者であっても、大きな力量の持主であれば、後になってこれを固めることができないわけではないから。ただし、建築家のほうはひどい苦労をし、建造物には危険を伴ってしまうが。したがって、もし公の歩んだ来歴をつぶさに熟慮してみるならば、彼が将来の権勢のために大きな土台を築いていたのが看て取れるであろう。これを論ずるのが余計なことである、と私は判断しない。なぜならば、彼の行動の実例以上に、新しい君主にとってすぐれた規範を示してくれるものを私は知らないから。そして、彼の行動様式が実益をもたらさなかったとしても、それは彼の罪ではなかったのである。なぜならば、それは甚だしく極端な運命の悪意が生み出したものであったから〉(※1)

 カテリーナはそこに書かれているチェーザレ・ボルジアがどのような人だったか知らない。大昔の人物ではないが、カテリーナが生まれる前に亡くなったと言われている。この文章から推察すると、その人は君主として見本となるような度量を備えていたようだ。

 君主としての度量。
 それをマキアヴェッリという人は、わたしのお父さまと、おじいさまに捧げた。
 メディチ家の当主に。

 カテリーナはその写本を持つと、イッポーリトの部屋を出た。そして、自分の部屋で荷物をまとめる作業に戻る。




 カテリーナがローマに出発する日、アレッサンドロがローマまで供をする者たちを引き連れてメディチ邸に現れた。アレッサンドロはローマには行かない。カテリーナの見送りだけしに来たのだ。ローマに出発する一団も加わっているが、人数は50を優に越える。カテリーナが想定していたよりもはるかに多かった。その先頭に立って、黒い帽子、黒いマントを身につけたアレッサンドロは悠々と馬を御してゆっくりと下りる。彼は長身だ。黒いマントを着るとさらに背がスラリと高くなる。

 カテリーナが手を差し出すと、アレッサンドロがそっとキスをする。アレッサンドロは彼女の背後を見て尋ねる。
「あれ、荷物は本当にあれだけでいいのかい? ちょっと、少なすぎやしないか」
「ええ、お兄さま。修道院には何も持っていかなかったし、今回もそれほど荷物はないの」とカテリーナは微笑む。そして侍女に声をかけて、自分の手持ちの荷物が入った鞄を受け取り、そこから書物を取り出す。アレッサンドロは不思議そうにカテリーナの様子を見ている。
「お兄さま、この本なのですけれど……」と言って、カテリーナは写本を渡す。すると、アレッサンドロは表紙もろくに見ないうちに、首を小刻みにプルプルと振って、カテリーナに言う。
「政治学の本は苦手だ。セネカもプラトンもはなっから匙を投げたからな。きみが読むなら、旅のお供に持っていけばいいさ」

 カテリーナはアレッサンドロにどのような言葉をかけたらいいのか分からなくなってしまった。表紙を見れば、それがメディチ家当主に提言したい内容が書かれているということがすぐに見てとれる。
 しかし、アレッサンドロはそれに何の興味も持たなかった。
 カテリーナは書物を侍女に渡して、再度鞄に収めておくように言った。アレッサンドロの希望通り、旅の供にすることにしたのだ。
「そうさせていただきます。ありがとう」
「ああ、道中、神のご加護がありますように」とアレッサンドロが淋しそうに微笑む。

「お兄さまも、お身体をお大事になさってください。この3年のうちに起こったようなことが、もう二度とないことを神に祈ります」

 アレッサンドロは何度もうなずくと、カテリーナの旅の列を見送るために道を開けた。



 カテリーナを待ち受けるローマでは、教皇クレメンス7世が日々の務めにいそしんでいる。ローマはきれいになった。3年前のローマ劫略で亡くなった人々は埋葬され、燃やされた家は取り壊され、うち壊された建物は修繕され、うち壊された彫像は一端取り払われた。
 教皇庁の美術品は無事だった。ラファエロの描いた『アテナイの学堂』をはじめとする数々の壁画にしても、ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画『天地創造』も大過なくそこにあった。

 クレメンス7世によるローマ復興は着々と進んでいた。教皇が執務机に座って文書を確認しているとき、フィレンツェからの通信吏がやってきて教皇の脇で膝まずいた。
「ミケランジェロ・ブォナローティさまが見つかりました」
「おお、そうか! どこかに逃げていたのか? フィレンツェの町で隠れるのは不可能だったろう」
 通信吏は首を振って否定する。
「それが意外なところに。ずっと建築中のメディチ家礼拝堂の地下室に隠れていました。自宅に戻るよう話しましたので、今はもう自宅にいるでしょう」
 教皇はそれを聞いて笑う。
「ああ、それは賢いことだ。メディチの建物にはいろいろ工夫がしてある。それで、今は?」
「長く隠れていたので、少し体調を崩されています」と通信吏は落ち着いた声で報告する。

 クレメンス7世は同情を込めて言う。
「十分静養したら、ミケランジェロにローマに来るよう伝えてほしい。もちろん、旅費も滞在費も支払う」
「はい、確かに」と言って通信吏は去っていく。
 クレメンス7世はその背中を見ながら、ひとりつぶやく。

「システィーナ礼拝堂には、ローマカトリック教会の中心にふさわしい、壮大な祭壇画が必要だ。そしてそれは、天井画を見事に描いたミケランジェロ以外には任せられない」



 教皇庁とティベレ川沿いに向かい合うような位置に、銀行家であるサルヴィアーティ家の別邸がそびえ立っている。銀行家がティベレ川沿いに別邸を建てる例は他にもあって、キージ邸も近くに建っている。
 ここでは当主の妻であるルクレツィアが忙しくあちらこちらへ動き回っている。愛らしいカテリーナがもうすぐローマにやってくる。彼女が安心して暮らせるよう、カテリーナの部屋の装飾や調度を整えるのに大忙しなのだ。

「叔母さま、そんなに慌てていると付け毛が落ちてしまいますよ」
 階段からその様子を眺めて、イッポーリトがルクレツィア・サルヴィアーティに声をかける。ルクレツィアはきっとしてイッポーリトを見上げる。
「あなたはいつも高見の見物をして、もう、悔しいったら! でも、私はこうしているのがとても楽しいのよ」
「僕も楽しいです」とイッポーリトが微笑む。

 ルクレツィアは素直に微笑むイッポーリトを見て、ウィンクを斜め上に飛ばすとまた持ち場に戻っていった。

※1 引用『君主論』(マキアヴェッリ著 河島英昭訳 岩波文庫)
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