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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

生きてくれ、愛している 1530年 フィレンツェなど

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〈ミシェル、フランソワ・ラブレー、カテリーナ・ディ・メディチ、教皇クレメンス7世、イッポーリト、皇帝カール5世、ミケランジェロ・ブォナローティ、バティスタ・デッラ・パッラ〉

 さて、ミシェルはモンペリエの夜、9歳年上の還俗した学生フランソワ・ラブレーと夜の町に繰り出し、ありていに言うならべろんべろんに酔っぱらって、若者にありがちな一種の洗礼を受けた。

 ラブレーの強烈な個性に匹敵するものではないが、この時期のモンペリエ大学にはなかなか興味深い人材が集まってきていた。
 まずはのちに医師・著述業に携わるリシャール・ルーサである。彼はミシェルと大いに気心を通じることになる。続いて、ギヨーム・ロンドレである。この人は後に解剖学者への道を進むが、大学の頃から一風変わっていたようで、ラブレーも興味を持って親しく付き合うことになる。ラブレーが興味を持つほどだから、同じぐらい個性的だということだ。体型は異なるものの、風貌は通ずるものがあった。
 目がぎょろりとしている。
 ラブレーに初めに捕まったとき、ミシェルはラブレーを猛禽類のような目だと感じたが、ロンドレにも同じことを感じたことだけ書いておこう。

 モンペリエ大学医学部ではこの頃、小さな芽がちらほらと顔を出しはじめていた。それは、フランスという国に大きな刺激を与えることになる。それは、パリ大学バルバラ学院でイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルが集い、大きな一歩を踏み出すのとほぼ同じ時期にあたる。フランスでは国王が捕虜になってしまい、その後でローマ劫略という大惨事も起こった。オスマン・トルコもウィーンへの侵攻を続けている。ヨーロッパ全体にはまだ不安が蔓延している。その中から、新しい流れが生まれていることは注目に値する。それはイタリア半島で咲いた芸術の花とは異なるものだった。

 偶然によって、稀有な個性であったり才能にあふれる人たちが同じとき、同じ場所に会することがある。そこで彼らは自分の持つ個性なり、才能をお互いに触発し合い、大きく花を咲かせて外に飛び出していく。

 イタリア半島で戦乱が起こっている。
 しかし、王や王子が屈辱を味わっていたフランスでは、何はともあれほぼ以前通りの土地を担保されている。ランツクネヒトやオスマン・トルコも踏み込んではこない。
 見方を変えるならば、これは敗者だからこそ得られた平和だった。もちろん、王は敗者のままでいたくはなかっただろうが、そのおかげで、いくつもの芽が踏みにじられることなく残ったのだろう。




 一方、メディチ家を追い出したフィレンツェでは、緊迫感が高まっている。
 ローマ劫略の収拾をはかった『貴婦人の和約』の調印が済むと、さっそく教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世はフィレンツェをメディチ家に取り戻す算段をはじめた。そして、フィレンツェ共和国政府と神聖ローマ帝国の間で交渉が持たれる。メディチ家をフィレンツェに迎えるならば、神聖ローマ帝国軍は手出しをしないという条件で話し合いが持たれた。
 そして、フィレンツェ側はそれを拒否した。

 1529年10月、交渉は決裂した。
 神聖ローマ帝国軍は集結し、フィレンツェに歩をすすめる。フィレンツェ共和国の市民軍、いや、市民全体が臨戦態勢を取って皇帝軍の襲来に備えている。
 その市街地に二人の男が立っている。
 ミケランジェロ・ブォナローティと共和国の指導者であるバティスタ・デッラ・パッラだ。ミケランジェロは憮然としている。いや、よく見ると濃く生えた髭に隠れた口元は何かにこらえているかのように不自然に結ばれ、目は落ち窪み生気がない。バティスタは友人でもあるこの芸術家の様子を見て、励ましの言葉をかける。

「確かに、一気に決着をつけるのならば、私たちに勝ち目はない。ただ、ローマが襲撃されたことに学ぶ余地はある。あのランツクネヒトたちは給金が待ちきれずに反乱を起こし、ローマに一気に進軍したのだ。時間を稼げば、敵はかならず仲間割れを起こす。持久戦であれば勝算はある。きみが設計した要塞はそのとき大いに役立つだろう」

 二人は防護壁や防御柵で覆われた市街に進む。ところどころで武器を手にする人々に出会う。土嚢を積める作業をする人々にも出くわす。女性も子どもも手伝っている。いつもならば、アルノ川からサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂を望んでその美しさに心から安堵するのだが、今の、戦闘を控えた景色の何と殺伐としたことか。そう心でつぶやきながら、ミケランジェロはやりきれない思いを抱いていた。
「ほら、きみが設計した要塞だ。難攻不落といってよい。もうほぼ完成したんだ」
 バティスタの言葉にミケランジェロはハッと我に帰る。その目の前には大きな要塞が築かれ、威容を誇っている。
 その要塞はこれまでにはない形のものだった。真上から見ればそれは五芒星を一部変形したように見える。フィレンツェの最後の砦、サン・ミニアート要塞だ。『ダヴィデ』が見守る都市にふさわしい建築物といえるが、それは来たる戦いに備えるだけのものなのだ。ミケランジェロはこれを築いたフィレンツェ市民たちの労苦を思う。そして、再び自分の仕事をかみしめる。

 ものを創るのが自分の生涯の仕事だ。

 しかし、この十数年を振り返ると、その矜持に値するだけの仕事はほとんどできなかった。どの仕事も依頼主の都合で迷走し、宙に浮き、しまいには訴訟まで起こされた。どの仕事も完成することを許されなかった。俺がここ十年で形にできたものといえば……この要塞だけだ。
 そして俺はいくつも依頼も受けて、クレメンス7世、いやメディチ家に世話になっているのに、今は対抗する側に立っている。この要塞がその厳然たる証拠ではないか。確かに、バティスタたちの言い分は理解する。共和国政府のみんなのことも支持しよう。ただ、俺の最上の顧客はクレメンス7世なのだ、
 ものを創ることだけに生きたい。
 誰に付くとか付かないとか、そんなことはどうでもいいのだ。そんなことに関わっている時間はないのだ、
 そして、そんなことのせいで、美しいこの街がローマのように壊されたら、いったい誰が責任を取るというのか。

 ミケランジェロは嘆いていた。

 もうすでに、ランツクネヒトを含む皇帝軍、そして教皇軍も加えた総勢4万の軍勢がフィレンツェの周囲に集結しはじめた。

 そのとき、フィレンツェのムラーテ修道院にいた11歳のカテリーナはどうしていただろうか。籠城するのであれば、ムラーテ修道院はフィレンツェでも指折りの優れた建物である。ただ、ここは修道院で、中にいるのは修道女だった。ローマ劫略のとき、ランツクネヒトたちが修道女に何をしたか、みな承知している。「いざとなれば、自身らが楯になってカテリーナを逃がすようにしよう」とシスターたちは話し合っていた。

 それは皇帝軍たちがフィレンツェを取り囲むほんの少し前のことだった。カテリーナのもとに一通の手紙が届く。おそらく、教皇軍の誰かに託されたものだろう。カテリーナは手渡された手紙をシスターから受け取り、部屋に戻って読み始めた。「イッポーリト」という署名を見つけて、彼女は思わず涙を浮かべる。懐かしい、愛しい人の文字だった。カテリーナはその文字を、恋人の肌を撫でるように触れてみる。

 カテリーナはもう十分に、恋することが自然な年齢になった。

〈カテリーナ、

 ぼくは今、きみのことをとても心配している。フィレンツェに向かっている皇帝軍もメディチ家の人間は無事に保護すると約束しているけれど、戦闘においては予測不可能なことが起こるのもまた事実だ。叔父様(教皇クレメンス7世)にも、カテリーナは早くローマに逃がしてもらうように言ってみた。でも、修道院にいるなら大丈夫だとそればかりだ。神の代理人がそう言うのであれば間違いはないと、自分を納得させることしかできない。
 あと、これは知らせておかなければいけないね。
 フィレンツェのことに結果が出たら、アレッサンドロがメディチ家の当主として、指導者としてフィレンツェに帰ることになる。これまでのように商人出身の指導者ではなく、イタリア半島の守護者たる神聖ローマ皇帝からフィレンツェを拝領するんだ。そのあかしに、アレッサンドロは皇帝の娘マルガレーテとの婚約が進められている。

 ぼくは……アヴィニョンの大司教になれと叔父さんに言われた。司祭にもなっていないのに、いきなり大司教になれるなんて、神の代理人は何でもできるんだね。でもぼくは、叔父さんの決めた道を進むことに疑問を感じている。今は答えを保留しているところだ。いずれにしても、フィレンツェの行く末を見るまで、ぼくはローマから離れないよ。

 カテリーナ、きみを最後に見たのはもう3年も前のことだ。

 あの前に、ぼくとアレッサンドロがフィレンツェから逃げる前に、ぼくはきみを守ると言った。それなのに、きみを置いて、ぼくは逃げ出さなければならなかった。それがどんなに苦しかったか。それを忘れたことはなかった。

 ぼくはきみが揺りかごを卒業した頃から、ずっとずっと見てきた。歩き始めて、走り、転び、馬を操り、跳び跳ねる。きみが成長していく姿をすべて見てきた。そして、顔をくしゃくしゃにして笑う、顔の部分をすべて真ん中に寄せてむくれる、そして口を面白いぐらい、への字にして泣く。決して絶世の美女ではないけれど、ひどく愛らしい、ぼくの天使だ。
 いつの間にか、きみはぼくの心に深く住みついていた。きみと結婚できるなら、妻にできるならどんなによかっただろう。ジョヴァンニ叔父さんがもっと長く生きていてくれたら、きっとそれは現実になったのに。
 もう言っても仕方のないことだ。

 カテリーナ、生きてくれ。
 フィレンツェが跡形もなく壊されても、
 きみは生きてくれ。
 そして、ぜったいにまた会おう。
 ぼくは、待っている。

 愛している。カテリーナ。

              イッポーリト〉

 手紙を読むカテリーナの胸に、熱く激しい感情がわき起こった。それは尽きることなく、心の奥底から奔流のようにあふれだし、誰にも止めることはできないだろうと思われた。彼女は感じたことがないほど、自分の鼓動が早くなるのを感じている。そして、わけもなく涙が次々と頬を伝っていることに驚く。
 それは喜びの涙だった。
 しばらくカテリーナはその喜びに浸っていたが、ふっと手紙の最後のことばに応えるようにつぶやいた。

「わたしは必ず生きて、生き延びて、
 あなたのもとに行くわ」
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